撤退

 はあっ、はあっ、はあっ……。


 狭いコクピットの中に反響するのは、彼女自身の呼吸の音だ。


 正面と左右。

 三方向の古い液晶モニターパネルには、それなりの解像度で傾き始めた陽の光に照らされた、ややなだらかな傾斜の山林が写しだされるばかり。

 「敵」の姿は見えない。


『聴こえる⁉︎ 真矢さん。状況は⁉︎』


 ブルートゥースのヘッドセットから、猿渡の緊張した声が聴こえる。


「見失いましたっ。近くには、いると思うんですが……」

『タイミング見て後退を。上がって来れないか?』

「そうしたいんですが……向こうが大人しく行かせてくれるかどうか……」


 左のコントロールレバーのジョグダイヤルでカメラを動かそうとした真矢は、掌の汗ばみでレバーの握りがずるずる滑るのを嫌って、作業着の左太腿を二度擦った。

 ごくん、と鳴った喉の音が、彼女の内側にやけに大きく響く。


『立ちんぼはダメだ! 常に移動して! 奴からは多分キミが見えて……』

「分かってます! でも足元の耐荷重係数がマチマチな上にこう障害物が多いとドスドスは走り回れませんよ!」

『ある程度アタリをつけたら踏み込んで幸運を祈れ! とにかく動き回るんだ!』

「弱地盤踏み抜いてコケたらやられます!」

『このままじゃどっちみち……待て。何か動いた。右だ! 三時方向!』

「ウソウソウソ、だめぇーっ!」


 黒い塊がモニターを一瞬遮り、左に駆け抜ける。

 左スティック十字キーを入れてフットペダルを踏み込む。

 背後で軽油発電機が唸りを上げ、身体を縛り付けている、カバー一枚掛かっただけの硬い樹脂の椅子を通して、四肢のアクチュエータの高回転モーターの振動がビリビリと伝わって来る。何かが焼けるような匂いがした。

 

 軋みを上げる関節とフレーム、ぐわっとモニターの景色が反転する。

 性能限界ギリギリの信地旋回。

 だが、それでも野生の獣の敏捷さには遠く及ばない。


『回り込んだ……真後ろだ! 』

「こっ、こんにゃろぉっ」


 再反転。軸足側の頼りない地盤がずぶっ、と沈む。

(コケないで……!)

 真矢の祈りは天に通じ、鋼鉄とFRPで構成される三メートル強の巨体は辛うじて転倒せずに踏み止まった。


 ガルァアッ


 咆哮一声。


 真矢が思わず悲鳴を飲み込んだのと、正面モニター一杯にその巨獣が映し出されたのが同時だった。


 眼に爛々と怒りの炎を燃やす、牙を剥いたゴリラの顔が。


 ぎぃんっ!


 機体の左側、恐らく肩口辺りから鋭い異音が鳴った。

 間を置かず聞いたこともない不快な音がフレーム伝いの振動を伴ってコクピットに鳴り響く。


 ギギギャリリジャリィィギギィ……!

「えっ! ちょっ……なに⁉︎」

『まずい! 左の肩口に棒を突っ込まれてる!』

「棒⁉︎ いったいなんの⁉︎」

『分からない! 少し曲がった鉄の棒に見えるけど……嘘だろ…差し込んだ棒をテコの要領でこじってる‼︎ クソッ! 奴は思ったより賢いぞ!』

 

 ばきぃん!


 何かか決定的に断裂する音が真矢を貫いた。泣き叫ぶ警報音。タケミカヅチの全身を表すアイコンの左腕が赤表示になり、「OFF LINE」の文字が点滅する。


 真矢は左腕を動かす操作をしたが反応がない。左腕の位置からは、更にぎゃんっ、ぎゃんっと強い力が繰り返し加えられている音がする。


 カメラの至近に影が現れては消え、モニターは点滅のような画像を垂れ流す。


「今度はなに⁉︎」


『奴が折った腕を肩から引きちぎろうとしてるんだ! 振りほどけないか⁉︎』


「振りほどくっつったって!!!」


 コクピットの真矢からは、自機と改造ゴリラがどんな位置関係かすら正確には分からない。

 真矢は右のマニュピレーターを操作して、ここと定めた位置で掴むアクションをしてみたが、その手は虚しく宙を掴んだだけだった。


 ぶちぃっ!


 くぐもった音が左側から響いた。


 うぎゃぁっ!!!


 甲高い悲鳴が重なって、機体にのし掛かっていた重しがなくなる。モニターが明るい景色を取り戻した。


「どうしたの⁉︎」


『ちぎった腕の剥き出しの送電線に触れたんだ! 今だめぐみ、後退だ‼︎』


 真矢は素早くジョグダイヤルを繰るとカメラに黒い巨体を捉えた。思わぬ衝撃にかなりの距離を退いた類人猿が、煙を上げる自分の腕の具合を確かめている。


「りょ、了解!」


 カメラを方位固定したまま、機体方向を回転させたタケミカヅチは、背中の発動機をフル回転させながら、わっしわっしと坂道を登り始めた。


 それを黙って見送るバイオ獣ではなかった。


 二、三歩助走を付けると大きく跳躍し、逃げるタケミカヅチの背中に四肢を絡めてしがみ付く。

 がくん、とタケミカヅチはバランスを失い、大きく後ろに傾いてゆく。


「きゃぁぁぁぁぁっ!」


 真矢は悲鳴を上げた。もうどうしようもない。


『発動機を切り離せ! 強制パージ! イグニションキーの下の赤いレバーだ!』


 猿渡の声の意味を理解する前に、真矢の身体はその命令を実行していた。赤い台形の輪の樹脂のレバーを、真矢は強く引いた。


 ばすん!


 爆砕ボルトの炸裂音と衝撃。硝煙の匂い。


 バランスを取り戻し、発動機を捨てて軽くなったタケミカヅチは、ペースを上げた。


『うおおおおおおおおおっ!!!』


 ヘッドセットから猿渡の雄叫びが響く。

 カメラを進行方向に振ると、坂の上から白いワゴンが一台、タケミカヅチに向かって突っ込んで来る。

 いや、その進路は僅かにタケミカヅチをずれて、ディーゼルエンジンとともに斜面に落下したゴリラに向いていた。


「猿渡さんっ⁉︎」

『止まるなタケミカヅチ! 駆け抜けろ!』


 タケミカヅチとすれ違う直前、軽自動車の運転席のドアが開いた。


 どんっ!

 がしゃあっ!!!


 重たい物がぶつかる音。何かがひしゃげ何かが砕ける音。


 真矢の操るタケミカヅチは坂の上まで登り切り、後ろを振り返る。


「猿渡さん! 猿渡さん!」


 カメラを振って眼下の景色から先輩を探す真矢は、泣いている自分に気付いた。


「猿渡さんっ! 応答してください! こんなの、こんなのイヤです! 猿渡さんっ!」


 ばんばん!


 コクピットハッチを直接叩く音に、真矢はびくっ、と身を固めた。


『右腕を降ろして……掴まらせてくれ。ここから離れよう』


「猿渡さんっ!」


『奴は死んでない。……国道まで出るんだ』


「はいっ!」


『バッテリーは……』


「大丈夫です! じゃ、行きますね!」


 降ろした右掌に足を掛け、猿渡が腕にすがり付いたのを確認すると、真矢はタケミカヅチを前進させた。


 遠ざかる森の斜面で、ぼんっ、と何かが爆発し煙が上がるのを、真矢はモニター越しに見送った。

 



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