部活動 七


 事件は翌日、ブレイクダンス同好会の部室で起こった。


 それはイベントを明日に控えた土曜日の出来事である。当日を目前に控えて、最後の仕上げをおこなうべく、ブレイクダンス同好会の面々は教室に集まっていた。休日にも関わらず、誰一人欠けることなく集合していた。


 そうした最中の出来事である。


「なぁ、向坂……」


「はいっ! な、なんスか? 竹内先輩っ!」


 つい今し方、近所のコンビニで受け取ったばかりの衣装。これをダンボールから取り出して確認する傍ら、竹内くんが向坂に声を掛けた。教室の前方、教壇に荷物を置いて、その正面にしゃがみ込んでのことである。


「男物と女物って別々に頼んだのか?」


「え? どうしてですか?」


 ちなみに他の面々はと言えば、これに構わず練習の最中だ。教室内で各々、やりたいようにやっている。例えばローズは、西野に対してパンチラを披露するのに必死であり、ガブリエラはこれを拝むのに一生懸命である。


「いや、なんつーかこれ、全部女物なんだけどさ」


「っ!?」


 竹内君からの問い掛けを受けて、向坂の表情がピシリと強張った。


 歩み早に竹内君の下へ向かう。


 段ボール箱の脇、しゃがみ込んだイケメンの隣まで駆け足だ。


「ちょ、ちょっと見せてもらっていいっスかっ?」


「ああ、むしろお前が確認してくれよ」


「うぃすっ!」


 平時であれば、竹内君の脹脛や鎖骨、二の腕など、露出した肌に視線の一つでも向けていただろう向坂である。しかしながら、今日この瞬間に限っては脇目も振らず一直線だった。マジ顔であった。


 その手で届いたばかりの荷物を確認し始める。


「マジッスか……」


 やがて呟かれたのは驚愕から出た呻きであった。


「どうした?」


「これ見て下さい、ショップが注文を取り違えたみたいっス」


 ダンボールの底に入ってた明細書を竹内君に差し出す向坂。


 そこには人数分だけ、女性用の衣装として注文が記載されていた。


「マジで?」


「注文するとき、何度も確認したんで間違いないっス。サイズやデザインの問題もあったんで、その時はローズ先輩にも一緒に見てもらってました。ちゃんと確認して注文したんで、これ絶対にショップ側の間違いっすよ」


「え、ローズちゃんも一緒だったの?」


「俺が困ってたら、先輩の方から声を掛けてくれたんスよ。女性が人前で踊るときって、やっぱり色々と問題があるじゃないですか。だからその、これなら大丈夫っていうか、そういう判断をしてもらったりして」


「あぁ、なるほど」


 向坂がローズから話し掛けられたと知ったことで、竹内君の相手を見つめる眼差しが厳しくなった。ただ、それもほんの僅かな間の出来事だ。相手が同性愛者だと思い起こしたところで、すぐに元の眼差しを取り戻す。


 その変化に気づいた者はいない。


「これは困ったわねぇ」


 気づけばいつの間にやら、ローズが二人の傍らに立っていた。


 髪をツインテールに纏めた上、首からタオルなど下げて、傍目には随分と同好会に馴染んで見える。蒸気した肌には汗が浮かんでおり、良い香りを周囲に振りまいて止まない。これには竹内君もまた、思わず胸をドキリとさせる。


「せっかくローズちゃんにチェックしてもらったのに、これはないよなぁ」


「今から電話しても、きっと交換は間に合わないッスよね……」


「イベントは明日なのでしょう? それは流石に無理じゃないかしら」


 女物の衣装を手にして、どうしたものかと頭を悩ませる三人。


 そうしたやり取りを耳にして、ローズに続き西野とガブリエラもまた集まってきた。なんだどうした、意識が向かう先にはビニールに収まった新品の衣装。そのどれもこれもはスカートが同封されており、誰が見ても女性向け。


「なるほど、これは確かに問……」


 なにやら呟こうとした西野の言葉を遮って、竹内くんが口を開いた。


「もしかして向坂、こういうの好きだったりするの?」


「ちょっと待って下さいっ、竹内先輩っ! 自分、そんなんじゃないっスよっ!? どっちかっていうと、ガタイ系が好きっていうか、景気の良い肉付きに興奮する方なんで、間違ってもこんなこと望まないッスっ! マッチョなスーツとか大好きッスっ!」


「あー……そうなの?」


「そ、そうっスっ!」


「いや、そこまで力まれると、なんかこう、悪い。軽い気持ちで話題を振ったの申し訳ないわ。冗談のつもりだったんだけど、やっぱりそういうところってセンシティブなのな? 次からはこういう話題、気をつけるようにするからさ」


「すみませんっ、つ、ついカッとなって……」


 顔を赤くして、しゅんと首を垂れるバリタチ。


 ちなみに気になるサイズはと言えば、S、S、M、2XL、3XLといった塩梅だ。仮にSサイズが金と銀のロリータに充てられているとすると、随分と裾野の広い商品をチョイスしたことになる。


 しかしながら、その事実に気付く者は同所にいなかった。


 本番を明日に控えて、人数分揃ったスカートにてんてこ舞いである。


「俺、近所に馴染みの店があるんで、今からそこに行って……」


「ねぇ、一つ提案があるのだけれど」


 なにやら語りかけたバリタチの言葉を遮って、今度はローズが口を開いた。


 前者に向かいかけた視線が後者に移動する。


 こうして発言がぶつかりあった時、モノを言うのは学園カーストにおける序列の上下である。そして、今まさに声を挙げた女は、同校においてその尤も高いところに位置している人物であった。


