22 脱走

 レグルスはそれ以降クレアに回答を求める事はしない。不気味な沈黙だった。

 

 許せるわけがない。レグルスを許すなどと言うのは天地が引っ繰り返ってもあり得ない。

 

 それでも迷ってしまうのは聞かされた話が余りに危機的だったからだ。世界が滅びるかもしれない。普通ならば与太話と切り捨てるが、少なくともレグルスはそれを真実だとして活動していた。その結果による戦乱は現実の物として控えている。

 

 どうするのが正解なのだろうか。長く湯船に浸かってゆだってきた頭でクレアは考える。今彼女に許されている自由は思考だけだ。だからその思考を止めるわけには行かない。

 

 真偽を確かめたいとクレアは思った。その為にはレグルスから与えられた情報だけでは駄目だ。自分の眼で見つめないといけない。

 

「……ついでに、カスも探してあげればいいし」


 レグルスはカルロスを確保している様な口ぶりだったが、まず間違いなく確保していないとクレアは見ていた。と言うよりも本気で協力させたいと考えているのならば、クレアの条件を飲んでいた筈だ。四年間も引っ張る理由が無い。

 

 問題は、生きているかどうかだ。余りに恐ろしいその想像をクレアはお湯を顔面に叩きつける事で振り払う。

 それでも全身が震えるのは止められない。

 

「生きて、いるわよね。カス……」


 あれが最後だったなんて思いたくない。そんなはずはないと思いながらも、お湯は彼女の震えを反映する様に小刻みに揺れ――。

 

「……揺れてる?」


 その波紋が自分以外の要因で発生している事に気付いたクレアは表情を引き締めた。耳を澄ませる。微かに聞こえてくるのは――戦闘の音。かなり遠い。だが確かにそれは四年間一度も無かった異常だった。

 

「よしっ」


 己の頬を叩いて気合いを入れる。若干タイミングが良すぎると思わないでもないが、これまでになかった好機である。湯船から立ち上がった彼女は脱衣所の服を引っ掴んで濡れているのにも気にせず身に着ける。そして徐に取り出したのは一欠けらのエーテライト。指先で摘まめてしまう、子供の駄賃で買える飴玉程度の塊。

 

「これが、私の頼みの綱ね……」


 当然と言えば当然であるが。虜囚の身――と言うには好待遇だったが――であるクレアに魔導炉の所持など認められない。その他危険物もだ。エーテライトとて本来は手にはいる物では無い。ならば如何にしてクレアがそれを手にしたか。

 

 人間は魔導炉無しに魔法を使えないとされているがそれは正確ではない。より厳密には魔導炉抜きで、大気中に存在する魔力だけで魔法を行使するのがほぼ不可能と言うだけの話だ。その状態で発現する魔法は微弱過ぎて目に見える効果が発揮できない程度の物と言う事からそう言われている。

 

 だが微弱でも何でも。不可能ではないのだ。

 それは雨どいから滴る水滴で岩に穴を穿つほどに忍耐のいる作業であった。微かな魔力をかき集めて、創法を使用する。魔力が減った空間から更に搾り取る様に魔力をかき集めてエーテライトの形に抽出する。

 原理としては何時ぞやクレアがロックボアの血液からエーテライトを抽出したのと同じだ。

 

 だがそれで得られるエーテライトは本当に僅かな粉末。それを日々欠かさず溜め込んで。何時かの日の為に準備をしてきた。

 

 クレアはそれを飴玉の様に口に放り込んで自身の創法で溶かす。一度きっかけを与えてあげればそのエーテライトは瞬時に魔力へと溶け、クレアの体内に宿る。魔導炉の様に継続的に供給される物では無い。出力も身体に負担がかからない様に調節する機能何て無い。膨れ上がる魔力にクレアは呻き声を上げた。

 

 そしてクレアの武器はもう一つ。趣味の香水作り――に見せかけた薬品作りだ。

 

 レグルスも、クレアの身の回りを世話する人間も。むしろアルバトロス全体が魔法と言う技術に嵌っていた。それはかつてクレアが陥った穴であり、盲点とも言える物。創法の利便さを知っているが故に軽視してしまった物。

 世の中の大抵の物は。創法など無くとも作れるという事。

 

 材料を香水の材料の中に紛れ込ませ。二三か月に分けて一つの薬品を作る。そんな事を繰り返していた。薬学に関して言えば、アルバトロスは非常に遅れていた。大概の怪我病は活法で解決してきたというのを知ればそれも納得の行く話だった。

 

 兎も角、そのお蔭でクレアは脱走の役に立ちそうな薬品を用意できている。揮発性が高く、催涙性のある薬品。そしてもう一つが犬の鼻を誤魔化す為の消臭剤だ。偽装の為に作り込んだ香水の瓶の中からその二つだけを掴みとる。

 

「……行こう」


 私室を飛び出せば、まだ濡れた様な状態のクレアを見咎めて侍女が駆け寄ってくる。

 

「如何なさいましたか。クレア様」

「外に出るわ」

「危険です。今外では――」

「うん、知ってる。だから出たいの」


 クレアは無駄な問答を切り上げて、侍女に指先を向ける。一瞬の光が廊下を照らした。カルロスが『雷撃』と呼んでいた魔法。そこに射法を組み合わせた物だ。一瞬で昏倒した侍女を抱き留めて、廊下にそっと横たえさせる。

 

「ごめんなさいね」


 彼女は彼女で己の職務に忠実であった。四年近く、彼女のお陰で快適に過ごさせてもらったのも事実だ。そんな相手だがクレアは躊躇わなかった。

 濡れた髪が張り付いて邪魔に感じたクレアは私室だった場所に戻ってリボンを二つ手にする。髪を二本に束ねて駆け出した。後宮を飛び出せば、何が起きているかは明白だった。

 

「大きいわね」


 とんでもなく巨大である魔導機士の様な存在――重機動魔導城塞(ギガンテスフォートレス)の影を見てクレアはそう呟いた。あんな大きな物が攻め込んで来たにしては城下に火の手などは上がっていない事から、アルバトロス側だろうと判断した。ならば、それと戦っている相手。それがこの騒乱の原因。

 

 クレアは目を凝らす。丁度重機動魔導城塞の影になってその姿は見えない。だが、重機動魔導城塞が振りかぶって投げるようなモーションを取った。そして影から表に引き摺りだされた姿を見て、クレアは小さく息を呑んだ。

 

「……嘘」


 はっきり言って、趣味の悪い外見だと思った。近くで見ると魔獣っぽいと本人に向けて言ったこともある。あの時から更にシルエットは変わって魔獣らしさが強くなっていたが、その姿は見間違える筈も無い。

 

「エフェメロプテラ……?」


 彼女自身が名付けた機体。ずっと待っていた人が乗っていた機体。

 

 その姿を認めたクレアは迷うことなく頭上に『火炎球』の魔法を打ち上げた。弾けた『火炎球』がクレアの視界を焼いた。

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