第1章
天の光はすべて星
1−1
日本というこの国に住んでいて、その国旗を目にする機会ってほとんどないように思う。たとえば退屈な全校集会とか、たとえば運動会とか文化祭とか、あとテレビで観るオリンピックとかサッカーワールドカップとか。そういう催し物でしか見る機会ってないんじゃないだろうか。国旗掲揚、きーみーがーあーよーおーはー、と意味のよくわからない歌をうたいながらずりずり引き上げられていく布……国旗ってそんなくらいのイメージだと俺は思う。
じゃあ、アメリカはどうか。青地に並んだ白星、そして赤白のストライプ。日本とちがってずいぶん陽気な色遣いだ。アメリカには学校の授業のなかに国旗に向かって忠誠を誓う時間があるという。そして街にはいたるところにこの国旗が掲げられているらしい。たしかに、映画なんかたまに見るとそんなイメージだ。アメリカの映画っておもしろいし。ハンバーガーとコーラを手に観る映画は格別だ。そしてその映画のなかに金髪の美女がたくさん出てくるとなお良し。
じゃあ、フランスはどうか。赤と白と青が縦の帯状にならんだ三色旗。二〇〇年以上も前から使われている、長い歴史のある旗らしい。すごくおしゃれな感じがするのはどうしてだろうか。「パリ」って響きもおしゃれだ。俺はフランス人になるイメージを膨らませてみる。赤白青の三色(「トリコロール」っていうらしい)のハンカチーフをブラウンスーツの胸ポケットに挿し込み、シャンゼリゼ通りを颯爽と闊歩する。すると金髪の美女が声を掛けてくる。「あら、キレイな三色ね……いっしょにCafeでもいかが?」「俺は美女と飲むときは、エッフェル塔の頂上と決めているのさ……パリの夜景を眺めながら極上のシャンペイン(シャンパンのことだ)でもどうだい?」「まあステキ……抱かれたい……」「夜景よりもきみのほうがキレイさ……きみの笑顔に乾杯」完璧だ。はやくフランス人になりたい。ただどうやったらなれるかはいまのところわからない。
じゃあ、日本はどうか。「日の丸」「日章旗」——白地に紅色の丸が描かれた単純なデザイン。俺はこのデザインが大好きだ。これ以上ないと言ってもいいくらい単純だからだ。子どもでも五秒くらいで描ける簡単さ。朝、息子の弁当をていねいにつくっているひまがない多忙な主婦たちでも再現できるシンプルっぷり。弁当箱に敷き詰めたほかほかの白米の、その真ん中に梅干しを乗っける、ただそれだけで完成する再現性の高さ。
そう、いままさに、俺の目の前にある弁当のように。
「また日の丸弁当かよ……」
俺はその弁当を見て溜息をついた。てらてらときめ細やかに輝く白米たち。まるで王様の部屋のじゅうたんみたいな威容で弁当箱に整列している。そしてその中央にデデン!と威風堂々御座(おわ)しますのは、ほかでもないただの梅干し。高校に入学して給食という制度の恩恵を受けられなくなって以来、俺の昼間の空腹を満たすのは、小さな箱にぎちぎちに敷き詰められた白米と一粒の梅干しだけだった。いわゆる日の丸弁当。日本というこの国に住んでいてほとんど目にする機会のないそのシンプルなデザインを、俺は二年間ほぼ毎日見ている。
「うわ……章(あきら)、またそれかよ」
友人たちが俺の弁当を覗き込んで不憫そうな顔をする。俺はこの時間があまり好きではなかった。友人たちが親のつくったおかずのたくさんある弁当箱を開いたり、購買で買って来たパンを机の上に広げたりしているかたわら、俺はこの日の丸を拝むのだ。うまそうな骨つき肉やらミニハンバーグやらに友人がむしゃぶりついているのを眺めながら、俺はつやつやと輝く梅干しに箸を伸ばす。
じゃあ、どうして毎日まいにち日の丸弁当なのか。
やはり俺の愛国心を呼び覚ますためか。七十年近くこの国にはびこる平和にすっかり毒された、我々日本人の血をふたたび滾らせるためか。あるいはこの将来有望な俺こと高科(たかしな)章(あきら)の留まることを知らないグローバリゼーションを危惧し、せめて日本人の心を忘れないようにという、優しい我が母堂のささやかなる願いの賜物か。
夕飯時のキッチンで俺がそう訊くと、日の丸弁当の制作者である我が母堂・高科安紗子(あさこ)はあきれ顔で言った。
「は、あんたなに言ってんの? うちが貧乏だからじゃん」
「……ですよね」
俺がそうつぶやくと、母さんは「あっち行ってて。夕飯の仕度の邪魔」と言って俺を手で払いのける仕草をする。なんだかいたたまれないので、「失礼します」となぜだか他人行儀にあいさつを言ってキッチンを後にした。
(貧乏だから、だよなあ……)
高科家は貧乏だ。
母さんは父親と離婚した。俺がまだ幼いころで、そのころのことはよく覚えていない。母さんから聞いた離婚の理由は「方向性の違い」というインディーズロックバンドみたいなわけのわからないものであったが、俺は母さんに引き取られていまに至っている。父親の行方はわからないし、母さんも知ろうともしていないようだった。
その離婚以来、母さんは女手ひとつで俺を育ててくれている。フルタイムでの仕事と家事、そして高校二年になった俺こと愚息の世話。がんばってくれてはいるが、やはり余裕のある暮らしはできない。俺も学校に黙って近くのコンビニでアルバイトをして家計を助けている。基本的にバイト禁止の高校なんだが、それを知った母さんが「規則は破るためにあるんでしょ」という謎の名言を残し、俺は晴れて親公認で校則違反をすることになった。時給九一〇円。最低賃金スレスレの額で俺の貴重な労働力は換金されている。それでも、なにもしないよりはいくらかましだった。
はやく自立したい。俺はいつしかそう思うようになった。はやく母さんのもとを離れて、楽をさせてやりたい。でも、馬鹿な俺にはその方法がわからなかった。とりあえずいまのところ俺にできるのは、「きーみーがーあーよーおーはー」と意味のよくわからない歌を心のなかで口ずさみながら、弁当箱を開いて愛国心を養うことだけだ。
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