「どうしたの? ローズちゃん」


 即座に応じた竹内君の判断に従い、場は完全に彼女のものだ。


「あまりブレイクダンスに詳しくないから、改めて確認させてもらいたいのだけれど、明日のイベントで催されるショーケースという競技は、いわば舞台劇の出来栄えを競い合うものなのよね?」


「はい、その通りッス」


「本来であれば、ちゃんとストーリーを作って、十分に練習をして臨むべきだと、前に貴方が言っていたのを覚えているわ。ただ、私たちにはそれをやっている時間的な余裕がないから、ただ曲に併せて動作を繋げるだけだとも」


「そうっスね。申し訳ないんですが、その予定ッス」


「だったらせめて、衣装くらい気を利かせても良いのではないかしら?」


「……どういうことですか?」


「せっかく届いた衣装なのだもの、使わずに捨ててしまうのは勿体無いわ。こうしてみるとサイズは大きめのものが届いているようだし、もしもこれが入るようなら、衣装でインパクトを与えるというのも、決して悪くない案だとは思うのだけれど」


「…………」


 つまるところ、男子三名に女装しろと訴えるローズだった。


 より具体的に言えば、西野に女装をさせたい彼女である。更に詳細を詰めると、女装させた西野を騎乗位で犯したいマジキチだ。いつだって彼女は彼の自尊心を奪うために日々切磋琢磨している。


「もしかしたら、ダンスバトルまで進めるかもしれないわよ?」


「っ……」


 ローズから呟きを受けて、向坂の眉がピクリと動いた。


 ショーケースの後に待つダンスバトルへの出場は諦めていると、以前には語っていた彼である。しかしながら、それでもやっぱり惜しいとは感じているのだろう。そこへ付け入る隙を見つけたのが、こちらの金髪ロリータである。


「どうかしら?」


「ちょっと待て、流石にそれは……」


 咄嗟に声を上げる西野。


 これを遮るよう、ローズをヨイショするのが竹内君だ。


「いいね、ローズちゃん。それナイスアイディアだよっ」


 こっちはこっちで自身の下手くそなダンスを補うのに必死である。仮に今の話が実現すれば、助っ人枠であることに加えて、お笑い枠として出場が認められたことになる。求められる演技の幅も、より狭いものになるだろう。


 向坂に続いて竹内君もまた、これ幸いとローズの提案に乗っかった。おかげで現場の支持はと言えば、賛成二票、反対一票。そして、反対の一票が学園のカースト最底辺に位置する点を鑑みれば、事実上、反対票はないにも等しい状況である。


「っ……」


 フツメンの普通な部分に驚愕の色が浮かぶ。


 人前で女装だなどと、それは彼の掲げる信条とは真逆に位置する行いだった。革ジャンやサングラスこそ好んで身につけるフツメンだが、まさかスカートなど履く気にはなれないシニカル野郎である。男が女物の服を着るなどとんでもない、訴えんばかりである。


 だが、話題の流れは彼の意志に構わず進んでゆく。


「それじゃあ、明日は各自準備をしてくるように」


 皆の意見をまとめるよう、竹内君が言い放った。


 既に決定事項のようである。


 愕然とする西野。


 そんな彼に対して、これ幸いと追い打ちを掛けるのがローズだ。


「あぁ、それと西野くん。ちゃんとすね毛は剃ってきてね?」


「…………」


 ちゃんとすね毛は剃ってきてね。


 そんなどうしようもない台詞が、彼の脳裏に響いては幾重にも反響した。




◇ ◆ ◇




 同日の夜、西野の歩みは新宿二丁目に向かった。


 ここ最近、周囲からは猪突猛進な性格と見られがちな彼だが、これでなかなか過去を省みることができるフツメンだ。つい数日前、ブレイクダンス同好会へ何の準備もなく突撃して、無様な姿を晒したことは、彼自身もまた記憶に新しい出来事である。


 故に今回は絶対に失敗すまいと、その支度に臨んだ次第である。


 歩みが向かった先は、通りに軒を連ねたバーの一件。


 六本木に所在する彼の行きつけと比較しても、大差ない規模の店舗だろうか。三十平米ほどの空間に、カウンター席が幾つかとボックス席が並んでいる。カウンターの先にはバーテンが立ち、背後にはズラリと酒瓶が棚に並ぶ。


 夜の九時を過ぎた時間帯にありながら、同所には他に客の姿が見られない。高騰も著しい界隈の地代を思えば、まともに経営が成り立つとは思えない。故に推し量れるのは、同店が撤退間近であるか、或いは金持ちの道楽であるか。


「すまない、マーキスから紹介を受けて来たんだが……」


 カウンター越し、バーテンを務める人物に声を掛ける。


 相手は一目見て男性だと分かる白人男性であった。ただし、界隈に居を構えた他の店舗がそうであるように、彼もまたニューハーフ然とした出で立ちである。胸はそれなりに出ており、髪もまた肩に掛かるほど。


 ただし、肩幅のあるがっちりとした体格に加えて、二メートル近い背の高さが、如何に嗜好を凝らしたところで、持って生まれた性の存在を否応なく訴える。腕や足にも依然として筋肉が残っており、ふっくらした女性的な体付きとは程遠い。


