勇者レイの受難
イルベルイーたち魔王軍が去ったロウア・デキン。その城壁上で勇者レイ・ルーズヘリオルはデキンの荒野を見つめていた。一面に広がる荒野。見渡す限り草木の一本もない、薄茶色の乾燥した砂と岩だけだ。
「デキンの大地、魔族が支配する土地……!」
レイの大好きな初代勇者の物語に登場する大地。このずっと向うに魔王城があり、強大な力を持つ厳つい魔王が鎮座している。レイは両の拳を握る。必ず倒してみせると、まだ見ぬ魔王を思い描いて強く思った。
それが自分に課せられた使命なのだから。
しかし、そんな彼の志の足を引っ張る者がいた。レイは急に騒がしくなった背後――要塞の内部を振り返った。
「やっと来たのか。戦いが終わってもう三日も経ったのに」
目を凝らし要塞の門を見ると、何台もの馬車が列をなしているのが見えた。ディトレイド大臣が到着したのだ。レイは大臣が苦手だった。
「なに、儂の部屋? そんなものは貴様らが適当に決めろ! それより被害報告が先だ! 急いで要塞の補修をしなくてはならないからな!」
レイがディトレイド大臣のもとに駆けつけると、彼は部下に囲まれていた。部下や駆けつけた兵士が何か言っては、激しく怒鳴りつけている。
「人的被害は馬車のなかで聞いておる! 貴様が送ってきた書類だろうが! それよりも要塞の破損状況はどうなのじゃ!」
叱られた部下はペコペコと頭を下げて必死に取り繕っている。背中が冷や汗でじっとりと濡れている。
「して、当然負傷兵は本国に送り返したのだろうな?」
ギクリとした表情を見せる部下。「馬鹿者!」と、ことさら大きな怒声が飛んで、思わずレイは目をきつく瞑る。そして遅れて来たくせによくもそこまで威張り散らせるものだと、レイは心のなかで溜め息を吐いた。
豚のような脂肪を腹に蓄えたディトレイド大臣は、その見た目とは裏腹に、王国にとってとても有益な人物だったが、まだ幼いレイには理解することができなかった。わかりやすく有能であれば納得もできたのだろうけれど、えてして有能であることと有益であることは、必ずしもイコールとは限らない。大人には大人の事情があるのだろう。レイにわかるのはその程度のことだけだった。
確かに怪我をした人の手当は大切なことだけれど。
「けど、それとオレがここにいることって関係ないと思うんだけどな……」
魔王軍をこの要塞から追い出した自分が、いまだにこんなところに留まっている現状には納得していなかった。自分だけでも十分以上に戦えるのだから、一気に魔王城まで攻め込んで魔王を倒せば、こんな戦いはすぐに終わるんじゃないか。そうしたら自分は家族のもとに帰れるのに。
王国軍から単騎、先行してロウア・デキンの防衛に駆けつけたレイは、予めディトレイド大臣から留まるように言われていたのだ。当然、どうしてと尋ねたが、よくわからないことを言われて押し切られてしまった。
「これは勇者殿。魔族との戦いはどうだったかな? その様子だと簡単に撃退したようだが」
「は、はい。簡単でした」
「そうか、それは良かった。今部屋を用意させておるから、今日はもう休まれよ。この三日間、碌な寝台に有りつけておらんのだろう? 食事の準備が整ったら、呼びに遣いを走らせよう」
嫌い、というわけではなかった。こうして自分のことを気にかけてくれているのがわかったから。
言うだけ言って仕事に戻ろうとした大臣の背中に言葉を投げかける。
「あのっ」
振り向いた大臣は無言でレイを見下ろした。ドキリとレイの鼓動は跳ねる。少年勇者はこの目が嫌いだった。
「オレは、魔王を倒しに行かなくて――」
「ごほん! 出陣前にもお伝えした通り、勇者殿には足並みを揃えていただきたい。貴方が単独行動している間に、手薄になったここが再び陥落するやもしれぬのです。どうか皆をお守りくだされ」
そんな言い方しなくても良いだろうに。これでは自分がわがままを言っているようではないかと、レイは心を痛める。
「オレだって、別に空を飛べるわけじゃ――」
「ならばなおのこと。広大なデキンの大地を貴方単独でどこまで行けましょう。如何に強大な力をもっていても、飲まず食わずで何日持ちますかな。デキンはレドネアと違い、清らかな小川や恵み豊かな森はないのですぞ」
