1−8
彼女の歩みは、駅の反対側へ抜けてすこし歩いたところにある、小さな公園で止まった。なかに入り、小振りのベンチに腰掛ける。俺が荒れた息を整えながら横目で見ると、彼女はやや離れたところにあるもうひとつのベンチに腰掛けたようだった。
ようやく暮れはじめた空は茜色に染まる。さあ、さああ、と公園を吹き抜ける風が木の葉を揺らす。
「あぶないとこだったな」
「……」
彼女は反応しない。じっと自分の足許を見つめている。
「めっちゃ走って疲れた……そうだ、これ食べる?」
かばんからあるものを取り出して、彼女のもとに歩み寄った。コンビニで売っているチョコレートの駄菓子だ。バイト帰りによく食べている、俺のなけなしの食料だった。
「……」
井原さんはそれをしばらく見つめたあと、小さくうなずいて受け取った。パッケージを開き、なかから一粒取り出して口に放り入れる。
「……おいしい」
そう言った井原さんの口許が、ほんのすこしだけ緩んだように見えた。見知らぬおじさんや俺に向けたぎこちない笑顔ではない、なにかから解き放たれたみたいな笑顔。
「これ……」
井原さんはチョコレートのパッケージに同梱されている小さな箱を眺めた。
「ああ、おまけのおもちゃだよ。『ロック熊』っていうんだ。クマが楽器弾いてるだけのマスコットなんだけど」
「……そうですか」
「うん。俺、あそこの近くのコンビニでバイトしててさ。たまぁに物好きな子どもが買ってくんだ」
「……先輩は?」
「お、俺は売れない商品の在庫を減らして店の売り上げに貢献してるのと、そ、そのチョコが意外とうまいぞって思ってるだけで、べつにそのおもちゃが好きなわけでは」
あわてる俺のようすを見て、井原さんはくすっと笑みを漏らした。俺は黙って彼女の顔を見つめる。
「好きなんです」
「え?」
「わたし、このキャラ好きなんです」
「……そうなの?」
「はい。開けていいですか?」
俺がうなずくのを待ってから、彼女はその小さな箱を開いた。箱の中から出てきたのは、赤い髪を逆立ててケバケバな化粧をしたクマがへんな形のギターを振り回している、ボールチェーンの小さなキーホルダー。ギター振り回してて弾いてすらいないんだけど、これってこのおもちゃの趣旨として大丈夫なんだろうか。
「ヘヴィメタバージョン、です」
「へ、ヘビ?」
「かわいい」
「え、これかわいいの?」
どう目を凝らして見てもクマが白目剥いててぜんぜんかわいくないんだが……女の子の感性ってわからんもんだな。いや、それは井原さんの感性が独特なんだろうか。
「ふふ……はい、かわいいです」
彼女が笑う。
「あげるよ」
「いいんですか?」
「ああ。俺、そのヘビなんとかってよくわからんし」
「わあぁ、ありがとうございます」
彼女はほんとうにうれしそうに笑った。俺はその笑顔から視線を外すことができなくなった。こんなふうに笑うのか。見知らぬおじさんや昨日俺に向けたぎこちない笑顔とは違う、彼女のほんとうの笑顔。夜の底に沈みはじめた街のなかで、彼女の笑顔はやわらかな灯りをともしているみたいに見えた。
俺はその笑顔を目の前にして、彼女がこのまま光の粒になって消えてしまうんじゃないかという、どうしようもない不安に駆られた。闇を照らす公園の照明は、俺の心中を代弁するかのように、不安定に点いたり消えたりを繰り返している。
俺は彼女に「ここ、いい?」と訊ねた。彼女は小さくうなずいた。俺は彼女のとなりに腰掛ける。
「ねえ、井原さん」
「……」
「どうして、こんなこと」
そう訊くと、しばらくしてから彼女が口を開いた。
「……あのひと、お金を払ってくれなかったんです。やり逃げされないように、お金はぜったい事前にって決めてるんですけど……『あとでかならず払うから』って言って聞かないんです。わたしが断って帰ろうとすると、急に怒鳴りだして暴れはじめて、それで——」
「そうじゃねえよっ!」
思わず大声を上げてしまった。彼女の肩がびくっと跳ねたのを見て、俺は「ごめん」と口にする。
「……先輩には、か、関係ありません」
「ほんとうにそう思うか?」
俺は制服のポケットから、くしゃくしゃになってしまった一枚の紙切れを取り出した。さっきポケットに手を突っ込んだとき、男が勘違いをしてくれてよかった。スマホなんて金がなくて契約できないから持っていないのだ。あのままポケットの中身をひっくり返していたら、このくしゃくしゃのメモしか出てこなかった。男にとっては、なんの意味も重みも、想いもない紙切れ。
でも、俺にとっては違う。ただの紙切れなんかじゃない。だれかに助けを求めるにはスマホよりも原始的で、あまりにも遠回りで、とてつもなく破壊力のあるメッセージ。
「助けてほしいんだろ?」
メモをていねいに開く。すると中から、綺麗な筆致で書かれた七つの文字が浮かび上がってくる。俺を見ながら、彼女は真ん丸の目をさらに見開いた。
「俺がきみを助ける——そうすれば、もう無関係じゃなくなるよな?」
あの日図書室で、『天の光はすべて星』を手に取ったときから、俺は井原美夜と無関係ではなくなっていた。星座の星と星を結ぶ見えない線が引かれたように、俺たちはこの宇宙のなかで繋がり合ってしまったんだ。
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