 二丁目のオカマと聞いて、日本人が思い浮かべるステレオタイプだった。


「あらぁ、随分と可愛い子が来たわね」


「悪いが店長に取り次いでくれ。マーキスからの紹介で来た」


「私が店長よぉ?」


「というと、アンタがトーマスか?」


「私みたいなオカマを前にしても、なんら物怖じしないその立ち振舞い。マーキスから話に聞いていた通りねぇ? でも、まさかこんな可愛らしい子が来るなんて、お姉さんビックリしちゃったわぁ。なんだか胸がドキドキしてきちゃった」


「……ヤツから何か聞いているのか?」


「知り合いが行くから、話を聞いてやってくれと聞いたわねぇ」


「その通りだ。どうか相談に乗ってくれ」


 女装の上手いやつを紹介してくれとマーキスに相談したところ、こちらの店を案内された次第だった。まさか紹介した側も、西野本人が女装を学ぶ為に乞うたとは思わない。仕事の一環で何かしら人手が必要になったのだろうとは勝手な推測だ。


「…………」


「どうした?」


「貴方は彼と、どういった関係なのかしら?」


「そうだな……」


 こうして伝手こそ繋いだものの、マーキスは西野の背景まで、こちらの彼に説明していなかったようだった。後はそっちで上手いことやってくれということだろう。事情が事情なので、こればかりは西野自身でやるしかない。


「一言で例えると、大家と店子の関係だ」


「っ……」


 西野の言葉を受けて、バーテンの口元がピクリと動いた。


 どうやらトーマスはマーキスの仕事に及びがある様子だった。だからこそ、目の前に立つ少年が、その片棒を担いでいると知って驚いたようである。それもこれも西野がフツメンだからよくない。


 カウンター越しに眺める相手は、どこからどう見てもアジアの普通の高校生。


「他に質問があれば、気兼ねなく聞いてくれ」


「…………」


 西野からの返事を受けて、バーテンは続く言葉に躊躇した。


 彼の頭の中では幾つか、西野という存在に対して、今し方の回答を結びつける推論が走った。その内で最も妥当であったのが、思春期の学生が格好をつけたくて、ホラを吹いているのではないかというものだ。


 当然といえば当然だろう。


 何故ならばこちらのフツメンは圧倒的にもやし体型だからである。


「ここはお酒を扱うお店なのだけれど、君はまだ学生じゃないかしらぁ?」


 そして彼の推測は、半分正解で、半分間違いである。


「ああ、そういえば注文がまだだったな」


 西野の足が動いたかと思いきや、カウンター席の一つに腰掛けた。


 そして、ここぞとばかりにキメ顔となり語ってみせる。


「アードベッグの十年をくれ。ロックで頼む」


 初めて足を運んだ場所なので、舐められてはいけないと、普段の五割増しで格好つけている。それはもう勿体ぶるように、大して長くもない足を大仰にも組んだりして、好き勝手にやりたい放題である。


 志水が隣に腰掛けていたら、きっと無言で席を一つズレたことだろう。


「…………」


 これにはトーマスも苛立った。


 このガキ、俺の話を聞いてなかったのか。思わず喉元まで出掛かった文句を、危ういところで飲み込む。今の彼は客の前に立ったバーテンだ。更に言えば相手は碌に毛も生え揃わない子供である。流石にそれは大人気ない。


「悪いけれど、子供にお酒は出せないの。ごめんなさいねぇ」


「……そうか。ならミネラルウォーターでいい」


「…………」


 いいから帰れよ、切に訴えたいトーマスだった。


 しかしながら、席に腰掛けた西野は、風呂場に生えた頑固なカビのように粘ってみせる。この様子ではどれだけ擦っても落ちることはないだろう。まるで堪えた様子のない振る舞いから、トーマスは殊更に苛立ちを覚えた。


 自ずと続く言葉も失われる。


 その沈黙を是と取ったのか、変わって西野が言葉を続けた。


「アンタに頼みがあってきた」


「な、なにかしらぁ?」


 トーマスは口元を引き攣らせながら受け答え。


 これに構わず、西野は同所を訪れた本題を口にする。


「俺に女装を教えて欲しい」


「…………」


 この子、食べちゃっていいのかしら? ふとトーマスの脳裏に、新しい選択肢が生まれた。何故ならば彼はショタコンである。それも東南アジアの発展途上国に見られる些末な体付き、女っぽい顔立ちに興奮するタイプのショタコンである。


 おかげで女装したアジア少年など大好物だった。カンボジア、ベトナム、その手の単語を耳にしただけで興奮してしまう。少しばかり顔の作りが壊れていても、幼い肉体が首から下についていれば、それはそれで我慢できてしまう。


 更に今回、相手は何かにつけて苛立たしいガキンチョだ。嫌だ嫌だと泣き叫ぶのを押さえつけて、力尽くで頂いたのならば、さぞ心地良いことだろう。そう考えると、サドの気が強い彼としては唆るものがあった。


「……詳しい話を聞いても良いかしら?」


「ああ、是非とも聞いて欲しい」


 トーマスに請われるがまま、西野は同所へ至った理由を説明した。


 学校の部活動でダンスサークルに入ったこと。その集まりで翌日、イベントに参加する予定となっていること。際して購入した衣装が、店舗の誤送付から女性モノばかり届いてしまったこと。最終的にイベントには女装して臨むことになったこと。


