人魚族の導き

 マリアにお守りを渡した僕は、すぐに立ち去る準備を始めた。憲兵たちが乗ってきた馬が使えるかどうかを確認し、男たちの死体を乗せる。死体を縛り付けたら出発だ。特に急ぐ必要はないが、最早ここに長居する理由もなくなった。馬に跨り、灰色ローブのフードを深く被りなおす。


「そうだ」


 たった一晩の星見を元にした占星術で占った運命では、たいした助言もできないけれど、何も無いよりはマシだろう。僕は振り返って、いまだへたり込むマリアを見下ろして言った。


「十分な準備ができたらすぐに村を出ると良いよ。少なくとも、それで占いの結果には逆らうことができるから。それに……この村には密告者がいるみたいだからね」


 マリアの反応を待たずに、僕は馬の腹を蹴る。海は東だが、逆方向の西に向かった。つまり内陸だ。マリアたちのために時間稼ぎが必要だったからだ。出発した憲兵がなかなか帰ってこない。その理由をマリアたちとは別のところに用意してやる必要がある。


 二日ほど馬を走らせた森の奥に、僕はふたりの憲兵の死体を下ろす。それから服や刀剣、貴重品を剥ぎ取って、また馬を走らせた。今度は東。デキンに持って変えれば人間社会を知る資料にもなるし、調査の手も追ってはこれない。憲兵殺しは盗賊の犯行だと結論付けられるだろう。




 海に出て、海岸線沿いに北上する。馬があってよかった。徒歩ならロウア・デキンまで十日はかかっていたところを大幅に短縮できたから。だだ、抱いていた懸念は解消されていない。馬を捨て、海岸線沿いの岩場の影に隠れながらロウア・デキンに近づいていく。やはり哨戒範囲に入っているようで、時折複数の兵士が岩場を行き来しているのが見えた。


「まずいなぁ」


 ただの兵士だけならなんとでもなりそうなんだけど、勇者に出てこられたら僕では太刀打ちできない。一応顔見知りだから、上手くすれば生き長らえることはできるだろうけれど、捕虜になるのはできれば勘弁願いたい。哨戒兵が陽気に談笑なんかしているところ見ると、魔王軍はまた敗北したのだろう。きっと勇者も要塞に駐留しているはずだ。

 僕が海辺の岩陰で二の足を踏んでいると、波の音に混じって男の声が聞こえた。


「そこの御方、貴方はもしや魔族でしょうか」

「??!?!………………?」


 ぎょっとした僕が振り向くと、岩場の小さな砂場になっている場所に一頭の牡牛がいた。あまりにもシュールで不思議な光景だったために一瞬戸惑ってしまったが、すぐに牡牛の正体に気づき、安堵の溜め息を吐いた。


「もしかして人魚族の方ですか?」

「如何にも」


 耳障りの良い声で牡牛が答える。人魚族の男は、牡牛の身体になって陸に上がることができるのだ。ユキの戴冠式のときにも牡牛の姿で出席していた。僕はフードをとって角を晒した。


「どうして僕が魔族だと?」

「おかしなことを訊きなさる。このような時期、このような場所で、人間の目を避けるように行動しているのは魔族以外にありえない」

「このような時期?」

「二度目のロウア・デキン攻略戦の直後という意味です。人間たちは逃げ遅れた魔王軍の敗残兵を躍起になって探しているところなのです」

「そうですか……」


 やっぱり魔王軍は破れていたのだ。みんなは無事だろうか。


「停戦交渉は行われたのですか?」

「はい。負傷兵の移送や戦死者の埋葬をしなければならないので、人間側も快く受け入れたようです」

「メルテ……魔王軍が捉えていた捕虜たちはどうなったんですか?」

「交渉材料として利用されたようです」


 そうか、メルテは帰れたのだな。良かった。


「貴方はどうしてこんなところに?」


 牡牛が問う。僕は彼の助力を得ようと事情を話した。


「多分、勇者の攻撃だと思います。光に巻き込まれ、気づいたらレドネアの浜辺に打ち上げられていました」


 目を見張る牡牛は、溜め息を吐いてありえないと言わんばかりに首を振った。


「ああ、それは…………さぞ大変だったでしょう」

「あの、もしも可能であれば、デキンへの帰還を助けていただけないでしょうか」

「それは、構いませんが」

「ああ、よかった……」

「少々お待ちを。今、案内人を呼びますので」


 そう言って牡牛は口を海に浸けて何やらブクブクと息を吐いた。喋っているようにも見えなくもない。しばらくすると、別の岩陰から澄み切ったフルートのような声が聞こえた。


「お呼びでしょうか」


 振り返ると、とても美しい人魚がいた。ウェーブのかかったブロンドは水が滴って彼女の胸元を艶かしく濡らす。二つの豊満な丘の頂上にある突起を貝殻で隠している以外に何も身につけておらず、健やかな腰の括れと相まってとても扇情的だ。


「ああ、来たね、ゲヘナコ。この方……」

「イルベルイーです」

「イルベルーさまをデキンの浜辺までお連れしてくれないか」

「貴方は?」


 どうしてわざわざ人を寄越したのだろう。


「私はここにいなければいけないのです」

「星の?」

「ええ」


 なるほど、星の定めならば仕方がない。僕はゲヘナコという人魚の少女の手を取った。彼女の背中にまわり、お腹に手を回す。そうだ、鞄が邪魔にならないように前に挟んでおこう。


「しばらくは見つからないように水中を行きます。しっかりと掴まっていてくださいね。それと苦しくなったら肩を叩いてください」

「はい。よろしくおねがいしま――っ!?」


 ゲヘナコは僕の言葉を最後まで聞くことなく出発する。どぷんと海に潜ると彼女は力強く尾ひれで水を蹴った。今まで体験したこと無い速度で海を突き進む。目に見える景色はさながらイルカだ。しかし肌に感じる水の圧迫感たるや、ゲヘナコのお腹に巻きつけた腕が引きちぎられそうなくらいだ。


 なんとかゲヘナコにしがみついていると、ふと前方から感じる水圧が弱まった。顔をあげると、僕の動きに気づいたゲヘナコが、「もうすぐ着きますよ」と教えてくれた。水中なのに声が自然に聴こえるのは不思議だ。



「ぷは!」


 水面から顔を出すと、海がすっかり赤く染まっていた。夕日で、ではない。火属性の魔力で、だ。まだ太陽は頭上に輝いている。

 ああ、ようやくデキンに帰ってこれたのだと、僕は赤い空と赤い海を見て実感することができた。

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