1−5

 森屋先輩に「お疲れっしたー」とあいさつし、俺はコンビニを後にした。時刻は午後七時をすこしまわったところ。この時間でもまだ明るいうちに帰れるから、夏の日の長さはありがたい。陽がすっかり落ちるにはまだ時間があるので、俺は駅前に向かった。

 今日はマンガ週刊誌ジャ○プの発売日だ。最近大注目のマンガが激アツ展開で、はやく続きを読みたいと思っていた。まあ、お金がなくて買うことはできないから、基本立ち読みなんだけれど。生真面目な店員さんに注意されるまえに、気になるマンガは読んでおきたい。

 コンビニから書店に立ち寄るには、駅前の大通りを単純に進むだけでは遠回りになる。なので俺はいつも、近道になる裏通りを使っていた。通りにならぶ店と店の間の裏路地で、人通りなどほとんどない道だ。まるで俺がバイト先から書店へジャ○プを読みに行くためにつくられた道みたいだ。ありがとう、この道をつくってくれたえらい人。

 ……と思ったら、下水道の工事かなにかで昨日から通行止めになっているようだ。俺がバイト先から書店へジャ○プを読みに行くためにつくられた道なんだから、下水道工事なんていらないのに……とえらい人に文句を垂れようと思ったが、俺は先を急ぐ身だ、とりあえず今回は目をつむっておいてやる。それに、「ご迷惑をおかけします」と看板イラストのおじさんがていねいにお辞儀してくれていたので、おじさんに免じて赦してやろう。

 工事現場を迂回し、もう一本裏に入ったところにある道に出た。いつもの裏路地が通れないなら、おそらくこの道がいちばん近い。居酒屋や雀荘などがならぶオトナな感じの正直近寄りがたい雰囲気ではあるけれど、まだ明るい時間なので安全だろう。

(……あれ?)

 その道を歩いていると、脇の路地から男女の二人組が出てきた。男のほうはまさに「おじさん」と呼べるような年齢の見た目で、濃いグレーのスーツを来ている。陽も沈みそうな午後七時すぎ、居酒屋や雀荘がならぶディープな通りなので、仕事帰りのおじさんがふらふらしていてもなんの疑問もないだろう。しかし、俺はその二人組から目が離せない。

 そのおじさんのとなりを歩く、ひとりの女。

 俺の学校の制服を着ている。

 宵闇に沈もうとしている歓楽街。次々と店の看板のネオンが光りはじめる。ぼんやりと動きはじめた夜の世界のなかで、まるでそこだけ光が当たっていないかのような漆黒の長い髪。そのすきまからのぞく端正な白い顔。見覚えのある姿だ。一年の教室の前で寺本の呼んだ名前が頭のなかに響く。

(……イハラ……ミヤ)

 井原美夜がそこにいた。彼女は笑っていた。となりを歩くおじさんに抱きつくようにもたれかかり、笑いながら夜の街を歩いている。俺はふたりに見つからないように電柱の影に隠れた……といっても、井原美夜は俺の顔を知らないはずだし、おじさんなんてどこのだれだかもわからない。だけれど、俺はふたりに見られないように距離を取って後をついていく。

 ふたりが出てきた脇の路地をのぞきこむ。するとそこには、ピンク色の光を発するホテル街だった。

(マジかよ……)

 俺は思わず息を飲んだ。目撃してしまったのだ。井原美夜が見知らぬおじさんと援助交際をしている現場を。

 ふたりの足は駅前に向かっている。俺は一定の距離を保ちつつふたりの後を追う。俺なんでこんなことしてんだろうとは思いつつも、マンガを読みに行くことなどすっかり頭から飛んで行ってしまったのだ。

 おじさんは金を持ってそうだった。スーツのジャケットもスラックスもビジネスバッグも、くたくたにくたびれてはいるが生地のよいお高そうなモノだった。貧乏人にはわかる。お金がなければ手も足も出ない高級品のにおいがする。

 対して井原美夜は制服だ。おじさんと会話しながら楽しそうに歩いている。端正な顔をひん曲げて見せつけるように笑っている。しかしよくもまあ、こんな駅の近くで、しかも自分の学校の制服であんなことできるよな。ばれると思わないのか? そう考えるとなんだか腹が立ってきた。こっちは最低賃金ギリギリでコンビニバイトしてきたってのに、あんたはそうやって笑いながらいい気分になってがっぽり金もらってんだもんな。