 つい半日前の出来事だ。


「ふぅん? それはまた大変なことになったのねぇ」


「どうか頼めないだろうか?」


 まさか自身の尻穴が狙われているとはつゆ知らず、西野は会話を続ける。イベントが明日に迫っている為、こちらもこちらで一生懸命だ。昼過ぎに部室で解散して以来、未だにウィッグさえも調達できていないフツメンである。


 その為に必要なお小遣いこそローズから受け取ったものの、どこでどの程度の品を買えば良いのか、まるで見当の付かないフツメンだった。結果的にマーキスの元へと相談に向かったのがつい先刻のことである。


「そうねぇ。そういうことなら、手伝って上げてもいいわよ?」


「本当か?」


 一方でトーマスは、西野がただの一般人だと判断した。


 マーキスからの紹介というのも、今の自分が感じているように、関わり合うことで与えられる苛立ちから、厄介払いの要領でこちらへ寄越したのだろうと考えた。すると、もしかしたら、これでなかなか良い家の人間なのかもしれない、云々。


「その代わり、あとで一つ私の言うことを聞いて欲しいのだけれどぉ」


「分かった。俺に出来ることであれば、なんでも一つ言うことを聞こう」


「うふふ、それじゃあ決定ね」


 知らず知らずのうちに自らの尻穴を売り渡す西野だった。


 一方で上手いこと十代中頃の少年をやり込めたトーマスはほくほく顔だ。仮に入れることが不可能でも、軽くしゃぶらせるくらいならば問題はないだろうと考えて、カウンター奥に設えられた休憩室に思いを馳せる。


 彼の屈強な肉体を前として、無事に逃げ切ったノンケ少年は一人もいない。大半は行為の映像を一部始終撮影されて、そのまま泣き寝入りである。彼はこの手法を用いることで、かれこれ数十人という男子学生を美味しく頂いてきたのだ。


「できればウィッグの調達から相談したいのだが、併せて頼めるか?」


「ええ、いいわよ。こっちにいらっしゃい。奥に部屋があるから」


「承知した」


 バーテンに促されるがまま、席を立って歩みだした西野。その先には跳ね上げの天板が設けられており、カウンターの切れ目から奥へ続く通路が顔を覗かせていた。恐らくはバックオフィスへ繋がる廊下なのだろう。


 そうした最中のこと、不意に店内へ響く声があった。


「えっ、ど、どうして西野先輩がこんなところにいるんスかっ!?」


 覚えのある響きを耳として、フツメンは声の聞こえてきた側を振り返った。


 すると意識を向けた先、店舗の出入り口には見知った姿があった。


「向坂か」


「あの、に、西野先輩って、もしかして……」


 トーマスと並び立つフツメンを目の当たりとして、向坂の視線が揺れる。前者と後者の間で行ったり来たり。酷く落ち着きをなくして思える。大きく見開かれた眼差しは、決して少なくない動揺を見る者に伝えた。


 一方で声を掛けられた側はと言えば、これに気軽く応じる。


 自ずとその歩みも止まった。


「このような場所で会うとは奇遇だな。行きつけだったか?」


「いや、い、行きつけっていうか、その……」


 しどろもどろ、続く言葉を失う向坂。


 どうにも決まりがよろしくない。


 そんな彼の立ち振る舞いを目の当たりとして、トーマスが口を開いた。


「あらぁ、いらっしゃいコウくん」


「っ……」


 トーマスが語るに応じて、向坂の身体がビクリと震えた。


 傍目にも明らかなほど動揺が見て取れた。


「もしかして知り合いなのかしらぁ?」


「え、えぇ、まぁ……」


「ふぅん? それはまた奇遇な話もあったものねぇ」


「…………」


「まあ、そういう訳だから、悪いけれど少し店で待っていてちょうだい? 私はこの子と約束があるから、少し後ろに引っ込ませてもらうわね。なんでも女装をしたいんですって。うふふ、わざわざ私を訪ねてくるなんて、とても幸運なことよね」


「先輩っ、そ、それってどういう……」


「知り合いに紹介されたんだ。この男なら間違いないと言われた」


「っ……」


「なんでも化粧のプロらしいな。実績も大したものだと説明を受けてきた。聞いた話では、その手のメディアで活躍する者たちも、少なくない数がこちらで世話になったというじゃないか。もちろん、それは性別の是非に関わらないと聞いた」


 同じブレイクダンス同好会の部員同士、女装を求める理由は語るべくもない。その動機は容易に理解できるものだった。しかしながら、それでも向坂の西野を見つめる眼差しは、依然として緊張したままだった。


「あ、あの、西野先輩……」


「向坂も明日の件を相談に来たのか? それなら一緒に……」


「西野先輩っ、絶対に行っちゃ駄目ですっ!」


「……どうした? いきなり吠えたりして」


 店の隅々まで響き渡るほどの声で、向坂が声を挙げた。


 彼は声量を抑えることもせず、言葉を続ける。


「トーマスさんっ、その人は俺の先輩なんですっ! 部活動で困ってたところを助けてくれた、お、恩人なんですっ! だからどうか、その人だけは勘弁してやってくださいっ! 代わりに俺が、な、な、なんでも言うことを聞きますんでっ!」


 それは西野もまた初めて目の当たりとする、らしくない向坂の姿だった。


 どこまでも一杯一杯で、切羽詰まった有り様である。


「ちょっとちょっと、コウちゃん。いきなり大きな声を出したりして……」


「お願いしますっ! どうか、お願いしますっ!」


「…………」


 腰を綺麗に曲げて、お辞儀などして見せるコウちゃん。


 その様子には西野もまた疑問を持った。深々と頭を下げる後輩の姿には、それこそ怯え以外の何物も感じられなかった。ブレイクダンス同好会を通じて学内に眺める彼とは、まるで別人のように思われた。