ディトレイド大臣は、まるで見てきたようにデキンの大地を語る。そんなはずあるわけがないとういのに。しかし、城壁上から見た荒れ果てた光景を思い浮かべたレイには、それは真実のように映った。大臣の語るデキン像の正否はともかく、彼の言い分は正しかった。レイひとりでは、きっと三日と持たずに行き倒れてしまうだろう。
「……」
「さあ、部屋に戻って疲れをとりなさい」
近くにいた使用人を指名した大臣。レイは今度こそ部屋へと送り届けられることとなった。
ロウア・デキンはレドネアとデキンの境目にある要塞だ。建材のほとんどが現地調達の石であるため、外壁は薄茶色である。しかし内部の建物は案外整えられていて、特に士官以上の宿舎は木材がふんだんに使われていてとても目に優しい。レイに充てがわれた部屋も同様だった。
レイは備え付けのベッドにごろんと横になる。そして小さく溢した。
「アジルの冒険はこんなんじゃなかったのに……」
アジルとは初代勇者の名前。アジル・ディードレスタ、彼の活躍は人間の王国で最も有名な伝説として語られている。それはもう、魔族たちの間で語り継がれているのと同じように。ただ、何百年もの寿命を持つ魔族の間で伝わる内容よりも、お伽噺という印象が強い。現実ではあり得ないようなドラマティックな展開が少年たちの心を鷲掴みにしてやまず、同時にあらゆる伝説にありがちな『大袈裟に脚色された物語』だと誰もが考えていた。この要塞の和やか慌ただしい状況を見れば、誰だってそう思うだろう。
ただ、精霊の祝福か神の奇跡か、勇者の化け物じみた戦闘能力については伝承通りだった。片田舎の小さな村でレイを発見した王国。レイの、伝説級の暴力を見た時、胡散臭い占星術師どもの言った通りだと王国は歓喜した。そしてタイミング良く侵攻してくる魔王軍にも感謝した。
レイは知らない。
王国がこの戦いを歓迎しているということを。
レイは知らない。
自分がこの要塞で待機させられているのは。戦いの長期化を狙った策略だということを。
レイは知らない。
王国がこの戦争に、節度ある犠牲を求めていることを。
「はー、また攻めて来ないかなー」
そんな真相があるとは露知らず、少年は不謹慎な言葉を誰もいない静かな部屋に木霊させた。
「勇者殿は?」
要塞内のもっとも背の高い建造物、管理棟の執務室でディトレイド大臣は淹れられたお茶を口にした。
「自室で待機中であります」
「そうか」
返ってきた回答にほっと一息吐く。
「まったく、無学を保つのも良し悪しだな。御しやすいが些か面倒だ」
人間が暮らすレドネアの大地は豊かな土地だ。デキンのように、肉体的に優れた魔族が一丸となって生き抜くことに必死にならなければならないような場所ではない。人間は豊かな土地のうえでたくさんの子を産み、その数を増やしていった。そして多くの国が生まれた。
レドネアはその全土が豊かな土地である。北方の寒冷地は背の低い草原が遊牧に適しているだろう。南方の熱帯では森林が広がり、多くの生命が生きる喜びを謳歌していた。どこでだって大地の恵みを享受できた。というのに、だ。やがて人間は人間同士で争うようになった。
この数千年、人間の歴史は血に塗れた。多くの国が滅び、再び建てられる。ディトレイド大臣やレイを擁するカシヤ王国もそのうちのひとつだ。
カシヤ王国は決して列強国ではなかった。だからレイが同国で生まれたのは思いがけない幸運だった。勇者という圧倒的強さを誇る外交カードを持ってして、レドネア連合の主導権を握ることに成功したカシヤ王国。 各国の占星術師がこぞって魔族の侵攻を予見しなければ、そもそも連合なんていうものは誕生しなかったに違いない。しかしそれもいつまで続くだろうか。レイがその役目を果たし死んでしまえばどうなるだろうか。
その時のためにカシヤ王国は、魔王軍に多くの連合軍兵士を殺してもらわねばならなかったのだ。
ディトレイド大臣はレイよりも数日遅れてこのロウア・デキンに到着した。レイはこれを遅いと断じたが、それでも大臣は先遣隊に混じってやってきたのだ。さらに数日後には、諸国の将軍たちが到着するだろう。さらなる大軍を率いて。
王国の意向と勇者の希望、そして諸国の思惑の三者に板挟みにされたディトレイド大臣は、この上ない溜め息を吐いた。
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