部活動 六
その日、登校直後の松浦さんは、自席の前で羞恥に身を震わせていた。
理由は偏に、昨日とは大きく有り様を変えた自らの机である。
天板には太い黒のマジックで、阿婆擦れだとか、ビッチだとか、死ねだとか、その手の単語が所狭しと並んでいる。更にはジュースでも垂らしたのか、椅子も含めて、そこらかしこがベトベトとしている。とてもではないが座れたものではない。
また、どこから採取してきたのか、机の中には汚物の類いが放り込まれおり、悪臭を放っている。教室に置きっぱなしであった教科書は全滅だ。一緒に置いておいた読みかけの文庫本や、予備の生理用品なども同様である。
まるでいつぞやの西野の机を彷彿とさせる状況だった。
「…………」
おかげで松浦さんは硬直している。
机の前に辿り着いて以降、ピクリとも動かずに自席を見つめている。
彼女の中では、既に犯人の目星が付いていた。二年A組で女子の頂点に立つ女、リサちゃんである。昨日のやり取りで、その処女膜の存在を露呈させてしまった為、僻みをかったのだろうと松浦さんは考えた次第だ。
実際には別人の犯行だが、そういう細かいことは松浦さんには関係ない。
大切なのは自分の内側にある鬱憤を向ける明確な矛先なのだ。
「…………」
そんなこんなで彼女は、今という時間を必死に堪えている。
もちろん女子生徒からの助けは絶望的だ。
しかし、男子生徒なら或いは、誰かが声を掛けてくれるかもしれない。否、もしかしたら、久しぶりに登校してきた竹内くんが、自分のことを助けてくれるかもしれない。そんなことを考えていた。彼女は男性に対する女性器の強さを正しく理解している女だ。
故に松浦さんの選んだコマンドは、防御一択である。
今という時間を必死に堪えて、一発逆転を狙うスタイルである。
「…………」
おかげで彼女は忘れていた。
こうした状況において、他の誰よりも、それこそ教師よりも扱いに困る人物が、同クラスには籍をおいていることに。しかもその人物は最近、妙に登校の時間が早い。隣のクラスの誰かが言うには、早朝、そこいらを走り回っているのを見たとか。
「おはよう」
そうこうしていると、元気の良い挨拶が教室に響いた。
他の誰でもない。西野だ。
「今日は通学路で金木犀の花を見かけた。秋の深まりを感じるな」
教室へ到着すると共に、その口からは朝の挨拶が漏れる。誰も返事など返した試しが無いにも関わらず、毎日、必ず一言、何かしら口にしてから教室へ入ってくるのだ。しかも意外と小ネタが利いており、続く文句は日替わりの上、一度として重複がない。
おかげでクラスメイトは、朝から苛立ちを抱える羽目となっている。
「…………」
自ずと彼の視界には、松浦さんの机が映った。
当然、そこに描かれた刺激的な文言も否応なく目に飛び込んでくる。
「……なるほど」
教室に入って直後、その歩みが止まった。
何がなるほどか。
居合わせた生徒の誰もが、西野の姿に注目である。クラスでも冴えないと評判の彼が、自分たちが想像していたよりも行動力に溢れていることを、ここ数週間の出来事ながら、理解し始めた彼ら彼女らである。
曰く、西野の女飢えは半端ない。
「松浦さん、その机はどうしたんだ?」
案の定、速攻で声を掛けに向かう西野。
その歩みは自ずと彼女の下に向かっていた。
「…………」
堪らないのは声を掛けられた側だ。
彼女は天に祈るような気持ちで願った。竹内君に助けて欲しいだなんて、そんな贅沢は言わない。妥協して鈴木くんでも構わない。だからどうか、他のイケメンを自分の下に寄越して下さいと。
それはもう切実に願った。
「大丈夫か? 松浦さ……」
だからだろうか、珍しくも天は彼女に味方した。
西野の言葉を遮るように届けられたのは、第三者の声。
それは数日ぶりの響き。
「おはよー……って、どうしたの? なんか教室が妙な雰囲気なんだけど」
松浦さんの悲願。竹内君が数日ぶりに登校してきた。
今の今まで自らの足元を見つめるように伏せられていた彼女の視線が、教室の出入り口、声の聞こえてきた側に向かって、勢い良く上げられた。自ずと西野もまた、そんな彼女に続くよう、視線をそちらへ移ろわせる。
教室の皆々の注目が竹内君に集まった。
その一挙一動を見守るように、誰もがイケメンの姿を見つめている。
「え? マジで? なんか凄いことになってるじゃん」
彼は松浦さんの机を確認して、それとなく語ってみせる。
ただ、あまり驚いた様子はない。
「あの、た、竹内君……その、わ、わたし……」
ここぞとばかりに松浦さんが声を上げた。
