1−9

 ふたたび足許に視線を落とす井原さん。そのようすを見て、俺はふたたび「どうして?」と問いかける。

「……お金が必要なんです」

「お金?」

「そう。どうしてもお金が要るんです」

 森屋先輩が言っていた、女の子が援助交際をする「メイン」の理由。それはお金がほしいから。遊ぶ金がほしいとか、ブランドものの洋服がほしいとか、そういう理由だ。ふつうのバイトをするよりは実入りがいいから。まあ、たしかに俺みたいに最低賃金で労働力を換金しているよりかはよほど実入りがいいだろう。でも、そんな簡単な理由で、目の前の女の子が身体を売っているようには思えなかった。

「どうしてお金なんか」

「逃げ出したいんです、ここから」

 予想もしなかった返答に、一瞬言葉につまる。逃げ出す?

「わたし、親いないんです」

「……昨日逢ったときに聞いた。俺も母親しかいないから」

「そうなんですね。わたしは、まだ小さいころに事故で両方亡くなったみたいで。だからいまは、遠い親戚のところに住んでるんですよ、そこぐらいしか身寄りがなくて」

 なんとなくその先は想像がついた。その「遠い親戚」とは、おそらくあまりうまくいってないんだろう。

「その親戚夫婦は仲悪くて険悪で、わたしの居場所はそこにはなくて」

「居場所」

「はい。遠い親戚の高校生なんて、赤の他人みたいなものですよね。わたし自身、あのひとたちがわたしとどういう繋がりなのか、よくわからないんです。わたしをだれが引き取るか決めるとき、家系図の線の上をあみだくじみたいにたどって行って、偶然行き着いた先があの夫婦だった、そんなふうに思ってます」

「そんな……」

「わたしのおばさん、ちょっとおかしいんです。わたしのこと、ほんとうに気に入らないみたいで。家のなかで目が合えばいつもにらまれるし、街なかでも平気でわたしのこと罵倒してくるし。事故で死んだ両親引き合いに出して、『親子そろってろくでもない』とか言ってくるんです。わたし、もうぜんぜん意味わからなくて」

「……」

 吐き出すような井原さんの口調を聞きながら、俺は言葉を発することができなかった。

「学校のお金とかお昼代とか、そういうの自分で稼がなくちゃいけなくて。お金ないからあんまり遊べないし、そのせいで友だちいないし、学校も退屈だし、おもしろいことなんてひとつもないし、なんだかひとりぼっちで、檻に閉じ込められてるみたいで、ああ、はやく逃げ出したいなあって」

「……どこへ行くの?」

 俺のその問いに対して、彼女は黙ってスマホを操作し、俺に差し出してきた。わけがわからんまま受け取り画面を見ると、そこにはひとつの画像が表示されていた。

 綺麗な星空。

「そこに行かなくちゃいけないんです。その景色を、わたしはぜったいに見なくちゃいけない」

「どこだよここ」

「アイルランドです」

 俺は思わず眉根を寄せた。「アイルランド……?」

 アイルランドは、たしかヨーロッパの国のひとつだ。イギリスのとなりにある小さな島国。歴史の表舞台に出てくるような国ではないので、日本で知名度は低いように思える。

 でも、どうしてそんなところに?

「アイベラ半島」

「あいべ……なに?」

「世界一きれいな星空が見られる場所なんです。わたしはどうしても、そこに行かなきゃいけないんです」

 俺は彼女を見つめた。井原美夜。天文学部。北斗七星。『天の光はすべて星』。ぜったいに見なければならない星空。それぞれの言葉がとなり合うパズルのピースみたいに、それこそ見えない線で結ばれた星座のように、すこしずつ輪郭を帯びていく。