 おかげで困った顔となるのがトーマスだ。


「やっと顔を見せたかと思えば、どうしちゃったのぉ?」


 態度こそ取り立てて変わることはない。語る調子も西野に対していた際と変わらず、どこか演じたようなオカマ然としたもの。しかしながら、その眼差しはローズが志水を見つめるような、どこか冷めたものが感じられた。


「トーマスさん、お願いしますっ!」


「……分かったわよ」


 ややあって、渋々と言った様子でトーマスが頷いた。


「ほ、本当ですか?」


「でも、これ以上は騒がしくしないでちょうだいね?」


「…………」


「じゃないとどうなるか、分かってるわよね?」


「……はい」


 ニコリと笑みを浮かべながら語ってみせるトーマス。


 これに向坂は粛々と頷くばかり。


 おかげで自然と二人の関係に意識の向かう西野だろうか。今し方に後輩が見せた問答は、いつだか学校でゲイバレを相談された際にも増して、真に迫るものがあった。自身が話題の発端であったことも手伝い、気にするなと言われても難しい相談である。


 更に昨今のフツメンはといえば、こちらの後輩から、生まれて初めて先輩扱いしてもらっている。おかげで少しばかり、お節介など焼きたい気分だった。ちょっと面倒とか、見てあげたい気分になっていた。


 そうした背景も手伝い、西野の口は自ずと動いていた。


「アンタ、うちの向坂と何かあったのか?」


 トーマスに向き直ったフツメンがタメ口で問い掛ける。


 年上相手にも関わらず、なんら構った様子が見られない。おもむろに両手をズボンのポケットに突っ込み、それとなくを装いながらの語りかけである。顔を少し斜めに構えたりして、本人は存分にシニカルを気取っている。


「っ……」


 おかげで槍玉に挙げられたトーマスは堪ったものでない。


 苛立ちから眉間を小刻みに震わせている。ただでさえ褒められた展開ではない上に、こうして自分を詰問しているのは、大して格好良くない癖に、やたらと気取った態度で振る舞ってみせるモヤシ野郎である。


 こちらのトーマスは、モヤシを犯すのは大好きだが、モヤシに舐められるのは大嫌いであった。彼にとってのアジア人とは、黄色い肌の少年とは、性的嗜好を満たすための道具以外の何物でもない。


「なんでもないわよぉ? ちょっとした知り合いなだけなんだからぁ」


「それにしては随分と焦っていたようだが……」


 チラリと西野の視線が向坂に向かった。


 対して見つめられた側はと言えば、この腹立たしいほどに空気の読めない先輩に、必死の形相で語ってみせる。どうしてこの人は、こういう時に限って生き生きとした表情を見せるのだと。


「せ、先輩、いいから帰りましょうっ! ほらっ!」


 大慌てで西野の腕を取り、店を後にしようとする。


 しかしながら、フツメンは動かなかった。


 今し方のやり取りから、なにかしら二人の間に不審なものを感じ取った西野である。更に彼の想像を肯定するよう、向坂は少なからず焦った様子で、グイグイと彼の腕を引いては店の外へ出るよう訴える。


 頼れるパイセンとしては、絶好の見せ場である。


 ここぞとばかり、後輩に格好良いところを見せる気満々であった。


「マーキスのヤツが俺にここを紹介した理由が、なんとなく分かった」


「……どういうことかしら?」


「どうやらアンタは少しばかり、調子にのってしまったようだな」


「…………」


 ただでさえ細い西野の瞳が、ニィと殊更に細められる。


 以前、ローズが同じことをやっていて格好良かったので、ちょっと真似してみたフツメンである。本人は挑発しているつもりだ。しかし、とことんアジアンフェイスな彼がやると、遠くのものが見えなくて目を細めているようにしか見えない。


「何が言いたいのかしら?」


「ヤツに感謝するといい。如何せん肝っ玉の小さな男だが、あれでなかなか、こうした細かいことには気が利く。過去にどういった交友があったのかは知れないが、今後とも大切にするべきだろう」


「もしかして、私のことを脅しているつもりなの?」


「まさか? 純粋な忠告だ」


「まるで意味が分からないのだけれど」


「金輪際、向坂には関わるな。わかったな?」


 例によって言葉少なに語ってみせるフツメン。しかも相変わらずの上から目線だ。これで相手がマーキスのような外見の大柄な黒人であったのなら、トーマスも大人しく頷いたかもしれない。一つの忠告として、素直に受け入れたかもしれない。


 しかしながら、目の前の相手はアジア人だった。


 それも貧弱なモヤシ体型のフツメンだった。


「このクソがきゃぁ、言わせておけば偉そうにしやがって……」


 我慢の限界に達したのだろう、トーマスの表情が憤怒に歪んだ。


 言葉も日本語から英語に変わった。


 同時に右腕が伸びたかと思いきや、カウンター越しに西野の胸ぐらを掴んだ。ぐいと持ち上げられるに応じて、踵が床から浮かび上がる。見事に鍛え上げられた、まるで丸太のような腕は、フツメンの太ももほどの太さがあった。


