海峡を越えて
「あれだ!」
船というものを初めて見た。船体の両側から十数対の櫂が飛びしている船で、ガレー船というそうだ。存在は知っていたから驚きはしなかったけれど、あんな巨大なものに人をたくさん載せて沈まないというのは、にわかには信じられない。いざとなったらハルに助けてもらおう。
ガレー船は海岸線をずらりと埋め尽くしいた。マストの隙間から辛うじて水平線が見えるけれど、もっと近付けばそれも船体に隠れてしまうだろう。三百隻の大艦隊だが、これでもけして多くはないらしい。
今回の遠征は三万の軍勢で行われるが、これは前回、前々回と比べると約七分の一の規模だ。なぜこんなに少ないのかというと、それだけの船しか用意できなかったからだ。
今、勇者は十五歳。まだ子供だがギリギリだ。これ以上の成長を許せば、もう勝てなくなってしまうだろう。かといって勇者が老いるまで何十年も待てやしない。なぜなら前回の戦いで結んだ停戦協定は、いずれ破られるものだという認識を人間側もしているからだ。勇者は魔王を討ち滅ぼす者。だから準備が整えば人間たちは、いずれデキンに侵攻を開始するだろう。
そもそも勇者相手に数で押し切るのは不可能だ。有象無象ではせいぜい魔法の無駄打ちを誘う程度の役割しか果たせないだろう。結局、本隊は兵士たちを相手にするのだから、三万もいればいくらでもやりようはある。今までの戦いで得た情報から、枢密院はそう判断したらしい。
ハルと一緒に船に乗り込み、出向を待つ。水先案内人は人魚族。僕らが揺れる床ではしゃいでいると、大きく船体がぐらつき、とうとう出航したのがわかった。
レドネアまでは三日間の航海となる。デキンの海岸線沿いに二日間船を走らせた。どうやら船には向き不向きがあるようで、竜人族の船では半分が一日持たずに空に逃げた。地面が揺れるのが気持ち悪いらしい。僕はどうともないけれど、白羊族の船はどうなっているんだろう。飛べない氏族の船は酷いことになっていそうだ。
三日目、デキンの海岸から離れるときはみんな青い顔をしていた。ここからは陸に逃げることはできないのだ。そんなだから四日目の朝、水平線に浮かぶレドネアを見つけたときは、みんな楽園を見つけたみたいに歓喜していた。涙を流す者さえ。レドネアは確かに楽園みたいだけど、けしてそういう意味ではない。
上陸した魔王軍はどこか浮足立っていた。当然だ。当然だと思うけど、浮かれた顔を見ると危機感を覚えざるを得なかった。何かを成すどころか、何も始まってすらいないのに、みんな半笑いでキョロキョロ周囲を見渡している。空を飛べる者は上空で感動のあまり打ち震えている。もっとも、戦いになれば嫌でも気を引き締めるだろう。なにせ相手は勇者なのだから。
「出発だ!」
大急ぎで橋頭堡を築いた魔王軍は、さっそくレドネア内部に進軍を開始した。僕もしばらくはハルと一緒に歩いていたけれど、魔王軍が進路上にある最初の砦を包囲したタイミングで別行動をとることにした。
「行くの?」
「うん。悪いけど、みんなのことを陽動に使わせてもらうよ」
「あはっ、まかせろ。陽動どころか今度こそ勇者を倒してやるから」
「うん、期待してる」
僕らを見つけたのか、砦から慌ただしく鐘が鳴り響いた。僕はその警鐘に紛れるように、側面の森に消えた。
森のなかはとても賑やかだった。風がけば葉っぱがざわめきあうし、風が止めば虫たちが求愛の歌を歌い出す。ただ、僕の気配を察してか、動物の姿は見えなかった。ずっとここにいても飽きないだろうけど、そういうわけにもいかない。
「陽が傾きはじめた。早く森を抜けないと」
緑豊かな森のなかにいては星を見ることはできない。僕は辺りで一番背の高い木に登って、森を一望した。しかし思いの外大きな森のようで、ぐるりと見渡しても森の切れ目は見えなかった。
「最悪、木登りだな……」
ひとりごちた通り、数日間は森を抜けることはできなくて、背の高い木に登って星空を描き写した。
どんなに大きな森でも端は存在する。巨大な森を抜けた先は森の輪郭をなぞるように街道が伸びていた。僕はローブのフードを深く被って街道を西に歩いた。レドネアの内陸に進む格好となる。