「そうだ、先輩」

 彼女の表情にふと影が差した。

「わたしの身体、買いませんか? 先輩ならサービスしちゃいます。三万円でどうですか? いくらでもわたしのこと好きにしていいですよ」

 苦しそうに言って彼女はまたぎこちなく微笑む。口角をむりやりひん曲げたような笑顔。公園の照明だけに照らされた夜の底で、彼女の端正な白い顔はぼんやりと浮かんでいた。

 なんてこと言うんだ、そんなことするわけないだろ……俺はそう言いかけて、やめた。言えなかったのだ。もし仮に俺が三万円を払ったら、彼女は行きたい場所に行けるのだろうか。きらめくネオンや切れかけの照明に照らされた深い夜の底から、彼女は逃げ出すことができるんだろうか。

「諦め」。森屋先輩が言った言葉が、俺の心のやわらかいところを容赦なくえぐる。綺麗な星空を見に行かなくちゃならないがために、彼女は自分の存在に値段をつけて、定義して、束縛しようとしているんだ。

「三万円。福澤諭吉三人分。こんなえらいひとの三人分も、わたしに価値があるとは思えないですけど……それでも、いまのわたしには必要なことなんです。ね、先輩、どうですか?」

「……やめろよ」

 俺は力なくつぶやいた。自分でもなんて言ったのかわからないくらいだったが、しっかりと彼女に届いたらしい。

「……先輩」

「やめろよ」俺はもう一度言った。「そんなことしたって、きみのためになんてならない。アイルランド? ナントカ半島? そんなわけわかんないところ、行かなくたっていいじゃないか。援助交際なんてやめて、もっと自分をだいじに——」

「なにがわかるんですか」

 突き刺すような井原さんの声が、暗い闇に沈む公園に響いた。ヴ、ヴヴヴ、と夜の底を照らす照明が明滅する。

「先輩になにがわかるんですか。昨日逢ったばかりの先輩に、わたしのなにがわかるんですかっ。わたしのため? 自分をだいじに? そんな聞こえのいい言葉なんてわたしには要りません。いままでだれもそうしてくれなかったから、自分でもそのやり方がわからないから、わたしはこんなに、こんなに——」

「ごめんっ」

 俺は思わず謝った。その言葉で彼女の叫びは止まる。

「……いいんです。先輩が謝らないでください。わたしがもっとみじめになるだけです。こちらこそすみませんでした」

 井原さんはそう言いながらベンチを立った。そして右手でスカートのほこりを払う。身を守るような漆黒の長い髪が彼女の表情を隠し、こちらからうかがい知ることはできない。

「高科先輩、今日はありがとうございました。助けてくれてうれしかったです。お逢いできるときがあれば、また」

 その言葉を残して、彼女は行ってしまった。夜の闇に消えていく井原さんの後ろ姿を見つめながら、俺は手を握りしめた。手のひらのなかであのメモが、さらにぐしゃぐしゃになっていくのを感じた。

 ふと、彼女が座っていたベンチの足許に視線を落とす。そこに落ちていたものを拾い上げ、俺はじっと見つめる。

 ボールチェーンのキーホルダー。『ロック熊』。

 これを受け取ったときに見せた、井原さんのうれしそうな笑顔を思い出す。あれはうそじゃなかった。彼女はあのとき、心の底から微笑んでいた。夜の底に沈む街のなかで、ふわりとあたたかな灯りをともすような笑顔。俺の心はそのとき、その笑顔に魅せられてしまったんだ。

 ——だれか助けて。

 あのメモに残された七文字のメッセージに、俺は応えてあげなければならない。悪い男にホテルへ連れ込まれそうになっているところを助ける、それだけではない。彼女がむりやり口をひん曲げて笑う、ほの暗い夜の底から、彼女を引っ張り上げてあげないといけない。

 けれど、俺にそんなことができるんだろうか。彼女が言ったとおり、俺たちは昨日逢ったばかりだ。井原さんのほんとうの気持ちなんて、俺にわかるんだろうか。彼女が行きたいという世界一綺麗な星空へ、あるいはそれとおなじくらいたいせつな場所へ、彼女を連れて行ってあげることが、はたして俺なんかにできるのだろうか。

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