魔王の占星術師
占星院のある塔を出た後、僕は魔王城の本丸に向かった。屋上にあるユキの庭が目的地だ。帰ってきたよと、ただいまを言うためでもあるけれど、仕事を進めるためでもある。
「あ、イルベルイーさま!」
背丈ギリギリの扉をくぐり、少し歩くと土いじりをしているメルテを見つけた。僕に気がついたメルテは、手を止めて立ち上がった。鼻の頭についた泥を指を差して教えてあげると、メルテは慌てて手の甲でそれを拭った。鼻の頭の泥は取れたけれど、頬に新しい泥がついてしまっている。泥だらけの手ではどうしたって同じことの繰り返しだろう。
「やあ、メルテ。久しぶりだね。ユキはいる?」
「はい、魔王さまならいつもの場所に」
「ありがと」
ユキは魔王だが、実質的な統治は彼女の父親であるヒャクライさまが、枢密院の首席顧問として取り仕切っている。結局、戴冠式の前と何ら変わらない。だから忙しくて会えなくなるんじゃないかという心配は、結局杞憂だった。ただ、お飾りの魔王なら何のためにユキは戴冠したのか。
……こんなの、やっぱり生贄じゃないか。
結局、キャクライさまは枢密院に座し、戦場へはでていないのだ。
メルテの案内通り、ユキはシロツメクサの花畑にいた。僕の姿を見るやいなや立ち上がり、小さな歩幅で走ってきた。僕の懐まで辿り着くとユキは僕を見上げる。
「包帯、取れたんだね」
朱い瞳の右隣に禍々しい紅蓮の瞳があった。すっかり腫れは引いて、きめ細やかなユキの白い肌が姿を見せていた。透き通る朱色とは対照的に、厚みのある紅蓮の瞳。幼くともさすが鬼族の姫なだけあって、歴代魔王の魔力は見事に抑え込まれている。
「おかえりなさい、いーちゃん」
「ただいま。目はもう痛くない?」
包帯を巻いていた頃ならいざしらず、元気になった今訊くことではない。ましてユキは、僕なんかよりもよっぽど強い鬼族なんだから。
「痛くないわ」
ユキは僕を見上げたままふわりと微笑った。
さて、本題――といったらユキは怒るだろうな――に入ろう。ユキには勇者のホロスコープ作りに協力してもらわないといけない。
「話を聞かせてほしいんだ。戴冠式からこっち、ユキが何を考えてきたのか」
星詠みの結果は誰がしても答えはひとつだ。しかし、その後の解釈は占星術師によって偏りがでる。解釈の精度をあげるためには、対象であるユキの価値観を知っておかなければならない。こればかりは、どれだけ仲が良くても完璧に把握することは叶わないだろう。だから僕は話をしなくちゃならない。
「ユキはさ――」
ひとしきり質問を追えた後、僕はユキのホロスコープを広げた。ユキが覗き込んできたけれど、多分何もわかっていないと思う。知識がなければただの四角い天球儀だ。
ユキの話を参考に、これまでのユキの星を少し修正する。その影響で天面より上――つまり未来――に少し影響があった。けど、
「はぁ……」
溜め息を吐いた僕は、慌てて吐いた息を呑み込んだ。占いの対象を前にして溜め息なんて吐くものじゃない。
「うまくいかない?」
僕のあからさまな態度に、具体的なことはわからないまでも心配そうに首を傾げたユキ。
「だっ、大丈夫だよ!」
我ながら馬鹿だと思う。
「確かに進みは遅いけど、着実に進んではいるんだ」
最悪だ。
何がって、ユキに罪悪感を感じさせたことがだ。
彼女は魔王という立場上、自分の命の重さを嫌というほど自覚している。だから自分を生かそうと、必死になっている者を見て、もう頑張らなくて良いよとは、口が裂けても言えないのだ。だからといって手を貸すこともできない。自分の運命に対してすら無力な自分を呪わずにはいられない。
勇者と戦うハルを見上げることしかできなかった僕と同じだ。
「ねえ、いーちゃん」
伏し目がちだった僕の顔をユキは覗き込む。
「な、なに?」
大きな赤い瞳に薄っすらと見える僕の姿。
「あのね、魔王は四人の側近をつけることができるんだって」
知ってる。星の書の著者ベツヘリヌスがそのうちのひとり、『星詠み卿』だった。他には『星天騎士』『月天騎士』『導師』の称号がある。この四人の側近は、諮問機関と同等の影響力を持ち、羨望と畏敬を全ての魔族から受けることとなる名誉な役職だ。ちなみにヒャクライさまの星詠み卿は、父さんだった。そして新米魔王のユキには、まだどの席も埋まっていない。僕がなれるとしたら星詠み卿。ハルは、どちらかの騎士だ。
「そうだね」
「知ってるの?」
「だって、ベツヘリヌスがそうだったから」
「そ、そっか」
「なに、僕を星詠み卿にしてくれるの?」
「その、いーちゃんがなってくれるのなら」
「もちろん」
僕が胸を張ってみせると、ユキは安心したようにほっと顔を綻ばせた。
そして立ち上がるユキ。
「儀式の仕方、知ってるの?」
「知ってる。目が教えてくれたの」
ユキは苦笑いを浮かべて燃えるような紅い左目を指した。
シロツメクサの絨毯の上、ユキの前に僕は跪く。頭を垂れると、ひらひらと揺れるスカートの裾から小さな足が覗いているのが見えた。
そしてコホンと可愛らしい咳払いがひとつあって、仰々しい台詞が頭上から聞こえてきた。
「悠久の時を経て、再び訪れた絶望のなかで、失意に暮れた数千年を取り戻すべく、今、我とともに立ち上がれよ。其方は我とともにあることを望み、我は其方とともにあることを望む。全ては我のために、全ては魔族のために。命を賭してここに交わそう。イルベルイー・オーヴェス。これは主従ではなく、精神の誓いである。其方は『星詠み卿』、全ての運命を知るものなり…………手を出して」
顔をあげると、ユキが小さなナイフを握っていた。差し出した僕の手の、小指に切れ目を入れるユキ。指の腹からぷつりと頭を出した赤い玉に、ユキが同じように傷つけた自分の小指を乗せた。
血が混じり合うと、含まれる魔力が溶け合うのを感じた。
「はい、終わり」
ペタンと座り込むユキ。
「え、もう終わり?」
もっと長ったらしくて形式張ったものだと思っていた。
「当時はあんまり時間がなかったんだって」
「へぇ」
呆気なく終わった儀式に肩透かしをくらった気分だった。身体の方も特に変わった様子はない。てっきり、力が湧き上がってきたり眠った力が呼び覚まされたりするのかと思ったけれど、そういうわけでもなさそうだ。もしかしたらと思って星の書を開いてみたけれど、特に変化はなかった。本当に関係性を決定づけるためのものなのかもしれない。
たとえごっこ遊びの延長のようなものだったとしても、ユキが嬉しそうに笑っていたので良しとしよう。
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