深いふかい夜の底へ

1−7

 息が切れはじめるころにはバイト先のコンビニあたりまで来ていた。そのまま通り過ぎ、工事現場を迂回して、歓楽街のきらびやかな通りへ足を踏み入れる。昨日よりまだ時間がはやく、店の看板のネオンはまだ眠ったままだ。俺はその通りの一角でようやく立ち止まる。そしてあの路地をのぞきこんだ。すると、路地がなにやら騒がしい。

「ほらッ! はやく来いよッ!」

「や——やめっ……ちょっと、やめて……!」

 ひとりの男が、ひとりの女をむりやり引っ張り込もうとしているのが見えた。女はか細い声を上げながら必死に抵抗している。着ているのは制服だ。漆黒の長い髪を振り乱しながら男の手から逃れようとしている。

 井原美夜だ。

 ぞっとした。あのメモに刻まれた七文字の言葉が頭のなかに響いたような気がして、俺はまた走り出した。俺の姿に気づいた彼女は大きく目を見開く。

「高科先輩……!」

 俺の急接近を見た男はややうろたえた表情をしたが、彼女をつかんだ手は離さずに俺をにらみつける。

「な——なんだおまえッ」

「彼女を放してください」

「なんだって訊いてンだ」

「彼女の高校の友人です」

 男は俺の着ている制服と井原さんの着ている制服を見比べ、うつむいた彼女を横目でにらむ。

「……ガチのガキだったのかよ、面倒くせえな……」

 十八歳に満たない少女を相手にすれば違法行為になる。それをむりやり連れ込もうとしたんだからなおさらだろう。俺という証言者が現れてしまったからには、これ以上ヘタなことはできないはずだ。

「警察に通報します」

 俺はとっさに制服のポケットをまさぐる動作をする。それをスマホを取り出す動作と勘違いした男は、あわてて制止しようと彼女の手を離した。その隙をついて、井原さんが自分のかばんを思い切り男の顔面にブチ当てた。「ぐえッ」とガマガエルみたいな声を上げてよろめいた男の脇を抜け、俺は彼女の手をつかんだ。

「走れ!」

 俺の声を聞いた彼女は、脇目も振らずに駆け出した。俺も彼女の手を引いて、振り返ることもなく走り続ける。この裏通りを抜けるとすぐに駅前だ。男が追ってきているのかどうかもわからないが、この雑踏にまぎれてしまえば跡をつけるのもむずかしいだろう。

 駅の構内に入って俺はすこし速度を緩めた。学校からここまでほぼ走りっぱなしだったのだ、息も上がってもうへとへとだった。立ち止まってちかくの柱にもたれかかろうとする。

「はあ、はあ……ちょ、もう、だめ、そろそろ、限界——」

「まだです、先輩」

 彼女はそう言って俺を追い抜いていく。俺は彼女の後ろ姿を見つめながらついて行った。

「もっと遠くへ」

 なにかに迫られたような、不安のにじむ震えた声。きっと怖かったんだろう。当然だ。力ずくで男につかまれたら、ふつうの女子高生では抵抗なんてできない。あのときあそこに俺がたどり着いていなかったらどうなっていたか、それを考えると身の毛がよだつ。

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