ロウア・デキンからの敗走
上ではまだ戦いは続いていた。赤黒い入道雲の内部で光が瞬いたと思えば、波紋が広がるように雲が割れる。時折激しい金属音が聞こえて、誰かが僕の背後の瓦礫の山に叩きつけられた。戦いが止まないところを見ると勇者ではないらしい。僕は振り向かずにハルヤートが落下しただろう地点を目指した。
赤い雲の真下は酷いものだった。頭上からは火の粉が舞い落ち、そこらじゅうから呻き声が聞こえていた。僕はハルヤートの名を呼びながら慎重に歩を進める。絶対に見逃すものかと目を見張り、絶対に聞き逃すものかと耳を立てた。
「確かこの辺りに落ちたはずだ」
前方で瓦礫の山が崩れる音がして、地面に向けていた視線を慌てて跳ね上げた。地面からボコッと円錐形の大きな突起物が突き出していた。僕はほっと息を吐く。あれはハルヤートの槍、ドゥーアだ。
「ハル――?!」
ドゥーアが振り回され、山となっていた瓦礫が飛散する。途切れた僕の声だけど、しっかりとハルヤートには届いていたようで、
「イルベルイー? どうしてここに」
顔をあげると、振り返ったハルヤートの驚きに満ちた瞳が僕に向けられていた。しかし赤い雲から落下していた時の彼は、気絶していたように見えたけれど……。さすが鬼族に次ぐ武闘派、竜人族だ。
「落ちるハルヤートが見えたから……」
「そんなことで……俺ならもう大丈夫。戦いに戻るからイルベルイーは早く退い――」
ハルヤートが少し迷惑そうな顔をして僕に退避を促そうとした時、直上で巨大な爆発が起こった。巨大な要塞全体を揺るがすような轟音は、戦局の大きな変化を告げていた。空を覆い尽くす爆炎から、まるで火花のように四方八方に飛び散る魔族たち。
「まさか……」
ハルヤートが絶望に満ちた表情を見せる。勇者と直接戦っていたハルヤートには、あの爆炎のなかで何が起こったのかわかったのだろうか。
「行かなきゃ……」
無意識のうちに溢れ出たような呟き。しかしハルヤートの下肢は意に反して彼を地上に縛り付けた。しかしどれだけ身体が崩れ落ちようとも、愛槍だけは手放さないハルヤート。それでも彼が戦える状態にないことは明らかに見て取れた。如何に竜人族といえど、十二氏族きっての武闘派集団と互角に戦える勇者と剣を交えて無事なはずがなかったのだ。
僕は満身創痍のハルヤートに駆け寄る。遠めではわからなかったけれど、彼の身体は傷だらけだった。白い肌からは、鎌イタチに襲われたような切り傷が至る所にあって鮮血が滴り落ちている。ところどころにある硬質な鱗も削られて悲惨なことになっている。こんなに傷ついているというのに、彼の視線は真っ直ぐに戦場だけを睨みけていた。
「何言ってるんだ! ハルヤートも一緒に逃げるんだ!」
「そんなこと、できない!」
ようやく僕を見たハルヤートは激しく首を振る。僕はハルヤートの肩をきつく掴み、赤い空を指して怒鳴った。
「あれをみたろ?! あんなの普通じゃない!」
最後の大爆発から戦いの音がまるで聞こえてこない。ただただ紅蓮の雲の蠢く音が轟々と広がるだけだ。戦場は雲に包まれて目視できないけれど、この静寂は戦いの決着を意味しているのではないか? 雲に不自然な乱れがないことから、なかで激しく動く存在がいないことがわかる。
「それでも行かなきゃならないんだ!」
僕の手を振り払おうとするハルヤート。
「離せイルベルイー! 勇者を殺さないと、魔王さまが!」
如何に手負いとはいえ、竜人族に暴れられては僕では太刀打ちできない。だから僕はハルヤートの頬を思いっきり引っ叩いた。
「離さない!」
手がじんじんして熱をもっている。こんなふうに人を叩いたことなんて初めてだった。けれどその甲斐あってハルヤートを止めることができた。ハルヤートは赤く腫れた頬を押さえている。非力な白羊族の平手打ちなんて痛くないはずだ。けれど与えたショックは大きくて、大きく見開いた目を僕に向けていた。
