楽園の少女

 次に目を醒ますと、目の前には見知らぬ天井があった。


 良かった、生きてた。


 しかしデキンでは珍しい木の天井だ。寝台もやたらとふかふかで、シーツは柔らかくて良い匂いがする。ただ、贅沢をしているわりに壁掛けランプや調度品がお粗末過ぎる。アンティーク趣味だとしてもこだわりを感じない。


 ここはデキンではないのか?


 動かない身体のまま僕は目だけを動かして様子を動かす。そして目を見張った。


 ここは木造の建物なのか?!


 木材が貴重なデキンではまずあり得ない。窓の外からは柔らかな黄色い光が差し込んでいる。目を凝らすと色とりどりの草花が美しい庭が見えた。絶対にデキンじゃない。死後の楽園でもない。ならば答えはひとつだ。

 伝説にある彼の地の記述を思い出そうとした時、ギッと扉の外で音が鳴った。


 誰かいる?!


 そりゃそうだ。僕は海岸線沿いの丘の上で力尽きたのだ。倒れている僕をここまで運んだ人物がいる。そしてそれは確実に人間だ。


 いったいどんなやつがなんの目的で……。


 ギッという音がじょじょに近づいてくる。どうやら足音だったようだ。そして、扉が開かれる。ノックもなしに入室するところを見ると家主だろうか。僕は目を瞑って聞き耳をたてることにした。


「まったく、あの子ったら」


 女だ。というかもっと若い声。誰かに憤っているようだけれど、鼻歌交じりに部屋をうろうろしている。たいしたことではないようだ。

 ピチャピチャと水の音がして、布か何かを絞る音。掃除でも始めるのだろうか。そう考えた瞬間、僕の身体に掛けられていたシーツが捲り取られた。外気にさらされる感触、まさか今僕は裸なのか?! いや、スースーしないことから、辛うじてパンツは履いているようだ。


 でもこうなると、濡らした布切れを絞る音はまさか……!


 僕の予想通り、絞られた布のひんやりとした感触が僕の身体を這い始めた。女の鼻歌は止まらない。


「ふんふーん、ひつじさん、ひつじさん、あなたはだあれ、あなたはだあれ。かわいいかわいいひつじさん、はやく元気になりますように」


 そんな無邪気な歌を歌いながら女は手を動かす。肩から脇へ、二の腕を通って腕を持ち上げる。指を一本一本丁寧に拭いた後は、首元に戻って反対側の腕に回った。奥側は届きにくいのか、女はベッドに身を乗り出して清拭を続けようとした。女が小柄なのか、ベッドが高いのか、彼女の柔らかい部分が僕の腕に乗り上げた。重すぎず軽すぎず、彼女の身体の揺れにあわせて、触れている面積が大きく変化する。服の上からでも彼女の温もりは伝わって、気化熱を奪われたせいで少し冷えた僕の腕は熱を帯びた。


 僕はゆっくりと目を開ける。僕の身体に覆いかぶさるように清拭しているのは、うら若い――成人にはまだ早いくらいだろうか――少女だった。目鼻立ちの良い横顔には栗色のポニーテールがゆらゆらと揺らている。その悪意のない表情に僕は心底安堵した。


 やがて少女側の腕が幸せな温度になる頃、彼女がもう片方の腕を吹き終えた。そしてまた彼女の手が首元へと戻り、頬に手が伸びたところで僕と目があった。


「あ」


 間の抜けた声がまあるい口から漏れる。僕は上手く声が出せないので無言だ。


「わきゃあ!?」


 素っ頓狂な悲鳴を上げたのは少女だ。僕は上手く声を出せないので無言。

 慌てて立ち上がった彼女。自分で倒した椅子に躓きながらも、なんとか扉に隠れた後、半分だけ顔をだして僕を警戒した。ドタバタと五月蝿いうえに今更過ぎる。どうやら僕が魔族であるという認識はあるようだ。


「貴方、だれ?」


 それはこちらのセリフである。自分で連れてきたんじゃないのか。とはいえ魔族は恐ろしかろう。単体では人間は魔族に抗うことすらできないのだから。


「い………るい……」


 ただ、名乗ろうとしてもカラカラの喉と疲れ果てた身体では自分の名前すらろくに言葉にできない。僕の呻きのような声に警戒心を緩めたのか、少女は恐る恐るこちらに近づいてきた。


「貴方、声がだせないの?」


 出せる、出せるよ。体力さえ戻れば。僕はそれを最後の力を振り絞って少女に伝えたのだった。


「おなか……すい………………た」



 僕の全力の訴えを聞いた彼女は、すぐさま部屋を出た。


 間もなく扉の向こうから今まで嗅いだことのない良い匂いがしてきた。トントントントンとリズミカルな小気味良い音に、グツグツと茹で上がる音。ジューと焼く音が聞こえ始めた時に漂ってきた香りは、この世のものとは思えないほどで僕の脳髄を蕩けさせた。バカになっちゃう!


 窓から差し込む日の光の角度から考えて、あまり時間は経っていない筈なのに、少女が料理を運んで来るまでが異常に長く感じた。


「はい、おまたせしました!」


 とても自信があるようで、エプロンに腕まくり姿の彼女は誇らしげに口角を上げていた。



 彼女に身体を起こされ、食事を口に運ばれる。最初はスープだ。黄色いツブツブはコーンだろうか。デキンのものと形は似ているけれど、鮮やかさが全く違う。口に含んでさらに驚いた。芳醇なミルクがとてもコク深く、コーンの甘みを引き出している。とろりとした液体は口に含んでも熱を逃さず、喉を通るとき、疲れた身体に染み込んでいくようだ。

 二品目はサラダ。デキンでは生サラダなんて食べたことがなかった。瑞々しいのにシャクリシャクリと爽やかな食感がして、あっさりした味付けが次の料理への期待感を高める。しかしサラダ自体にも味はある。清涼感のある酸味をベースにしたソースに、野菜本来の甘みが存分に引き出されていた。

 次はお待ちかねのメインディッシュ。肉だ。僕の体調を考慮して薄くスライスされている。


「大丈夫? 噛める?」


 少女の問に僕は大きく首を縦に振った。クスッと微笑った少女が、ひと切れ僕の口に運んだ。噛んだ瞬間……いや、口に含んだ瞬間だ。反射的に唾が溢れ出す。塩辛いなかにトゲトゲしさを感じるのはなんだろうか。なんて表現すれば良い? 香草の一種なのか、とても香り豊かで刺激的な味だ。


「美味しい?」


 僕は口を動かしながらまた首を縦に振る。


「最近胡椒を分けて貰ったのよ。滅多に手に入らない高級品なの」


 コショウ?


 今度は首を傾げた。


「ええっとね、この黒いツブツブ」


 これか!


 僕は薄くスライスされた肉の上にまぶされた黒い胡椒を見つめた。煎り胡麻のような見た目のそれを見て、僕は人を駄目にする危険な食べ物だと確信する。同時にこの上なく魅力的だとも。

 彼女はいろんな方法で肉を僕の口に放り込んだ。サックリと焼いたガーリックトーストの上に乗せてたり、サラダを巻いたり。組み合わせると、味が複雑になって、また新しい味が楽しめる。


 僕はあっという間に完食し、再び倒れるように眠りに落ちてしまった。

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