レドネアの星空
マリアの家で目覚めた当初、僕は早く帰還しなければと焦っていた。しかし、落ち着いてよく考えてみれば、今の僕が戻ったところで、戦列に加わったところで、いったいどれほどの戦力の足しになるだろう。すでに戦いが終わっているのならば、なおの僕が戻る必要などない。とはいえ長く戻らないでいるとユキやユロー、それにハルヤートにだって心配をかけることになる。僕の星はまだ輝きを失ってはいないので死んだことにはされないだろうけど、それは駄目なことだ。だからみんなには悪いことをすると思う。
幸か不幸かせっかくレドネアにこれた。だからここでしかできないこと、僕にしかできないこと、それがあるなら、帰還よりもそちらを優先しようと思ったのだ。
僕は大きめの肩掛け鞄から筆記用具と羊皮紙を取り出す。僕にしかできないこと。それはレドネアの星図を作ることだ。
「よし、使えるな」
筆記用具の状態を確認した僕は、再び鞄に仕舞い込んでベルトを肩に掛けた。
「これで曇りなら笑えるけど」
僕は夕日が差し込む窓を覗き込む。大丈夫、快晴。
トントントンと包丁の音が響く。キッチンでマリアが腕を振るっているいる音だ。扉の向こうから香ばしい良い香りが漂ってくる。もうすぐ夕食だ。昼間とはまた違ったその香りに、僕のお腹が小さく鳴る。僕は扉に手をかけ、部屋を出た。
部屋から出た僕にマリアが気づいたのは、いち早く僕を見つけたミレイが彼女のスカートのなかに隠れたから。
「ちょっと、ミレイ!」
妹にスカートのなかに潜り込まれて、慌てて包丁を置いたマリア。スカートを捲り上げて、立て籠もるミレイを引っ張り出そうとした。曝け出された健康的な素足。木靴を履いた小さい足とほっそりとした足首から伸びるふくらはぎの曲線が美しい。そこからいったん膝がくびれて、むちっとしたふとももに続く。あまり露出することがかいのだろう、高い身分ではないはずなのに、白くてやけに艶めかしい。二本のあんよの隙間の向こう側が薄暗い影になって、これでもかというほどマリアの脚線美を浮かび上がらせている。
と、唐突にスカートが抑えられ、僕が顔を上げると、困り顔で赤面しているマリア上目遣いがあった。
「こらっ」
お、おう。
さて、僕が外にでたきたのは、何も料理の匂いに釣られたからでなない。
「玄関はどこ?」
「どこかに行くの?」
マリアの不安げな表情に、ミレイも眉をハの字にしている。ふたりが揃って同じ反応をするものだから、僕はおかしくって思わず笑ってしまった。
「ははっ、どこにも行かないよ。ちょっと外に出て星を見たいんだ」
「星?」
僕の言葉にマリアは窓の外を見る。澄み渡る夕焼けのオレンジの線が幾本も見えた。今日はいい星空になる。
「それとも村の人たちに見られるかな。何かローブがあればそれを羽織るよ」
僕が頭の角を指差すと、マリアはゆっくりと首を横に振った。
「大丈夫だわ。隣の家まで随分と距離があるから。ミレイ、イルベルイーを庭に案内してあげて。私は夕ご飯の準備があるから」
突然指名されたミレイがビクリと身体を跳ねさせた。僕はマリアのスカートの後ろに隠れるミレイに手を差し出す。
「よろしく」
少し戸惑いつつも、ミレイは僕の手をとってくれた。
「うわぁ……」
玄関を出ると、ベッドのあった部屋から覗いていた景色と同じものが広がっていた。見渡す限りが緑に覆われていて、こっちに大きな白い花があると思えば、あっちには赤い小さな花が咲き乱れている。窓枠に切り取られた世界も美しかったけれど、空の下で見るレドネアの庭は、酷く楽園じみた鮮やかさで、この世の中にこんなにもたくさんの色があったのかと、僕の網膜に鮮烈に焼き付いた。
「どうしたの?」
急に立ち止まった僕を不思議そうに見上げるミレイ。彼女にとっては見慣れた光景で、だから当然微塵も驚きはしない。
「ううん、なんでもない」
僕は再び歩きだす。見ているだけで嬉しくなってしまう庭だ。
「こっち?」
「うん」
「それにしてもすごく綺麗な庭だね」
「ホント!?」
初めてみたミレイの笑顔は咲き誇る向日葵のようだった。
「うん。この庭はミレイが?」
「うん! おねえちゃんと!」
「そっか」
少し打ち解けたかな?
