陽side

32

 彼女が飛び出したあと、ブラウスのボタンが引き出しの中に残っていることを思い出す。


 咄嗟にそのボタンを掴み、階段を駆け降りる。


「陽、どこ行くんだよ」


 お袋の声を無視し左右を見渡したが、もやが立ち込め人影が見えない。駅に続く狭い路地を走ると、前方を彼女がとぼとぼと歩いていた。


 彼女の姿を見つけた途端、足が止まる。


 彼女に声を掛けるつもりだった。


 でもその背中があまりにも寂しくて、声を掛けることが出来なかった。


 追い掛けたくせに、声を掛けることが出来ないなんて俺はバカか?


 彼女は駅には行かず、タクシーを止め乗り込んだ。


 もう二度と彼女と逢うことはないだろう。


 俺は彼女に無理矢理キスをしたんだ。

 嫌われて当然だから。


 でも、あのキスは彼女に挑発されたからじゃない。


 彼女の瞳が……あまりにも綺麗だったから。


 俺と彼女の間に運命なんてあるはずはない。


 でも、絡まった赤い糸が解けなければ、いつかまた逢えるかもしれない。


 ボタンを握り締めたまま、店に戻る。


「陽、暇なら店を手伝いな」


「未成年者を居酒屋で働かせんな」


「都合のいいときだけ、未成年者になるな」


「都合のいいときだけ、働かせてんのは母ちゃんだろ。勉強しろとか言うくせに、店を手伝え?意味わかんねぇよ」


 常連客の前で俺はお袋に歯向かう。黙って聞いていた親父が、厨房から身を乗り出し俺の頭を一発叩いた。


「だったら、ぐだぐだ言ってねぇで二階に上がって勉強しろ!大学に行くんだぞ、いいな!」


「ちぇっ」


 俺はドンドンと足で階段を鳴らす。ミシミシと踏み板は悲鳴を上げている。


「こら、階段を壊すんじゃないよ!」


 これしきで壊れるなんて、どんだけボロ家なんだよ。

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