第16話 秘境のお姫様

 ◇



「………………はあ、はあ……あ、あぁ」


 びっしょりと冷や汗をかいていた。

 隣にあるペットではディンが寝ている。


 ここはどこだっけ? と思う。


 寮の中だ。いつも寝ている場所。喋ってくれないディンとの部屋の中。


 ひどく頭が痛い。見れば手が震えていた。

 まるで現実味がなかった。


 ――なんで俺は泣いているんだ?


 寂しい。なんでこうも俺はひとりでいなきゃいけないんだろう?

 助けてくれ、と何かに祈る。しかし――


『祈って願いが叶うほど、世界は優しくない』


 番人様の言葉。その意味を俺はよく知っている。


 震えが止まらなかった。俺はどこにもいけない。どうやったって救われない。

 物音を立てることも構わず部屋を飛び出した。俺は番人様の下に向かう。


 封神龍樹の下。俺と番人様しか入れない秘密の場所。


「はあ、はあ………はあっ」


 なにかに追い立てられるかのように、走り続ける。決して短い距離ではなかった。

 ひどく、のどが渇く。それでも俺は走り続けた。


 いろんな考えが浮かんでは消えていく。俺はどうすればよかったのだろう? なにをすれば救われた?

 ……きっと、なにをしても無駄だ。過去も未来も現在も。


 封神龍樹の下につく。

 月の光が大木を照らす。それはどこまでも神秘的で、汚し難い神聖さのようなものがあった。


 それを見て立ち止まる。こんなところまできて、番人様に縋ろうとして。

 きっと番人様に見捨てられてしまう。常々こうならないように言われていたのに、俺は番人様に助けを求めているのだ。それは物理的ではない、心理的な救済だ。番人様は物理的な問題は、例えば議会で起こったようなことは助けてくれるかもしれない。でも――俺の心は、決して救っちゃくれない。


 泣き出しそうだった。このままだと見捨てられてしまう。ひとりになる。

 それだけは絶対に嫌だ。


 でも俺の足は進んでいて、封神龍樹の下に向かう。

 なにかに酔ったような頭のまま、俺は木を登り始める。けた外れに巨大な木だ。上のほうは葉で覆われていて、見えない。


 木の枝が皮膚に突き刺さるのを感じていた。薄い切りひっかき傷ができたが大して気にならなかった。

 そうして封神龍樹のてっぺんまで登る。ジャンプで枝々をわたってきたから時間にしたらほんの一瞬だった。そこには番人様はいなくて……ホッとする。


 俺は高いこの封神龍樹の頂上で月を見上げる。月光が目に突き刺さる。じわり涙が滲むのを感じた。

 めそめそとみっともなく泣いている。こんなことはすぐにでも止めたかった。でもなかなか涙は止まらなくて、自分が嫌になる。


「大丈夫ですか?」


 ――誰だ。


 振り返る。そこには仮面をつけた女がいた。

 それを見て、思わず苦悩を忘れて見つめてしまう。


 女は、美しかった。

 なびく細い薄桃色の髪。すらりと伸びた肢体。

 処女雪のような白い肌。凍てつく冷気のような美貌。

 この世のものとは思えない神秘的な、超俗的な雰囲気。


 ――吸い込まれるような翡翠の瞳。


 ありえないことが起きていた。いくら精神的まいっていたとしても、俺がここまで気づけないなんて異常だ。こいつはジャスミンや番人様並みに陰術ができるやつだと考えられる。


 噂があった。封神龍樹の下で見かけるこの世のものとは思えない美貌の少女。

『秘境のお姫様』なんていうふうに呼ばれている、噂。


「――いったい」

「?」


 なぜだか言葉に詰まる。

 ひどく胸が苦しい。


「辛いことが、あったんですか?」


 そう聞いてくる彼女。どこまでも冷静な雰囲気であり、その声さえも美しかった。歌うような、柔らかな安らぎに似た声。心が弱っていたからだろうか? ぽつり、と俺は呟く。


「友達でいることをやめたやつがいたんだ」


 じっと見つめる、吸い込まれそうなほどの翡翠の瞳。

 続きを促される。


「俺は忌み子なんだ。だから俺は友達の近くにいちゃいけない。こんな俺にあいつは一緒にいてくれたんだ。いいやつだった。いいやつすぎるくらいだった。だからこそ、俺はそいつの不幸を望まないんだ」


 また目の中が熱くなってくる。俺のしたことは間違いではないはずだった。でも、どうしようもなく胸を掻きむしりたくなる。感情を、抑えることができない。


『俺はかわいそうなやつなんかじゃない』と強く念じる。


 でもこんなことがあった以上、こんな信じ込みを信じ続けるのは不可能だった。

 そっと手が背中に添えられる。

 撫でられている。俺を安心されるために、ゆっくりと。


「友達のことが大事だったんですね」

「……初めての、友達だった」


 柔らかな手の感触。


 ――手を握っている。


 俺は驚いて彼女を見る。


「優しい人は、救われるべきなんです」


 歌うように、彼女はそう言った。


『優しい人は、救われるべきなんです』。


 それはとても綺麗な言葉だった。優しい人は報われるべきだ。誰だって正しいと思うはずだ。

 ……でも、現実はそうはならないのを、俺はよく知っている。


「あなたは友達のことを想っていたんです」

「そうかもしれないけど」

「だから、大丈夫ですよ」

「……え?」


 優しい人は、救われるべきなんです、と再び彼女は言った。

 確信めいた口調だった。どこまでも軽やかで、そしてちょっぴり楽しげで。


「私はあなたの優しさを知っていますよ」

「……どういう、こと?」

「あなたはひとりぼっちでいる子の手を握ってあげられる人なんです」


 ……なんのことだろう?


 その綺麗な瞳が俺を見つめる。

 それを受けてどぎまぎしてきた。

 思わず魅入られる。その綺麗な翡翠の瞳に。


 もしかして、と思う。

 この子のことを知っている気がした。

 ここと同じ場所、封神龍樹の下で、昔遊んでいた、女の子。

 ひとりぼっちで、無口だった女の子。

 暗がりから手を握って連れ出した、そういう記憶。


「全部うまくいきますよ、たぶん、ですけど」


 控えめに彼女はそう言った。だが同時にいたずらっぽく笑っていて、なんだか見つめあうのが恥ずかしくなってくる。


 彼女が仮面に手を掛ける。それを少しずらそうとして、それでその中身を俺は少し期待したのだけど、結局彼女は仮面を取らなかった。


「おやすみなさい」と彼女は言う。


 うまく答えられずに頷いていると、溶けるように彼女は闇へ消えた。

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