灰色の日の、お留守番

せらひかり

灰色の日の、お留守番

「いいか、絶対にドアを開けてはダメだぞ。外に出てはダメだ」

 怖い顔をして、男は出て行った。頷くだけ頷いて、取り残された部屋でぽかんとする。

 特にすることはない。壁際の小さな家具を見上げて、床の隅にうずくまった。窓の向こうは隣のビルの壁で、天気も分からない。

 一人でいると、ここがどこなのか分からなくなる。

 ぴん、ぽん。

 気の抜けたチャイムが鳴った。続けて、挨拶らしき声。こんにちは、の、後ろ二つしか発声しない。

「いないのー?」

「いる」

 出るなとは言われたが、喋るなとは言われていない。狭い玄関先まで出てみた。

 玄関のドアノブががちゃがちゃと揺らされる。

「開けてよー」

 声は知り合いのものだ。だが、ドアは開けるなと言われている。

 ドアに取り付けられた郵便受けの蓋が、ぱたぱた開く。

「おーい、何で入れてくれないの?」

「ドアは開けちゃダメって言われた」

「お、そっか……あいつも子育て中って感じだなぁ」

 しみじみと声は呟く。

「じゃ、食べ物貰って食べちゃダメとか、言われた?」

「言われてない」

「よしよし、いいものをあげよう。ちなみに、今日はいいけど、次からはここんちのおじさんが良いって言わなかったらダメだぞ」

 ごそごそと音がして、郵便受けに何かが突っ込まれた。匂いがする。

「取っていいぞ~」

 本当に、いいのだろうか。

 震えながら考える。でも、考え終わるより先に体が動いていた。短い指でそれを引っ張り込む。柔らかくて熱い。

「肉まん、こないだジンが持って帰ったから、食べたことあるよな? あんまり急いで食べるとやけどするから、気をつけろよ」

「あち!」

「あっやっぱり。ほらお茶も飲め」

 紙パック入りの飲み物が、突っ込まれた。郵便受けに引っかかって斜めにひしゃげる。

 開け方が分からなくてかりかりと縁をかいていると、相手が察して、パックを引き上げた。細い棒をさして、戻してくれる。

「ストロー分かるか? 吸い込みすぎないように飲めよ」

 なめても水分が口に入らない。吸い込む? 試してみた。むせた。

「あー、ごめんな、これ俺勝手に来ない方がよかったかな」

「ううん、」

 言葉が思いつかない。半分郵便受けにつっこまれたままの手に、そっと触れる。相手がびっくりしたみたいで、手がこわばってから、手探りしながら、よしよしと撫でてくれた。

「よかった、来て、くれて、よかった」

「そっか。あいつの仕事中は、一人で留守番とかよくあるんだろうから、慣れてると思ってたんだけど。お前もまだ、ちびっこだもんなぁ」

 小さいから寂しがりなのだろうと、相手は勝手に一人で頷いている。

 そういうものなのだろうか。

 瞬きしたら、自分の薄茶色のまつげが見えた。自分からは見えないけれど、同じ色の毛の生えた耳が、たぶん、しょんぼりと伏せられている。

 怖かった、のだ。さっきまで。

 あのまま寝転がっていたら、自分がどんどん、灰色のうすぼんやりしたものに変わっていきそうで、怖かった。


 ほんの、一ヶ月もしないくらい前。自分は、冷たい水の落ちてくる日に、道の端っこで倒れていた。水がまとわりついてきて、寒くて体が震えて、息苦しくてしかたなかった。でもどうしたらいいか分からない。どうしてここにいるのかも、分からなかった。ただ、水の中で、ひとりぼっちでもがいていた。

