第X章 大和にて

01 ある日の朝

「カ……ス、……て……さい」


 柔らかく肩を揺すられる。その優しげな感触が心地よくて、カルロスは微睡から覚める事を少しだけ勿体なく思った。叶うのならばこのままずっとこのささやかな幸福を享受していたいが、そうも行かない。ゆっくりと目を開ける。

 

「まだ目が開き切ってませんよ」

「……ああ」

「さあ、冷たい井戸の水で顔を洗って目を覚ましてください。朝ごはん、ありますよ」

「……ああ」

「本当に、朝は弱いんですね」

「……ああ」


 まだ覚醒しきっていない頭で半ば空返事をするカルロスに困った様な笑い声が添えられた。相変わらず夜更かしの癖が抜けない。意を決して起き上がる。素足の裏に返ってくるイグサの感触。未だに慣れない。

 慣れないのはそれだけでは無い。床に直接敷く寝具も慣れないし、こうして自分以外の誰かに起こされるというのは本当に慣れない。益体の無い事を考えながら草履を履き、汲み上げられていた井戸水で顔を洗う。この宿場町の井戸には汲み上げの魔法道具が設置されていない。つまり少なくない苦労をして汲み上げて来てくれたのだろう。その献身に感謝よりも申し訳なさの方が先に来てしまう。

 漸く目覚めた頭で、台所で楽しげに料理をしている相手に声を掛ける。

 

「おはよう、アリッサ」

「はい。おはようございます。先輩」


 ◆ ◆ ◆

 

 契機は何だっただろうか。カルロスは今になって思い返しても良く分からない。特別な事など何も無かった様に思える。魔導機士の開発に邁進して、二号機の開発が始まった頃だ。少しばかりクレアとは別行動が増えて。その分アリッサとの時間が増えて。そして――気が付いたら関係を持っていた。

 言い逃れの余地も無く最低な事を言うと完全に成り行きだった。その時の行為に、カルロスはアリッサへの後輩以上の好意は抱いていなかった。言ってしまえば一時の過ち――それが一時で済まなくなったのは誤算があったからだ。

 

 融法の使い手同士の接触。それは互いの感覚を読み取り、己の感覚とし、また相手はそれを読みとり……と言う循環を起こすものだった。もっと端的に言えば……二人揃って快楽に溺れたのだ。それはカルロスにとっても意外であったし、打算を以て近付いたアリッサにとっても想定外。そうなった時点でカルロスはアリッサを切り捨てる事が出来なくなっていた。

 クレアへの感情が消えた訳では無い。だが後ろめたさから彼女の顔を真っ直ぐに見れなくなり、物言いたげな彼女の視線から逃れるようにして、アリッサとの関係に溺れて。

 

 彼女の素性に気が付いたのはそんなある日の事だ。これも何か特別な事が有った訳では無い。循環する感覚の中で、カルロスが勝手に読み取ったのだ。アリッサの中に有る恐怖と悲しみに。今を失われることを恐れる思いに。

 

 裏切っていたのかと、そうは言えなかった。あそこまで深く交感して、そんな考えが出てくるはずも無かった。何れ来ることが確定している終わり。アルバトロスの強奪作戦。その詳細はアリッサも知らされている訳では無かったが、そう猶予は無い。

 

「私と、全てを捨てて一緒に逃げて下さい」


 そう、涙を溢しながら差し出された手を、カルロスは振り払う事が出来なかった。一人押し殺した恐怖で涙を流す少女を見捨てる事が出来なかった。

 己の夢にも、想い人にも、責務にも全てに背を向けて。カルロスはアリッサだけの手を取ってエルロンドから逃げ出した。整備中だった試作一号機を試験と誤魔化して持ち出し、そのままそれを足として只管東へ。新式の試作機が無ければ、エルロンドでアルバトロス帝国が事を起こす事も無い。そこに残していくクレア達を守る為にもそれは必要な事だった。

 

 行先の候補はメルエス、ハルス、そして大和。様々な事情から――主に融法を使って素性を誤魔化せること、新式魔導機士を重要視しない国と選んだ結果行先は大和になった。そうして逃げて、アルニカの名も捨てた。

 

 有獣族ばかりの国。ログニスとは文化も風俗も違う土地で一から暮らしていく事には苦労も多かったが、幸いと言うべきか辿り着いた宿場町の人間は余所者にも寛容だった。カルロスの死霊術で作った有獣族の特徴である獣の耳と尾を付けて、細かな違和感は二人の融法で誤魔化して。

 

 何もかもに背を向けて、新しい土地でアリッサと二人で。今は大和の片隅で若夫婦として暮らしている。

 

 ◆ ◆ ◆

 

「今日のご飯はお隣のおばさんから良いお野菜を貰ったのでお味噌汁にしてみました」

「一年も経つと慣れるもんだよな。食生活にも……」


 正直に言うと、最初はこの謎の豆を腐らせたという触れ込みの物体を淹れたスープと、穀物をそのまま食べる何てとんでもないところに来てしまったと戦慄した物だったが、一月もしない内にその味には慣れた。偶にパンが食べたくなるが、そういう時はアリッサが創意工夫をして小麦から作ってくれる。多分創法を使っているのだろうが、そもそもパンをどうやって作るのか知らないカルロスには真似が出来ない。

 

「今日は私は椿さんの所でお手伝いをするつもりです。先輩は?」

「俺は何時も通りオヤジの工房で鍛冶仕事」


 幸運にも二人揃って働き口が見つかっていた。アリッサは宿屋の看板娘として、カルロスは宿場町唯一の鍛冶屋の見習い兼自警団の一人として。一年間も働いていれば顔も知られてくる。お陰で最近はお裾分けも貰えるし、逆にお返しに物を贈る事もある。真面目に働いてくれる人間は大歓迎と言う事なのだろう。特にアリッサはあっという間に雇い主である椿を始めとする近所のおばさん達から可愛がられるポジションを獲得していた。その立ち回りはカルロスには真似が出来ない。カルロスが専らモテるのは暑苦しい男達だけだった。皆気の良い男たちなのだが涼やかさにはどうしても欠ける。

 朝食を食べ終わった後は二人並んで食器の片付け。そうして二人連れ立って部屋――長屋の一室から出る。

 

「それじゃあ行ってきます。お仕事頑張ってくださいね、戒君」

「そっちこそ頑張れな、亜里沙」


 互いにこの地での偽名を口にしてそれぞれの仕事場に向かう。外ではうっかり呼び間違えると言う事もこの頃は無くなって慣れた物である。

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