案内されたのは家の裏側。窓越しに僕が使わせてもらっているベッドが見えた。家をのぞいて見渡す限り障害物のないなかなかのロケーションだ。背の低い生け垣の向こうには地平線が見えて、今まさにオレンジ色の太陽が沈みつつあった。
僕はすぐに筆記用具を取り出す。そして北、西、南、東と順繰りに星天を紙に落とし込んでいった。まだほんのわずかしか見えないけれど、太陽の光に負けない輝きを持つ星をきちんと記録しておかなければならないのだ。
隣ではミレイが興味ありげに僕の様子を眺めているけれど、特に話しかけられはしなかった。
「ご、は、ん!」
しばらく作業に没頭していると、突然頭上から声が降ってきた。見上げると腰に手を当てて頬を膨らませたマリアがいた。
「もうっ、呼んでも来ないんだからっ」
「ごっ、ごめんなさい」
集中し過ぎて気付かなかったようだ。
夕飯はパンとサラダと白身魚の煮付け。この辺りは漁港近くで、良く小麦と魚を交換するのだとか。フォークで身を突くと、ホロリと崩れるくらいしっかりと煮込まれていて、ひと塊を口に放り込むと、舌で押すまでもなく解けた。煮付けのスープは赤くて、材料の見当がつかない。一見辛そうに見えるけれど、実際は真逆。甘くてフルーティなうえに、後味に爽やかな酸味の余韻が心地良い。魚を食べ終えたら、
「こうやってさいごまでたべるんだよー」
と、ミレイが千切ったパンをスープに浸して口に放り込んだ。なるほど、確かにそのまま捨てるには勿体無い旨さだ。僕がミレイの真似をしてスープの染み込んだパンを口に放り込むと、マリアは「もう」と、嬉しそうに口角を上げた。
食事を終えたらまた庭に戻って星天を描き写す。しばらくすると食器の片付けを終えたマリアも庭に出てきて三人で星を見上げた。
「おとーさん、はやくかえってこないかな」
星明かりの下、眠気眼を擦りながらミレイが何気なく話し出す。もしもミレイたちの父親が、後方ではなくロウアデキンに配属されていたとしたら無事な帰還は絶望だろう。勇者は強いが、彼の力は一人ひとりの兵士を守れる力ではない。できたとしても、そのための力でもないのだ。だから僕は、ミレイの無邪気な呟きに答えることはできなかった。マリアもまた答えることができなかった。戦争に行くことの意味を知っていたから。魔族である僕の手前という理由もあっただろう。苦々しい表情をしたマリアが態とらしく
「何してるの? イルベルイー」
と、僕に話を振ってきた。暗い雰囲気になるよりかは幾分マシかと思った僕は、マリアの企みに乗ることにした。
「星空を描いてるんだよ」
「そういえば星を見たいって言っていたわね」
僕は頷く。
「でもどうして?」
「僕、占星術師なんだ。まだ見習いだけどね」
僕は星空から視線を外さずに答えた。
レドネアにも占星術は根付いているだろうか。もしもレドネアの占星術書が、資料室があるのならぜひ見てみたいものだ。
「こっちにも占星――」
尋ねようとして出かかった言葉が途中で途切れる。そのかわり、
「――どうしたの?」
目を丸くして停止しているマリアに別の言葉を投げかけた。
「せ、占星術師さま?」
「さま?」
確かに魔王城でも上位の占星術師はある程度の尊敬を集める地位にいるけれど……。レドネアでは占星術師の立場はもっと上なのだろうか。
「見習いだよ。み、な、ら、い」
「それでも凄いよ! だって、国王さまが頼りにしていらっしゃる偉い人たちなんだから」
占星術師はこちらでもかなり重要な役職に就いているらしい。占星術師としては誇らしいことだけど、魔族としては面白くないな。占星術は運命をしる力だ。その力を一方的に持てていたなら、魔族はもっと有利に事を進められたかもしれないのだから。
「だって星星の瞬きから王国の未来を占ったり、祈りを捧げて不幸を回避したりできるんだよ! 五年前に勇者さまを見つけ出したことはこんな田舎村でもみんな知ってるわ!」
僕はマリアの言葉に眉を潜める。
星に祈りを捧げて不幸を回避する?
星は語るだけで世界の方に干渉したなんて話は聞いたことがない。レドネアが新しく発見した技術なのだろうか。レドネアの占星術はデキンよりも進んでるのだろうか。しかし、だとしたら不可解な点がひとつ。勇者を見つけたのが五年前というのはとういうことだ。勇者レイ・ルーズヘリオルは十二歳だ。デキンでは勇者の宿星が星天に現れた時からずっと動向を追い続けている。まさかレドネアでは五年前にようやく星が出現したなんてことはないはずだ。なぜならレイはレドネアで生まれ、育ったのだから。だとすれば考えられるのは、レドネアの占星術師たちが燦然と輝く勇者の星すら見つけられなかったということ。あるいは勇者のものだと特定できなかったか、だ。だとしたらレドネアの占星術はとんだお粗末なものということになる。もっとも、田舎娘の言うことだから信憑性なんてかなり低いのだけれど。
……考えても仕方がないな。
「そうだ、良かったら占ってあげようか」
「ほんと?!」
マリアに占ってあげると言ったのは、レドネアの星を使った占星術も経験しておいて損はないと思ったから。ミレイが目を輝かせそうなところだが、彼女はすでに夢の中だ。ミレイが起きてマリアから占いを奪うことを危惧した僕は、口元に人差し指を当てて見せる。意図に気づいたマリアも同じようにサインしてクスリと微笑った。
「まずマリアの宿星を探そうか――――」
マリアと僕は一緒に夜空を見上げる。レドネアにはデキンにはない星がたくさんあって、けれど輝きの強いユキの星はここからでも眩く見えた。
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