神様どうか、僕の願いを叶えて下さい

よろず

僕の願いが、叶ってしまった

 ねぇ神様お願いです。

 僕はただの犬。何も出来ません。愛しい彼女が外で打ちのめされ疲れて帰って来たとしても、僕は彼女にこのふさふさの尻尾を振って見せ、纏わりついて餌を強請ることしか出来ないのです。

 癒される。大好き。レンしかいらない。そう言ってもらえるのは嬉しくて幸せで……でも不甲斐無くて。僕にも何かが出来たなら、僕でも彼女の役に立てたならと思うのです。

「レン! レンレンレンレンレン~! 大好き!」

 降るように落とされる唇。わしゃわしゃと撫でてくれる温かな手。だけど我儘で欲深い僕は、与えられるだけは嫌なんだ――ねぇ沙綾。僕は君が、大好きだよ。

「レン。ごめんね。私なんかが飼い主で、ごめん……」

 そう言って涙を流す彼女。また外で嫌な事があったんだ。繊細な彼女にはこの世界はとても生きにくいみたい。いつも傷付いて、泣いて、でもそれは家の中だけで、外では頑張って笑っているんだって僕は知っている。この場所は君の為のシェルターだ。僕という存在は君の為だけにある。

「ねぇレン。もし私がレンになって、レンが私になったら……どうなるんだろうね」

あぁ、君が望んでくれた。僕と君の願いが重なった。だから神様は、僕たちの願いを叶えてくれたんだ――――


 沙綾のお気に入りのグリーンのカーテン。カーテン越しに部屋の中へ差し込む朝の光。いつもなら彼女の腕の中で目覚め、彼女が目を覚ますまで眠った振りをする僕は、今日は彼女を抱きしめた状態で目が覚めた。

「…………沙綾?」

 僕の呼び掛けに反応した彼女の目がゆるりと開く。すべすべだったはず頬は、今は毛で覆われている。いつも寝癖が治らないと嘆いていた柔らかな茶色の毛は、今や彼女の全身をふわふわと覆っていた。

『え? 誰?』

 僕を見た彼女が発した最初のセリフがそれだった。当たり前だよね、君は犬の僕しか知らないのだから。

「僕だよ。レンだよ、沙綾」

『は? レン? いやいやいやこれは夢? てかイケメンが我が家に……昨夜私は何をした?』

 彼女の口から漏れているのはキャンキャンクンクン、可愛らしい声。だけど僕には彼女の言葉が理解出来る。

「犬になっても君は可愛いね」

『犬……?』

 全く状況を理解出来ていない彼女。言葉で説明するよりも早いだろうと、僕はふわふわで小さな体を抱き上げ鏡の前に立った。

「うわぁ……本当に僕、人間だ」

『な……なにこれ……?』

 あ、沙綾が気を失った。まるで気を失えば元に戻ると思っているみたいに。だけど残念。僕たちはそんな事では戻れないみたいだよ。だって、神様が僕たちの願いを叶えてくれたんだから。


 *


 僕の名前は桐生レン。彼女の名前は桐生沙綾。本当は沙綾が人間で、僕の飼い主様。僕は犬で、人間に恋をしてしまった愚かな存在。だけど神様が願いを叶えてくれた今、人間だった彼女の居場所を僕が奪ってしまったみたいだ。

「沙綾、僕はこれから仕事に行くけれど、良い子にお留守番出来る?」

『いやいやお留守番って……これをどうにかしてよ!』

 なんとか、僕がレンなのだという事は理解してくれた彼女だけれど、自分が犬になってしまったのだという事実は受け入れられていないようだ。だって、彼女は珈琲を飲もうとした。毎朝沙綾が飲む香ばしい香りの液体。犬が飲んだらダメな物だよ。

「神様がやった事だから僕にはどうにも出来ないよ。どうやって戻るのかもわからない。でもこのままで良いんじゃないかな」

『言い訳ないでしょう! 本当にあんたはレンなの? あの、良い子で可愛い私の天使だったレンがあなただなんて信じられないんだけど?』

「さっきも散々説明したでしょう? 僕はレンだよ。だって、君が隠していたイチゴパンツ」

『いやぁぁぁぁぁ! イケメンの顔で、イケメンの口から変な事を言わないでぇぇぇぇっ』

「もう、我儘だなぁ。そんな所も大好きだよ」

『もう良い。ちょっと一人で落ち着いて悩みたいから、あんたは外に行って。ていうか仕事なんてあるの? あんた昨夜まで犬だったじゃない』

 もっともな疑問だ。でも大丈夫。僕らの神様はその辺ぬかりなく整えてくれているみたいだ。

「大丈夫。僕は元より人間で、君は元から犬だから」

『何それ怖いんだけど! 飼い犬に居場所を奪われたって事?』

 あれ? どうして彼女は怒っているんだろう? 沙綾は僕だけしかいらないって言ったのに。沙綾の世界には、僕しかいらないはずなのに。

「帰りにお土産買って来るから良い子で待っていてね、愛しい沙綾」

 いつもする、いってらっしゃいのキス。今日は沙綾に拒否された。どうしてかな。どうして、僕から顔を背けるの?

