1−4
「おい、高科?」
声をかけられて我に返った。バイト先のコンビニのレジに突っ立って、俺は考えごとをしてしまっていたらしい。
「なにぼけっとしてんだ、時間中だぞ」
「すんません」
先輩の森屋(もりや)さんに注意されて、俺は形だけ頭を下げておく。店内に客はいない。都内とは言えども田舎の部類に入るような閑静な住宅街で、しかもセ○ンやファ○マのような有名チェーンではない小さな店舗だ。利用客は品揃えのよい近くの有名チェーンに集中するため、このようにそれほど遅くない時間帯でも客足が途絶えることがよくある。
「悩みごとか? 聞いてやらんぞ興味ねえし」
「バイトの先輩としてお手本みたいな態度ですね」
「おまえの悩みなんて聞いたって小遣いの足しにもならんからな」
「ひまつぶしにはなりますよ」
「時間中だって言ってんだろ」
「つれないなあ」
俺がそう言うと、先輩はあからさまに溜息をついて「なんだよ」と訊いてくれる。なんだかんだ文句言いながら面倒見のいいひとだ。こんな口調だが森屋先輩はれっきとした女性である。俺にとっていちばん身近にいる女性が森屋先輩なので、俺の女性に対するイメージはどんどん粗雑で横暴で品位のかけらもないものになっていた。まあ、おかげでいろんな相談ごともできるから助かってはいるんだけど。
「……森屋先輩は」
「あ?」
「援助交際をしているときの女の子って、なに考えてると思いますか?」
先輩は「ぶふっ!?」と吹き出した。
「ななななに訊いてんだおまえ、ひとがせっかくまじめに」
「俺もまじめですよ、なんだと思います?」
俺の真顔をしばらく見つめたあと、先輩は息を整えてこう言う。
「……いい感じのいい気分に、なってんじゃねえの? お金もけっこうな額もらうんだろうし、そりゃあ相手が五十のハゲたおっさんとかだったら多少萎えるだろうけど——」
「真っ最中の気分を訊いてるんじゃないですよ、どういう理由でやるのかを訊いてるんです!」
「最初からそう言え!」
店内にふたりの声が響き渡った。すこしばつが悪くなった俺たちは、だれに聞かせるでもなく咳払いをする。
「……金だろ」
「お金、ですか」
「そう。それがメインなんじゃねえの? 遊ぶ金がほしいからとか、ブランドものの服買いたいからとか、だいたいそういうもんだろ。生活を苦にして手を出すやつもいるんだろうけど……私らみたいにこうやってふつうにバイトするより実入りが多いんだから、意外と軽い気持ちで手を出すやつも多いんだろうな、まあ知らんけど」
「……なるほど」
俺がうんうんうなっていると、先輩は怪訝な顔を向けてくる。
「なんでそんなこと訊くんだ? まさか高科、援交してんじゃねえだろうな」
「してないですよ、俺いちおう男ですよ」
「んなこと知ってるよ、私が言ってんのは払うほう」
「まさか。そんな金がうちにあると思いますか?」
「金あったらやんのか」
「いえ、念願のゲーム買います」
「だろうな」
あきれ気味に笑ったあと、先輩はひとつ声のトーンを落として言う。
「……さびしい、ってのもあるんじゃねえか」
「さびしい?」
俺は間抜けな声で訊き返す。
「自分の価値を認められたいとか、どんな形であれ必要とされたいとか、そういう承認欲求みたいなもん。自分の身体に金が払われるってことに、歓びを感じる場合もあんだろな」
「ショウニンヨッキュウ……むずかしい言葉知ってますね、先輩」
「そりゃあ、大学にだって行ってんだから当然だろ」
「先輩すげえ! その大学中退してニートになっていまやこんなコンビニバイトで人生空費してんのほんともったいないっすよ!」
「屈託ないふりして心えぐってくんのやめろ!」
先輩はノリで血を吐く真似をした。俺はバックヤードからモップを取り出してきて先輩の足許をていねいに拭いてやる。
「……まあ」
俺がついでに店内のモップがけ清掃に移行すると、先輩が話を続けた。
「私はどんな理由であれ、知り合いに援助交際なんてしてほしくないな」
「……」
俺は手を止めて先輩を見た。
「『諦め』なんだよ。自分に値段をつけるってことは、そこで手を打つ、妥協するってことだ。『こんなもんでいいだろ』っていう妥協点なんだ。それが高いのか安いのかは知らん、けれど、価値をつけることでそいつの人生はその値段で定義されて、束縛されちまう」
「人生はプライスレス、ですか」
「安っぽい言い方だが、まあそんなもんだな。あと」
先輩はカウンターに置いてある百円ライターの一本を取り出し、手でいじくりながら言葉を繋いだ。
「知り合いがもし援助交際なんてしてたら、私は単純に悲しい」
「……そうですね」
井原美夜という名前。彼女の端正な筆跡。謎の暗号。そして教室の前で見た彼女の横顔。それらが頭のなかに浮かび、ふわふわと漂っては霧散する。
「諦め」——彼女の心にその感情が根差しているのかはわからない。ただ、あのとき図書室で出逢った本に残された美しい名前を思うと、なんだかやり切れない気持ちになるのだ。この気持ちを先輩は、「悲しい」と名付けるんだろうか。
「おまえがなんでこんなことを訊くのかは、私は知らん。さっきも言ったように、聞いたって小遣いの足しにもならんからな」
「……はい」
「おい高科、手が止まってるぞ。まだ時間中だ」
「すんません」
俺は力いっぱいモップで床を拭いた。けれど、この気持ちが床の汚れのように綺麗になくなることはなかった。
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