「大丈夫だよハルヤート。勇者は追っては来ない。だって、荒廃したデキンの大地を手に入れても、人間には何も良いことなんて無いんだから」
ここはただの橋頭堡だ。だから敗北しても、まだ僕らには退路が残されている。そのためにヒャクライさまは今回の出征を計画されたのだ。もちろんそれはハルヤートもわかっていたようで、言い返せない彼は悔しそうに言葉を詰まらせた。ただハルヤートを説得するために僕が口にした言葉はハッタリだった。勇者が、人間が、これ以上の戦いを避けるために魔王の命を求める可能性だって十分考えられるのだから。だからこれは賭けだ。それでもハルヤートが意地を張ると言ったのなら、僕は止めることができないだろう。
「生きるんだ。そして強くなってよ。強くなって僕と一緒にユキを護って。ユキの近衛になるんでしょう? 僕は戦力にはなれないけれど、占星術師になって、ユキの運命を変えるヒントを星々から見つけてみせるから」
失われたはずの名前を耳にしたハルヤートは、覚醒したようにその目つきを変えた。
「――――――わかった」
力強く頷くハルヤート。僕は彼の腕を自分の肩に回す。
「な、なにを?!」
「歩けないんでしょう? ほら掴まって」
僕がハルヤートの肩に手を回すと、彼は「自分で歩けるから」と言って払いのけようとした。しかし、
「痛ぅ!」
「ほら!」
こんなところで意地を張らなくても良いのに。
僕は強引にハルヤートの肩を掴んで抱き上げる。ハルヤートも観念したようで、すぐに大人しくしてくれた。ただハルヤートを抱きかかえていると槍が持てない。僕が転がっているドゥーアに視線を落とすと、ドゥーアは何者かによって持ち上げられた。
「槍は私が持ちます。急ぎましょう!」
ドゥーアを拾い上げたのはユローだった。
「ユロー!」
「メルテは後方に預けてきました。さあ、早く!」
「うん!」
僕らは戦場を離脱した。後方の野営地に辿り着いた僕はロウア・デキンに振り返る。要塞の真上にはまだ赤い雲がのさばっていた。しかし不気味なほど静かで、戦いの本当の終わりはまだずっと先なのだと予感させられた。
その日のうちに魔王軍は撤退を開始した。数の上での損害は軽微だ。しかし総戦力の低下は看過できないレベルだった。勇者に戦いを挑んだほとんどの魔族が、帰らぬ人となってしまったのだ。そこにはハルヤートの父も含まれていたようで、事実を知った彼は酷く落ち込んでいた。
王都についた後、メルテを収容所に預けて魔王城へ帰路をとる。エントランスでの別れ際、僕とハルヤートは約束を交わした。
「俺はもっと強くなる。そして必ず魔王さまを護ってみせる。だからその時はイルベルイー、運命に抗う知恵を俺に与えてくれ」
「僕も、誰よりも優れた占星術師になってみせる。とても強い運命を持つ勇者でさえ打ち砕く方法を必ず見つけてみせるよ」
ロウア・デキンを巡る戦いは、魔王軍の大敗という結果に終わった。しかし、志を同じくする仲間と出会えたことは、僕にとって大きな収穫だった。ただこの膠着状態がどれだけ続くのかが……いや、勇者がどれだけの猶予を僕らにくれるのかは未知数で、そうそううかうかはしていられない。もしかしたら明日には勇者が単独でこの王都に乗り込んでくるかもしれないのだ。そうなれば僕らは彼を、勇者レイ・ルーズヘリオルを撃退することができるだろうか。
どんな力であれ一朝一夕では身につかない。それは占星術だって同じだ。けれど時間がないことも確かで、王都に戻った翌日、僕は力を得るヒントを求めて占星塾の書庫を訪れていた。
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