『…………あぁもう! ごめんって! いってらっしゃい! ちゃんとするから、そんな泣きそうな顔をしないの! ――もう、こんな所はそのまんまレンだなんてずるい』

 ぷりぷり怒っている彼女に見送られ、スーツを身に纏った僕は家を後にする。

 おかしいなぁ。彼女を怒らせたい訳じゃないのに。彼女を幸せに……笑顔にしたかっただけなのに、何かが違うみたい。



 人間としての僕の職場はとある商社の営業部。沙綾が働いている会社の親会社らしい。でも今、沙綾は僕の犬で、僕は彼女の飼い主だ。なんだか奇妙な事だけれど僕にはちゃんと、人間として生きて来た記憶があるんだ。今の僕は、人間から生まれ、人間として生活して来た一人の人間の男だ。沙綾一人を養うくらい容易い稼ぎがある。これまで体験した事のない記憶が頭の中にある事は奇妙な感じがするけれど、でも全部沙綾の為。沙綾をこの、怖くて汚い外の世界から守ってあげる為には必要な事なんだ。

「桐生さん、おはようございます」

「うん。おはよう」

 同僚の女の子に挨拶を返して、人間の僕としてこれまで通りに仕事をこなす。仕事をする事なんて初めてのはずなのに、僕の体には何故か染み付いているみたいだ。だから、問題なく仕事をこなして就業時間がやって来た。

「桐生さん、今日こそ飲みに行きましょうよ」

 同僚に誘われたけれど、僕は首を横に振る。だって、沙綾が家で僕を待っている。一人帰りを待つ寂しさと心細さを、僕は嫌という程知っているんだ。

「ごめん。うち犬がいるから」

「もう! 本当に愛犬家ですね。でもそこが素敵!」

「本当よねぇ。私も桐生さんの飼い犬になりたいですぅ」

 変な事を言い出した女の子達を苦笑でかわし、僕は会社を出て家路を急ぐ。人間の沙綾はイチゴのケーキが大好きだったけど、犬の沙綾にケーキはダメだ。だから牛乳とイチゴを買い、走って帰った。

「ただいま! ――沙綾?」

 急いで鍵を開けて玄関へ飛び込んだのに、お出迎えがない。僕なら鍵が開く前に彼女の足音に反応して玄関でずっと尻尾を振りながら待っているのに。

「沙綾?」

 沙綾は暗い部屋の中、沙綾の為の寝床で丸まり動かない。どこか具合が悪いのかなと焦り駆け寄った僕は、聞き慣れた彼女の鳴き声を耳にした。

『なんで……? こんな、犬だなんて…………』

 僕が朝出掛けてからずっと、彼女はこうやって一人で泣いていたのだろうか。それなら僕は飼い主としても、飼い犬としても失格だ。

「沙綾……ごめん。僕が願った所為だ。君には迷惑な願いだった?」

 泣いて震えている小さな体を抱き寄せた。彼女は拒絶せず、僕の腕の中で泣き続けている。

『犬になったら楽かなとか、レンを羨ましいと思った事だってあるよ。でもそれは起こり得ないから言えただけで……実際にこんなんなって、今は不安で怖くて堪らない』

 ずっとこのままだったらどうしよう。そう言って、彼女は泣き続ける。人間だった自分の居場所はどうなっているのか、家族は、友達は? 誰からも自分の存在が消えてしまっているのならそれはとても恐ろしいのだと、沙綾は泣く。

『失ってから初めて大切さがわかるとかよく言うけどさ、人間だって、そんなに悪い事ばかりじゃないんだよ。辛い事だってたくさんあったけど……そんな事忘れてまた頑張ろうって思えるぐらい、楽しい事も幸せな事もいっぱいあった』

 そっか。そうだよね。僕には君が全てだったけれど、君にはそうじゃなかったんだ。

「ごめんね、沙綾。泣かせたかった訳じゃない。困らせたかった訳でもない。僕は、ただ……」

――――君に、笑ってもらいたかっただけなんだ。

 僕の見当違いな願い。本当の望みは叶いっこないとわかっていたから願ったこの願い。こんな風に彼女を泣かせてしまうのなら僕は今まで通り、彼女の犬で良い。欲しい愛情の形とは違うけれど、彼女の愛を与えてもらえる存在のままでいたい。