 だが、それでも西野は動じなかった。


「どうした? そんなに俺とヤリたいのか?」


「っ……」


 ここぞとばかりに煽ってみせる。


 しかも相手に合わせて、わざわざ英語での挑発だ。


 おかげで圧倒的な苛立ちが、トーマスの胸の内には溢れた。それはもう我慢できないほどの怒りとなって、全身を駆け巡った。そして、店内には彼らと向坂の他に、誰一人として客の姿は見られない。


 次の瞬間には左腕が動いていた。


「肉棒が擦り切れるまで犯してやる」


 固く握られた大きな拳が、フツメンの顔面目掛けて迫る。


 向坂の口から悲鳴じみた声が上がった。


「せ、先輩っ!」


 事情を知らない者が目の当たりとしたのなら、次の瞬間にでも鼻を折って床に転がる西野の姿が想像されたことだろう。事実、向坂の脳裏に描かれたのは、鼻血ブーとなり泣きわめく先輩の情けない姿である。


 だがしかし、こちらのフツメンは彼が考えるより、少しばかり往生際が悪い。


「拳で挑んでくるとは潔いな」


「っ……」


 相手からの暴力を事前に見越して挙げられた西野の右手。トーマスの拳はその正面、皮膚に触れるか触れないかの位置で、ピタリと静止していた。傍目にはフツメンが彼のパンチを腕一本で止めたように映る光景だろうか。


 実はちょっとズレているのだけれど、西野の力は細かいことに拘らない。仮に明後日な方向から殴られたとしても、同じように静止していたことだろう。腕を上げたのも周囲に対する言い訳のようなものだ。


「えっ……」


 自ずと眺める側からも声が上がっていた。


 受け止められてしまった当事者としては、驚愕以外の何物でもない。


「な、なんだよ、おいっ……腕が動かねぇぞっ!?」


「どうした? 肉棒が擦り切れるまで犯すんじゃなかったのか?」


「っ……」


 必死の表情で力んで見せるトーマス。そんな彼の拳を自らの手で掴んで、軽い調子から語ってみせるのがフツメン。違和感も甚だしい光景である。それこそ七号のバスケットボールを子供の小さな手で器用に扱っているような。


「ところで今の動き、出身は米海軍か?」


「なっ……」


 畳み掛けるよう、こっ恥ずかしい台詞を語ってみせるフツメン。


 今晩の西野はフルコースだ。


 頼んでもいない料理が次から次へと運ばれてくる。


 教室で口にしたのなら、まず間違いなく剽軽者担当の彼に弄くられていたことだろう。先生っ! 西野君が何か変なこと言ってます! 更には続けざま、委員長にも叱られたことだろう。だから西野君っ、そういうのが良くないって言ってるでしょ!?


 しかしながら、同所には彼の行いを邪魔する者は一人として存在しない。


 おかげで思う存分格好つけることができるシニカル気取りだ。


「今後とも鍛錬を忘れないことだ。筋は悪くない」


「こ、このっ……」


 オネエ言葉も忘れて、トーマスは慄く。


 どうやら目の前の相手を脅威と認めたようだ。何故ならばフツメンの指摘は困ったことに的を射ていた。自ずと西野の胸ぐらを掴んでいた手が外れた。応じて西野もまた、彼の拳に添えていた右手を開く。謎の不思議パワーを解く。


 カウンター越し、両者の間に僅かばかり距離が開いた。


「テメェ、何しに来やがったっ!? 誰の指図だっ!」


「言っただろう? マーキスからの紹介で女装を習いにきた」


「っ……」


 ここへ来てトーマスの顔に焦りが浮かぶ。


 そうした最中の出来事である。店の出入り口のドアに取り付けられていた鈴が、カランカランと乾いた音を立てて鳴った。どうやら客のようだ。それは数名からなる一団であって、一人の例外なく黒いスーツを着用した厳つい男たちである。


 一人が先んじてドアを引き、自らの身をドアストッパーとして、一団の中央に立つ者に頭を下げる。頭を下げられた側は、これといって気兼ねした様子もなく、堂々と入店する。その後ろに他の面々がぞろぞろと続いた。


 舎弟を引き連れたマフィアの親分を思わせる入店風景だった。


 自ずと居合わせた面々の視線は彼らの下に向かう。そう言えば店を閉めていなかったわ、云々、トーマスの顔色が悪くなった。かと思えば、その表情は同所を訪れた相手の顔を目の当たりとして、殊更に複雑なものに。


 向坂に至っては顔色も真っ青である。


「…………」


 入店から直後、マフィアの親分っぽい男は、これといって挨拶を口にすることもなく、無言のまま店内に視線を巡らせた。他に客の見られない店内。カウンター越しに向かい合うバーテンと学生服の少年。偶然から居合わせた風に映る同世代の少年。


 時間にして数秒ほどだろうか。


 妙に静かな間が流れた。


 ややあって、早々に状況を推し量ったのだろう。


「相変わらず期待を裏切らない男だな、アンタという人は」


 ドスの利いた低い声が店内に響いた。落ち着きと威厳の感じられる声色は、これを聞く者の心を否応なく震え上がらせる。更にその人物が、身の丈二メートル近い巨漢の黒人男性とあらば、影響は顕著なものだ。


 新たにバーへ訪れたのは他の誰でもない。


 西野を同所に紹介した人物、マーキスであった。


「なに、そう大したことじゃない」


 これに対してフツメンは、いけしゃあしゃあと答えてみせる。


 際しては両手を学生服のズボンのポケットへ突っ込むと共に、カウンター越し、トーマスに向き合っていた姿勢から半歩を引く。そして、店舗の出入口が設けられた側に、半身を引いた形で向き直る。西野的に格好良いと考える角度でのお迎えだ。