 そうしたら、ジンが現れたのだ。不機嫌な、大柄な、大人の男の人。あちこちツギの当てられた作業着姿で、こっちを睨んだ。

 きっと殴られる。動くのをやめて、じっと身をすくませた。

 結局、殴られはしなかった。固くて重たい腕が、軽々と自分を担ぎ上げて、あの道端から連れ去った。その腕は機械でできていて、噛みつこうとしてもびくともしなかった。

 ジンは熱いシャワーをかけて、タオルでゴシゴシしてくれた。シャワー、タオル、そういう物の名前も教えてくれた。

 それまでは、長生きしない生き物だから、物の名前なんて知る必要がないと言われていた。人と獣の遺伝子を掛け合わせる人間がいて、自分もそんな中で生まれてきたらしい。ふかふかと沈む床を、裸足で歩かされて、きらきらした衣装の人たちの前で座らされることが多かった。犬猫を真似て作られた三角の、やたらと大きな耳の、毛質を褒められた。でも、指や掌で撫で回されても嬉しくなかった。毛並みが乱れて、いつも何だかつらかった。犬笛で呼ばれても、聴覚は犬猫とは違ったらしく、全く聞こえなくて、ときどきぶたれた。虹色の真珠を首に巻かれて、真珠の連なりを引っ張られて床を引きずられることもあった。

 今は、ない。

 首輪もないし、ぶたれたりもしない。屋根のある場所で、誰かに名前を呼ばれて、おいしいものを貰って、生きていられる。名前を呼ばれるときに、みんな大抵笑顔だ。胸がきゅっとなる。ジンのともだちが、頭を撫でたそうにするから、耳を伏せてたまに身をまかせる。触られるのは好きじゃないけれど、このくらい、がまんできる。

 ふと、聞き慣れた足音がして、顔をあげる。

「何をやってるんだ?」

「ジン、お前が帰ってくるのが遅いから、ちびっこが寂しがってんぞ」

 郵便受けに手を入れたまま、ともだちが文句を言っている。

「それで、何でそんな格好をしてるんだ?」

「抜けない!」

 困惑しながら、この家の主であるジンが、どうにかドアを開けた。

「って、鍵かけてなかったのかよ! 俺、勝手に入ればよかったな」

 騒々しいともだちをよそに、ジンがちょっと首を傾げる。

「リオ。泣いてたのか?」

 一人で留守番もできなかったら、嫌われそうで怖い。慌てて返事をする。

「ううん、平気」

「そうか。悪かった」

 聞いていたのかいなかったのか、分からないようなことを、ジンが返す。

「長靴を買ってきたから」

 ジンが、大きめの袋の口を開いた。色数の少ない室内に、急にまぶしいくらいカラフルな色が現れる。

 黄色いレインコートとレインブーツ。丸い花柄も付いている。

「これで、雨の日も散歩できるな」

 ジンが呟く。ほっとしたような声だった。

 ぽかんとして見上げると、ジンが眉をひそめた。

「気に入らなかったか?」

「ううん……これ、わたしの?」

「この辺りは雨が多いから、散歩できなくてつまらなかっただろう? これがあれば、出かけられる」

 リオは、黄色い雨具を見下ろして、ぼんやりする。

 これまで、ここに来るまでに、与えられたのは、首輪や、望まない掌からの撫で回しで。食事は煌びやかなところか、暗がりに追いやられて。眠るのは、ひとりぼっちか、狭くて汚い檻に数人まとめて詰め込まれて。

 今は。

 ぎゅうっと、ジンにしがみつく。

「あり、がと、」

 ここに来てから教わった言葉を呟く。胸が壊れそうで、何度も言えなくて、ひたすらしがみついた。

 ジンの体がちょっと震える。強くくっつきすぎて、痛いのかもしれない。わるいなと思った。嫌われるかも。それは怖い。

 そっと体を離したら、目と鼻を少し赤くして、ジンがこちらをじっと見ていた。

「ごめんなさい、痛くして」

「いや、痛くはない、痛くはない……」

「お二人さん、俺のこと忘れてないよね?」

 ともだちが郵便受けから抜けなくなった手を振っていたが、ジンもリオも、しばらくの間、気づかなかった。

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