 ふたりは裏道から大通りへ出て、駅の目の前の横断歩道を渡った。信号が赤に変わるタイミングで俺も交差点を渡る。駅前の改札で一言ふた言交わしたあと、ふたりは別れた。おじさんが見えなくなるまで手を振ったあと、彼女はきびすを返して改札を抜けようとする。

「……あの」

 とつぜん声をかけられた彼女は、びくっと身体を縮こめて俺を見た。胸の前でかばんを抱え込むようにして持ち、きりっと俺をめいっぱいにらみつける。

「……なんですか」

 南極に吹くブリザードみたいに冷えきった声。桜色の唇から放たれた言葉は、確実に俺にそのとげを向けていた。

「井原美夜さんだよね? 天文学部の」

 俺がそう言うと、細められていた彼女の目がにわかに開かれた。その反応が「どうして知っているのか」なのか、「とうとうばれたか」なのか、なにに対して驚いたのかはわからない。でも、こんなに堂々と学校の制服着て援交してるような人間が、いまさらそんな驚き方をするとは思えない。じゃあ、

「なんでこんなことしてんの?」

 俺が聞きたいのはその一点だけだった。どうしてこんなことをしているのか。媚を売って、笑顔を売って……その身体を売ってまで、なにを手に入れようとしているのか。

「だれですか」

 射竦めるような視線といっしょに彼女が訊ねる。

「俺は……O高校二年の、高科章」

「……」

「きみとおなじ高校だよ。全校集会も聞いてた」

「……言うんですか、先生に、わたしの親に」

 井原美夜の目は変わらず俺を突き刺すように光っている。しかし彼女のまとう雰囲気は、夜の駅の喧噪に消え入りそうなほどはかなく、脆い。

「援助交際してるのは井原美夜だって、言うんですか」

 彼女の声は雑踏にかき消されて行く。俺が一歩彼女に近づくと、それとおなじ分だけ、彼女は後ずさって距離を置く。

「べつにそういうわけじゃ——」

「むだですよ」

 俺の言葉を彼女がさえぎった。「むだです」

 そう繰り返した言葉に、なにが、と問いかける。

「わたし、親いませんから」

「……」

「だから、むだです。先生にばれても、『親御さん』に知らせるって言われても、むだです」

 「諦め」——井原美夜の話を聞いて、頭に浮かんだのはその言葉だった。彼女はなにかを諦めているみたいに見える。なにかたいせつなものを犠牲にして、彼女の望むべつのものを得ようとしているように。

 だとしたら、なんだ?

 彼女はいったいなにを犠牲にして、なにを得ようとしているんだ?

「……『天の光はすべて星』」

 俺のその言葉に、彼女の視線が揺らいだ。

「図書室で借りた本。貸し出しカード見たら井原さんの名前しかなかった。へんなメモがはさんであった。……あれ挟んだの、井原さんだろ? どういうこと? あの七つの文字の意味はなに? きみはなにを伝えたいの?」

「先輩には関係ありません」

 そう言って彼女は目を伏せる。

「関係ないって……まあ確かにそうだけど」

「遊びですよ、あんなの」

 ふふっ、と彼女が笑う。むりやり口角をつり上げたような、ぎこちない笑顔。

「なぞなぞみたいなものです。学校も退屈だし、おもしろいことなんてひとつもないし、ひまつぶしに書いてみただけです。よかったら先輩、解いてみたらいかがですか? 天文学部のわたしからの挑戦状です。こんなことしてるんだったら、どうせひまですよね?」

 ◯◯行き特別快速、三番線よりまもなく発車いたします……駅のアナウンスが構内に響く。それを聞いて、彼女は頭を軽く下げて立ち去った。その後ろ姿が駅の人ごみにまぎれて行くのを、俺はただただ見送るだけだった。

 そっと目を閉じて考える。この感覚はなんだ? 井原美夜のぎこちない笑顔と突き刺すような視線を目の当たりにして、俺のこの心に巣食った感情はなんだ?

 ふたたび目を開くと、もう彼女の姿はどこにも見えなかった。

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