「アンタと店の外で遭うのは久しぶりだな。マーキス」


「……そうだな、かれこれ二年ぶりくらいか」


 言葉を交わす二人に対して、トーマスや向坂、更にはマーキスが引き連れたスーツたちの注目が集まる。自ずと皆々の脳裏に浮かんだのは疑問。誰一人として例外のない同様の突っ込み。どうしてこの子供、タメ口で話し掛けてるんだよ。


「しかし、酒を飲みに来たにしては、随分と仰々しいご来店じゃないか」


 チラリとフツメンの視線が動いた。


 そこにはマーキスを囲うスーツたちの姿がある。


「それもこれもアンタのせいなんだがな……」


「自分の臆病を他人のせいにするのは関心しないな」


「こっちはアンタほど、自分の腕に自信がある訳でもなければ、優れてもいる訳でもない。分を弁えているだけだ。それを臆病と称するのは構わないが、臆病がすなわち愚かであるとは考えて欲しくない」


「なかなか語るようになったじゃないか」


「おかげさまでな」


 傍から眺めたら、西野がマーキスを煽っているようにしか思えない会話である。おかげで居合わせた者たちは気が気でない。どこからどうみても、キレたらヤバそうなのが後者であり、キレられたら死にそうなのが前者である。


 おいおい誰か止めてやれよ、言わんばかりの視線が右へ左へ。


 そうした周囲からの思いはさておいて、二人の間では淡々と会話が続く。


「ところで、必要なものは揃ったのか?」


「残念ながらこれからだ。少しばかり交渉に難航していてな」


「とても交渉という雰囲気には思えないが……」


 マーキスの視線がトーマスに向かう。


 これを受けてようやっと、彼は発言する機会を得たように口を開いた。


「お、おい、マーキス。このガキは一体っ……」


「心配になって来てみてんだが、やはり足を運んで正解だったな」


「……本当にお前の知り合いなのか?」


「悪いが少しばかり面倒を見てやってくれ。金が必要ならこっちで持つ。それとこれは俺からの忠告だが、どうやら少しばかり派手に遊びすぎたようだな。これまではどうだったか知らないが、上の連中に目を付けられているぞ」


「っ……」


「ちなみにお前が睨みつけていたのは、うちの大黒柱だ」


「なっ……お、おいっ、それは……」


 マーキスからの言葉を受けて、ビクリとトーマスの肩が震えた。


 多少なりともその界隈には理解があるのだろう。


 途端に顔が青冷めてゆく。


「お前の仕事と、こ、こ、この小僧を女装させること、何がどうトチ狂ったら、それらが関係してくるんだっ!? 悪いが俺には何がなんだかサッパリわからない。まさか、お、俺のことを処理しに来たのかっ!? そういうことなのかっ!?」


「女装をさせる? ……何の話だ?」


「俺が知るかっ、本人から聞いてくれっ!」


 マーキスの視線が西野に向かう。


 これを受けて女装希望者は、さも当然とばかり、淡々と語ってみせる。


「言っただろう? 女装が上手いヤツを紹介してくれと」


「……アンタが女装するつもりだったのか?」


「明日、ブレイクダンスのコンテストがある。これに部員の皆と共に、女装して出場する予定だ。衣装こそ支度はあるが、ウィッグと化粧は各々都合する必要がある。併せて今晩中に、実践的な女装の技術を学ばなければならない」


「…………」


 まさか西野本人が女装する予定であったとは思わないマーキスだった。




◇ ◆ ◇




 西野の他に向坂を迎えて、トーマスの女装講座は開かれる運びとなった。


 場所は変わらず二丁目に設けられたバーである。営業中の看板を閉店に返しての貸し切りだ。顧客は明日に女装デビューを控えた西野と向坂。カウンター越しにフェイスミラーと化粧道具を並べての受講である。


 他に幾つか設けられたボックス席には、マーキスと彼の取り巻きの姿がある。別段、男の化粧する姿など見たくもない彼らではあったが、場の成り行きから最後まで付き合う羽目となった次第である。適当に手酌で酒など傾けながらのことだ。


 西野の姿を目の当たりとした取り巻き一同は、出会って当初こそ疑問に首を傾げていた。しかしながら、自分たちに対するものとは異なる、妙に丁寧に映るマーキスの対応を確認して、どうやら事情を察したようだった。


 ちなみにこれはトーマスもまた同様である。


 その背景を理解したことで、打って変わって大人しくなっていた。


 そして、問題の彼の腕前はと言えば、それは大したものであった。


 伊達に商売として、他人の顔の面倒を見ていない。抱える顧客も有名所揃いである。性癖にこそ難のあるのトーマスだが、化粧道具の取り扱いに関しては一品であった。おかげで瞬く間、フツメンの顔は男から女へ、塗り替えられていった。


 鏡を前にして小一時間ほどが経過しただろうか。


「……これで完成よ」


 手にしたチークをカウンターに置いて、トーマスが言った。


 彼の前には共に女装した西野と向坂の姿がある。


 化粧下地の塗り込みから始まり、ウィッグの被り方から衣装の取り回しに至るまで、共に同じペースでレッスンを進めてきた二人だった。そうして全ての工程を終えた今、少年二人は女物の衣装を着込んで、カウンターに腰掛けている。


