再びロウア・デキンへ

 捕虜収容所でメルテとあってから半月後、僕はユキの庭に来ていた。二日後には召集があって僕は再び魔王軍に編入されることになるからだ。そうなればまたしばらく逢えない。


「いーちゃん!」


 庭の風景は季節とともに移り変わる。枯れ始める花があり、また蕾を開く花もある。しかしここだけは別。僕は白いクレマチスのアーチを抜け、まるで時間が止まったかのような花畑に足を踏み入れた。サクリサクリとシロツメクサを踏み鳴らす僕の足音を察知したユキは、弾かれたように振り向き、僕の名前を呼んだ。

 春のお日様のような柔らかくて優しい笑顔に、僕の心にチクリと針が突き刺さる。今から告げる言葉を考えれば当然だ。如何に「もう黙って行かないこと」と言われても、言われて嬉しいことではないのだ。僕は花畑の手前、ちょうど境目に立ったまま口を開く。シロツメクサの白い花と若葉色の葉の境目が、とても分厚い壁のように思えた。これ以上傍に寄ると、言いづらくなってしまいそうで。


「二日後、また行ってくるよ」


 ユキは一瞬目を見開いた後、悲しそうに目を伏せてしまう。視線の交わらないユキに、僕は言葉を続けた。


「すぐ戻ってこれると良いけど」


 無責任な気休めなんて言わない。ユキもわかってる。僕たちだけじゃない、魔族の誰だってわかってる。勇者との戦いに、軽はずみな慰めなんて何の意味もなさないことを。だからユキは微笑う。柔らかく、しかし憂いを帯びた瞳で。


「気をつけてね。いってらっしゃい」




 二日後、僕とユローが魔王軍本部に出頭すると、予定通り他の氏族たちも集まってきていた。そのなかにはハルヤートの姿もあった。愛槍ドゥーアも一緒。

 竜人族の伝統的な鎧は魔力を練り込んだ金属糸で編み込まれた具足だ。宿す属性によって部分部分色が違う。僕はバランスよく全属性を取り入れるべきだと思うのだけれど、人によってかなり偏りがあるようだ。その心は見た目重視。つまり趣味らしい。なにせ自分たちの地肌よりも固い金属を鎧に加工する技術がないのだから仕方がない。

 ハルヤートの具足は、月のような深みのある白に藍色の箇所が少し。


 僕を見つけたハルヤートは小走りで駆け寄ってきた。


「やあ、イル」


 え、イル?


 ハルヤートは僕をイルベルイーと読んでいたはずだ。ニックネームで呼んでくれるのは親愛の証なのだろうか。ただ、あまりに唐突だったために驚きを隠せなかった僕は思わず硬直してしまう。


「あ、ご、ごめん。馴れ馴れしすぎたかな……」


 気まずそうに視線を逸らすハルヤートに、僕は慌てて手を振って否定した。


「ごめん、そうじゃなくて、ちょっと驚いただけ。イルで良いよ、ハル」


 するとハルヤートはとても嬉しそうににっこりと笑った。僕も「ハル」とニックネームで呼ぶのは少し照れくさかったけれど、他氏族の友達なんて初めてで、それたとても嬉しかったから。


「ハルヤートさまはもう手続きはお済みで?」


 横からユローが問いかける。


「いいえ、俺もこれからです」

「じゃあハルも一緒に行こう」

「うん、そうする」



 手続きを済ませると僕らはそれぞれの氏族の軍団に別れた。別れ際、「また戦場で」なんて言い合ったけれど、正直あんな再会はごめんだ。僕は前回の戦いを思い出す。僕の躊躇のせいでハルヤートに無理を強いてしまった。次に会った時、ハルヤートは傷だらけだった。それこそ自分で歩けないほどに。今度は――――


 『僕が助けになりたい』と思い浮かんだ言葉を掻き消す。そして隣を歩くユローに気が付かれないように下唇を噛んだ。もっと力があればとは思うまい。僕は占星術師なのだから。まだ見習いだけど。



 今回もまたロウア・デキンの攻略である。だが今回は進路が違う。ロウア・デキンはデキンとレドネアを繋ぐ回廊上に位置する、両脇を海に挟まれた立地だ。ただ端から端まで要塞で塞ぐことはできなかったよで、片側は海を臨む岩地になっている。次はここに回り込んで叩く当然正面も攻める。どちらかが陽動などということはない。人間側に二正面作戦を強いるのだ。なぜなら、今回は最初から勇者がいるかもしれないからだ。彼だけで軍団を超える戦力。だから生半可な陽動は通用しない。だから正面に張る戦力も本命で、二十万の軍勢をぶつけるのだ。


 デキンに攻め込んで来なかったことをかんがえると、もしかしたら内地の方に帰ったかもしれないけれど、あまり根拠のない期待は持たない方が良い。


 まだ要塞の見えない手前で二手に別れる。十二氏族からなる精鋭部隊と、その他からなる本隊だ。ハルヤートとは同じ軍団に編成されたけれど、彼は前衛で僕は後衛なので、滅多なことでは会わないだろう。


 やがて波の音が聞こえ、潮の匂いが鼻をくすぐった。久しぶりに見た海は少し荒れ気味で五月蝿く、これなら僕らの足音も消してくれるだろう。僕らは無言で海沿いを行軍する。前回の戦いに参加しなかった者は、鼻息荒く目を血走らせている。勇者の苛烈な戦いぶりを直に体験した者は、緊張に顔を強張らせていた。そんなどちらともつかない雰囲気の中、僕はずっと星の書を読んでいた。


「イルベルイーさま、歩きながら本を読むのは危ないですよ」


 隣のユローが苦言を呈す。


「いつも占星塾でやってることじゃないか」

「ここは足場も悪いですし、みんな武器を持ってます。万一のことがあれば。それになにも今読まなくても……」


 ユローの言葉に集中力を欠いた僕は星の書を閉じて鞄に仕舞い込んだ。


「なんの本を読んでいたんですか?」

「星の書っていう魔導書」

「占星術書ではなくて? 魔法でも習得するのですか?」


 魔法でも習得できるのだろうか。封印の先に何が待っているか知らない僕は、曖昧な返事しか返すことができなかった。


「……そう、なのかな」「はぁ……」


 しばらく歩いた後、左に折れて海を背にさらに二日進む。すると行軍が止まり、目的地が近いことを僕に教えた。


 野営地はロウア・デキンから一日の距離。ただ、十二氏族の武闘派たちなら半刻で到達可能だろう。

 野営三日目。本隊の方から伝令が駆けつけ、準備が整ったことを告げた。タイミングが重要な今作線、攻撃は四日後の夜に決まった。夜襲である。まず正面の本隊が、補修中の大穴を攻める。勇者の意識がそちらに向いているうちに、十二氏族軍が要塞の側面上空から壁を越えて急襲。要塞内を混乱に陥れる作戦だ。これだけで勇者を始末できるとは思えないけれど、前回よりも数の優勢を活かせるはずだ。



 決行当日の夜半、僕らはロウアデキンを臨む小高い丘に立った。


「あれがロウアデキンの灯……!」


 前回の戦いを知らない誰かが言った。多くの篝火の光にわずかな揺らめきもない。不気味なほど静かな夜だ。

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