 ごめんなさい、神様。僕の願いを叶えてくれてありがとう。でももう、元通りに戻して下さい。自分勝手でごめんなさい。でも、本当に感謝しています。

「ごめん、沙綾。また神様にお願いするから、きっと明日の朝には元通りだよ。そうしたら……朝ごはんにイチゴを食べてね。君の為に買ったんだ」

 大好きなんだ、君が。君を愛してしまった僕の、望んではいけない願い。僕は人間に生まれたかった。人間として、沙綾と出会いたかった。今は僕の腕の中で震えている彼女に抱き締めてもらうのではなくて、本当はずっと、こうやって抱き締めたかったんだ。沙綾を守りたかった。守れる存在になりたかった。

 神様、神様、ごめんなさい。ありがとうございます。これは抱いてはいけない願いだったんだ。叶ってみて、改めてわかりました。

 泣き疲れて眠ってしまった彼女を腕に抱き、僕は延々と神様に謝った。沙綾にも謝った。目の奥が熱くなって溢れた涙は、とっても塩辛かった。



***



 いつもの朝の光。包んでくれる温もりと、彼女の匂い。あるはずのそれを感じなくて、目覚めた僕の体からは一気に血の気が失せた。目を開けた先にあるのは見慣れたカーテン。住み慣れた彼女の部屋――そのはずなのに、違和感がたくさんある。カーテンは同じ。間取りも同じ。でも色々違う。そして僕の目線も――

「どうして人間のままなんだろう? ……沙綾? 沙綾!」

 僕が人間のままなら犬の沙綾がいるはずで、でも彼女はいない。テーブルの上には昨夜買ったイチゴのパックが置かれたままだというのに、この部屋には犬を飼っている痕跡が、ない。僕がいた痕跡がなくなっている。

「沙綾! 沙綾、沙綾!」

 訳がわからなくて恐怖を感じる。指の先が冷たくて、勝手に体が震えだす。涙が滲んでその場に蹲りかけた僕の耳に、インターホンの音が届いた。僕の体は自然な動作で来客を確認し、画面に映った姿を目にして玄関へと飛び出す。

「レン!」

「沙綾!」

 掻き抱いた体は温かで柔らかくて小さくて、嗅ぎ慣れた大好きな彼女の匂い。夢にまで見た事が現実となった。人間の沙綾を、人間の僕が抱き締めている。

「今度は何が起きたの? 目が覚めたらレンがいなくて……でも何故だか私は居場所を知っていて……しかもなんでうちのお向かいさん?」

「お向かいさん?」

 きょとんと顔を上げた先、見慣れた玄関に掲げられた表札は「桐生」。彼女を抱き締めたまま移動して、振り向いた先も見慣れた玄関。表札の名前は、同じく「桐生」。

「え? あれ? なんで?」

「なんではこっちのセリフよ! 今度は何を願ったの? 起きたら何故か……その、人間のあんたが私の恋人だって記憶があるんだけど!」

 ごにょごにょと吐かれた彼女の言葉に、僕の口はぽかんと開く。

「え? 誰が、何?」

「どうしてあんたがぽかんとするのよ! これじゃあまるで私が願った事みたいじゃない!」

「え? 沙綾は僕と恋人になりたかったの?」

「流石にそんなに病んじゃいないわよ! 飼い犬を彼氏にしたいだなんて、そりゃあ……あんたさえいれば幸せだとは思っていたけど……」

「そっかぁ。なら僕たちは両想いなんだね」

「ちょっと、やっぱりあんたの願いでこんな事になったのね!」

 僕が人間になった事は、彼女にとっては嬉しくない出来事だったみたい。

「あぁもう、そんなにしょんぼりしないでよ! ――とりあえず、昨夜言ってたイチゴは? うちにはないんだけど?」

「こっちにあるよ! 入って入って!」

 ぱっと笑顔になって彼女の手を引けば、苦笑を浮かべた沙綾が「僕の家」へ入って来る。

「とりあえず、今後の事はイチゴを食べながら考えましょうか」

「うん、そうだね! 結婚式はウェディングドレスが良いんでしょう? あ、でもその前にご挨拶へ行かないとだよね。沙綾のお母さん、たまに僕に牛肉くれてたから好きだな!」

「だからたまにあんたの口から肉の匂いがしたのね? そうじゃなくて、結婚式って何!」

「え? 僕と君の結婚式についての話だよ?」

「何をさも当然だと言いたげな顔をしているのよ? いやよ、飼い犬と結婚なんて。それより、私の可愛いレンを返してよ!」

「ここにいるよ? わんっ」

「レンはこんなにでかくなぁいっ!」

「でも、君のレンは僕なんだけどなぁ……」


 叶わないはずだった僕の願い。神様の気まぐれか良い子にしていたご褒美か、奇跡が起きて叶ってしまった。

 君には残念な事かもしれないけれど、好みもきゅんとするツボも、僕は君の事ならなんだって知っているんだ。だから、これから人間の僕にめろめろにさせてあげるから覚悟してね、僕の愛しい飼い主様。

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