 その出で立ちはと言えば、各々で酷く対照的だ。


「以前から思っていたけれど、やっぱりコウちゃんは女映えするわねぇ。体格は小柄だし、肩幅も小さいから、喉仏を隠したら判断つかないんじゃないかしら? スカートを両手でたくし上げて、オチンポをフリフリしながらおねだりして欲しいわぁ」


「あの、ひ、人目もあるんで、あんまり顔を近づけないで欲しいんスけど……」


「あらぁ? 人目がなければ近づけてしまってもいいのかしらぁ? いやだわぁ、そんなことを言われたら、わたし興奮しちゃう! 本当、こんなことならもっと早く女装させておけばよかったわぁ。なんて勿体無いことをしたのかしら」


 トーマスに絶賛されているのが向坂である。


 その姿は一見して、到底男とは思えない。肩幅が小さく、背丈が小柄である点も手伝って、居合わせた誰の目にも女として映った。ウィッグに黒髪のおかっぱを被り、メガネなど着用しているから、それこそ図書館の似合う文系少女の体である。


 身に付けた衣服もまた、そうした顔立ちに見合ったものだ。上は白シャツに淡いクリーム色のセーター。下は丈長のグレーのフレアスカート。更に視線が下ること、可愛らしい赤い革靴が印象的な出で立ちである。


「なかなか大したものだ、向坂」


「せ、先輩?」


「まさか男だとは気付かれまい。思わずホテルへ誘いたくなるほどだ」


「…………」


 西野もここぞとばかりに褒め称える。


 幾分か冗談が気色悪いことになっているのは、偏にその顔面偏差値が所以である。同じセリフを竹内君が口にしていたのなら、自身もまた股間を固くしていただろうとは、想像に難くない向坂本人である。


 一方で西野自身の外見はと言えば、端的に称してギャルだ。


 露骨なまでにギャルだ。


 おかげでこちらもまた、その方向性はさておいて、傍目完全に女の子。


「ところで、このメイクはどうにかならなかったのか?」


 鏡に写った自らの顔を指し示して、フツメンが非難の声をあげた。


 指先でウィッグの毛先など摘みながらのこと。


 原因はそれもこれも、油絵が如く厚塗りを重ねた化粧だ。


 それは例えばベッタリと塗られたファンデーションであったり、目元に煌めくラメ入りのアイシャドウであったり、キツく塗られたアイラインだったり、ここぞとばかりに持ち上げられて、深い谷間を作る人工の二重であったりする。


 これに明るい茶色の縦巻きウィッグを着用の上、太ももを大胆に露出させる黒のミニスカート。更には肩口まで肌を晒す、襟ぐりの大きく開いたオフショルダーのカットソーと、これを押し上げるよう、これでもかと詰められた胸元のパッド。


 そこには見事なギャルがいた。


 こちらもまた男か女か、問われたのなら大半が女だと答える程度には、立派に女の子をしている。向坂ほど素直に可愛いとは言えないが、若々しさが故、或いは軽いイメージが先行する為か、男に不自由することはないだろう、みたいな外見だ。


 しかしながら、その在り方は本人が想定した女装とは程遠い。


「仕方がないじゃない。貴方ってば顔がのっぺりしているんだもの」


「……それと厚化粧のどこに関係があるんだ?」


「貴方のような典型的なアジア顔は、濃い目の化粧で誤魔化すしかないのよ。悔しかったら整形でもなんでもして、コウちゃんくらい可愛くなってから言いなさい? その細い目と平たい顔がある限り、貴方に取りうる選択肢なんて、そう大した数はないんだから」


「…………」


 速攻で自らの顔面を否定された西野である。


 しかも、それが女装した結果に対する評価となると、果たしてどのような感情を抱いて相手に接すれば良いのか、判断に迷うフツメンである。別段、女としての成功を望んでいる訳ではない童貞野郎だ。


 ただ、それでも女装という課題に対しては、十分な成果が鏡には映っていた。


「もちろん手を抜いたつもりはないわよ? 貴方、今の自分が男に見える?」


「いいや、これはこれで大したものだと思う。素晴らしい技術だ」


「そうでしょう? なによぉ、意外と素直じゃなぁい」


 ニコリと笑みを作って、どこか満足げな表情となるトーマス。


 自分の仕事が認められたのが嬉しいようだった。


 もしくはフツメンの背景を理解したことで、相手を対等な存在と認めたが所以か。


「マーキスが紹介するだけのことはある」


「あらぁ、そうして褒めてくれるの、私は嬉しいわよぉ?」


 西野がそんな体たらくからだろうか。


 一連のやり取りを眺めて、いよいよマーキスが口を開いた。


「アンタ、本当にその格好で表に出るつもりか?」


 殿へ苦言を申し立てる家臣が如くである。


 しかしながら、殿はこれに取り合う素振りすら見せない。


「これなら顔が他所へ知れることもない。むしろ都合が良いと言えるな」


「……本人が良いっていうなら、俺はもう止めないがな」


 ギャル化した上にドヤ顔。


 トーマスが誇る圧倒的な手腕のおかげで、素直に可愛いとは言えずとも、日本人にありがちな様式美を絶妙に満たしている。すなわち何処にでもいるアジアンギャル。渋谷辺りに立てば、有象無象に埋もれて、決して目立つことはない程度に女の子。


 そんな西野を眺めて、何とも言えない表情となるマーキスだった。

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