第2章
つくりものの宇宙
2−1
天文学部の部室に行くのは当然はじめてのことだった。天文学部がふだんどんなところで活動しているのか知らんし、そもそもどこに部室があるのか知らなかった。こんな校舎のへんぴなところにあったら一生気づくことはなかっただろうと心底うなずくほどには、天文学部の部室はへんぴなところにあった。有事の際にはロボに変形しそうな巨大望遠鏡でも使って天体観測しているのかとすら想像していたが……しかしのぞいてみたらなんてことはない、理科の授業で使うような望遠鏡や単眼鏡、双眼鏡がいくつかならんでいるだけだ。まあそりゃそうか。しがない公立高校にそんな設備があるはずもない。
元・天文学部の知り合いがいる長縄の情報によると、いまの天文学部の部員は井原さんたったひとりらしい。もともと部員数が少ないうえに井原さんは部の活動にあまり参加せず、長縄の知り合いもほぼ幽霊部員みたいなものだったので、しだいに部員数が減っていったんだという。現在天文学部の部員名簿にある名前は井原美夜の一名のみ。活動実績なし、活動実態なし……名実ともにこの高校の「弱小部活動」の一角をなす部活だ。
俺は扉の窓から部室のなかを見渡した。部室に井原美夜の姿はない。それは当然のことのように思えた。なにせふだんから部活に来ていないのだ。俺がこうして部室をたずねて来たときに限って、ひょっこり顔を出しているとは思えない。部活に来ずになにをやっているのかは知らないけど……いまここに彼女がいないことは事実だ。
(いない、よな。また来るか……)
井原美夜に逢う、という単純な目的のためには、なにも天文学部の部室である必要はなかった。彼女のクラスは一年一組であることがわかっているのだから、教室をたずねて「井原さんはいますか」とそのへんの後輩に訊けば、すぐに彼女を呼んできてくれるだろう。
でも、それだとだめな気がしていた。あの臨時の全校集会のあとに見た井原美夜の「浮きっぷり」を見るに、クラスメイトたちは彼女のことをあまり良くは思っていないんだろう。そんななか見知らぬ先輩が教室まで彼女をたずねて来たら、クラスメイトはなにごとかとささやき合うに違いない。そうなると、余計な邪推を呼ぶかもしれない。考えすぎかもしれないが、あまりリスクを取れる場合でもない。
だったら、現時点で部員一名、その部員以外が通ることもたずねることもない、ここ部室で捕まえることが手っ取り早いように思えた。
(まあ、そもそも井原さんが『まったく』部活に来てないんだったら、ここでこんなことしてても逢えるはずないんだけど)
でも俺には、この場所でまた彼女に逢えると確信していた。
たしかに来ているのだ。
「ほとんど」来ていないだけであって、「まったく」来ていないわけではない。
部室のまんなかに据えられた机の上に目をやる。そこには天文学にはおよそ関係なさそうな大きなジャムの空き瓶と、綺麗に丸められたアルミホイル、そして簡単な照明装置が置かれている。なにに使うのかはさっぱり見当がつかなかったが、俺にその不思議な道具たちの用途をじっくり考えている余裕などなかった。俺の意識は、その道具のとなりに置かれているお菓子のパッケージ、そしてその横に転がっているボールチェーンのキーホルダーに、俺の意識は否応なく吸い込まれて行く。
(……ロック熊)
ケバケバの衣装と化粧に身を包んで、派手な楽器を振り回して弾いてすらいないクマのマスコット。切れかけの照明に照らされた公園で、俺が彼女にあげたもの。「これ好きなんです」と言ってうれしそうに笑った、あの笑顔に俺を繋ぎとめるしるし。
まちがいない。
彼女はこの部室に来ている。
あんな売れ残り商品のチョコレートを好き好んで食べてる高校生は俺の周りには俺くらいしかいないし、あんな珍奇なマスコットを前にして「かわいい」というのは井原さんしかいない。つまり、天文学部の部室にあるあのロック熊は、まちがいなく井原さんのものだ。
それは俺があのとき公園であげたものとは違うヴァージョンのもののようだった。衣装や髪の毛の色、振り回しているギターの色が違う(クマの目の色は相変わらず白目を剥いているが)。彼女自身が自分で買ったものだ。きっと部室に来たときにチョコレートを半分食べて、残りをあとで食べようと取っておいてあるのだろう。
たしかな彼女の残り香。
俺はそれを確かめて、部室を後にした。
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