達成すべき目標はひとつ。勇者のホロスコープの完成だ。そのために勇者にとって重要な星を知らなければならない。さすがにすべての星をホロスコープに反映させることはできないから。
「親や先生、戦友は――」
戦場で見た勇者は、まさに孤高といった感じだった。
「――いなさそうだ」
人伝いに地道に探していくしかない。これはこれで途方もない作業だけど、終わりが見えている分、全天を写しとるよりマシだ。
二日程歩くと丘の上に町が見えた。僕は町の見た目に不可解さを覚えて思わず眉を顰めてしまった。
デキンではどんな小さな集落でも壁で囲われている。それは凶暴な魔物がそこらへんを彷徨っているからだ。しかしこの町はどうだ。マリアの村の時にも思ったことだが、壁どころか柵や門すらない。魔族よりも暴力に恵まれない人間が外敵に備えないというのは不思議でしかたがない。
外敵がいない? まさか……。
とはいえ、今はそれが幸いしている。厳重な検問があれば侵入は困難だっただろうから。
僕は繁みから町の様子を窺った。まだ昼間でみんな仕事中だろうか。あまり人気はない。
夕方以降は星を見たいんだけどな……。
しばらく様子を窺っていたら背後から馬が猛スピードで駆けてきた。人は乗っているが騎士の類ではない。あれは早馬だ。僕のすぐ横を通り過ぎ、町に駆け込んだ馬は、その蹄の音を町の中で止めた。早馬が僕の背後から来たのが気がかりだ。もしかしたら戦況の知らせを運んだきたのかもしれない。僕はさらに様子を窺ったけれど、町には何も変化がなくて、居ても立ってもいられなかった僕は、意を決して腰を上げた。
フードの裾をぎゅっと引っ張って僕は物陰伝いに町に潜り込む。あの馬が止まったのはどの辺りだろうか。少ないヒントを頼りに、僕は馬の行方を追った。すると、いくつかの角を曲がった先で、誰かの怒鳴り声が聞こえてきた。
「――ばっ、馬鹿な! 連合軍はいったい何をしているんだ!」
「まあ落ち着け、軍もまさか海から魔族どもが攻めてくるなんて思いもしなかったろうよ」
どうやら侵攻はうまくいっているようだ。
「落ち着いていられるか! メルセイ砦が落ちたということは、じきにここにも迫ってくるということじゃないか!」
片方の男がどれだけ取り乱しても、もう片方の男は冷静さを欠きはしない。それが癪に障るのか、取り乱す男はますます感情をヒートアップさせた。僕は男の冷静さに嫌な予感がして、
「いいから落ち着け。話には続きがあってだな……」
「つづきだと?」
その予感は現実となった。
「連中がトーヤの森を進軍していたところで勇者が間に合ったそうだ」
「ほんとか!」
「連中、それを読んでたみたいで、複数に軍を別けていたようだが、俺が噂を聞きつけた時点で、ふたつの軍団は壊滅させていたらしい」
「おお! さすがは勇者だ。俺は最初から大丈夫だと思ってたんだ」
「よく言うぜ。俺が――」
気がついたら僕は走っていた。町から飛び出して街道を東に、来た道を戻った。
勇者はロウア・デキンにいるはずじゃなかったのか。それともこの三年のうちに配置換えが? いいや、陸路での侵攻ルートが限られているなか、それは有り得ない。なら、こちらの動きを察知していた? いや、男の話では、魔王軍はなんとかって砦を落としたそうだし、それも違うだろう。だったらロウア・デキンから走って来たってことか? まさか!
しかし、いくら考えてもそれしか答えは出てこなくて、僕は半信半疑のまま森を駆け抜けた。十日はかかった道のりをわずかニ日で走破。ハルと別れた砦を見上げると、もう煙すら上がっていなかった。砦には人間の死体以外なく、ここで勇者と戦ったわけではないと知る。
「どっちに行ったんだ……」
そういえば男は森を進軍中に勇者が間に合ったと言っていたな。森といえば今通ってきたが、それらしい気配はなかった。上から見下ろせば何かわかるかもと考え、僕は砦に登る。瓦礫と、死体の燃えカスを避けながら砦のなかを登った。
そして階段の途中、壁が崩れ落ちてできた大穴から、紅い光が差し込んでいるのを見つける。駆け寄り、覗き込んだ先に、
「そんな……」
点々と森に灯る炎と、壊滅した魔王軍を見た。
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