か弱い少女を演出しつつの上目遣いは、こういった時の為、日々鍛え上げられてきた代物である。伊達に毎晩、風呂上がりに姿見の前で練習していない。眦には意図して組み上げられた涙が粒と浮かぶ。
その様子を確認して、竹内君は彼女から他の面々に向き直った。
「これって俺と鈴木が松浦さんとヤッたとか、学内で噂になってるのと関係ある?」
それとなく周りに確認するよう竹内くんが問うた。
ただ、今回ばかりはこれといって返事が返ってくることもない。話題が話題なだけあって、下手に触れては火傷も必至だと誰もが正しく理解していた。こんな下らないことで学校生活に支障を来したくないというのがクラスメイトの総意である。
これ幸いと竹内君は言葉を続ける。
「こういうこと言うのもあれだけど、俺って割と来るもの拒まずだから」
「……え?」
疑問の声は松浦さんの口から。
対して竹内君は、構わず堂々と続きを語ってみせる。
「だから、仮に噂が本当だったとしても、悪いのは全面的に俺で、松浦さんには机を汚されるほどの非はないよ。なんか色々と迷惑掛けちゃったみたいだね? その点に関しては申し訳ないと思うよ。本当にごめん」
「竹内君……」
竹内君に熱い眼差しを向ける松浦さん。
やっぱり彼は私の白馬の王子様なんだから、みたいな。
しかし、それも僅かな間の出来事だ。
「でも、流石に人前でこういうことを言ってまわるような、妙な趣味はないんだよ。っていうか、誰? わざわざ公言しちゃったの。そういうことをしていると、いつか誰にも信用されなくなっちゃうと思うな、俺は」
「っ……」
松浦さんの顔色が途端に悪くなる。
実は昨晩、鈴木君から電話越しに事情を確認していた竹内君である。というより、正しくは教室内での立場を危うんだ鈴木君が、四の五の言わずに相談を持ちかけた、というのがより詳細な運びだ。
当然、クラスナンバーワンイケメンは、その対処にも抜かりない。
松浦さんが表立って苛めれられるのは、美味しく頂いてしまった過去の経緯もあり、流石の彼も締りが良くない。かと言って、メンヘラ以外の何者でもない松浦さんから、これ以上纏わり付かれるのもまた、彼としては避けたかった。
そこで一芝居、さも噂が一部のみ耳に届いたような言動である。
暗に松浦さんをディスりつつのヨイショ攻撃である。
「噂を誰が言い出したかなんて、今更確認したくもないよ。恋バナに夢中になるのが悪いとも思わない。けどさ、周りが見えなくなって、他の人に迷惑をかけるの、俺はちょっと違うと思うんだよ。これって間違ってるかな?」
誰に問うでもなく語ってみせる竹内君。
すると、これに賛同の声を上げる者があった。
「流石は竹内くんだ。俺もその通りだと思う」
「…………」
他の誰でもない、西野である。
よりによってこのタイミングで口を挟んで来るのかよ、教室に居合わせた誰もの意見が、満場一致を見せた瞬間である。別に誰もお前の意見なんて求めてねぇよ、言わんばかりの視線が向けられる。
当然、竹内君はこれを華麗にスルーだ。
西野とはそういう生き物なのだと、段々と順応しつつあるイケメンである。
「そういう訳だから、悪いけど机を片付けるの手伝ってもらえない? これでまた担任の目に見つかったりしたら、どれだけ説教されるか分かったもんじゃないし、犯人探しとか、俺としては絶対にやりたくないから」
「そ、そうねっ、竹内君の言うとおりよ!」
これに委員長が賛同する。場をまとめに向かう。
同クラスにおいて、リサちゃんに次ぐ序列の彼女の言葉ともなれば、影響力も相応である。先月、文化祭を成功に導いた功績も未だ衰えていない。その求心力は、こういった状況でこそ輝く。
「たしかに大竹のネチッこい説教は最悪だよなぁ」「っていうか、別に誰が誰とヤッても、そんなの本人の自由だしな」「そうだよね。私も竹内君が正しいと思うな」「こういうこと、堂々と言えちゃうから竹内ってスゲェよな」「それ言えてる」
「っていうか、来るもの拒まずなら、私もめっちゃ行きたいんだけど!」「あ、ちょっと、そういうのずるいっ! 私も竹内くんとしたーい!」「私も私も! 竹内君だったら生でもいいよ?」「ちょっとぉ、そういうのが良くないって話でしょ?」
早々に教室は普段の雰囲気を取り戻していった。
おかげで昨日には暴落するかと思われた竹内君の評価も、逆に上昇を見せた。潔く放たれた来るもの拒まずの精神が、どうやら肯定的に受け入れられた様子だった。もしも同じことを西野が口にしたのなら、まず間違いなく睨まれたことだろう。
おかげで心中穏やかでないのが松浦さんである。
「あ、あのっ、竹内君っ……」
「鈴木、悪いけど新しく机とか持ってきてくれない?」
「え? 俺?」
松浦さんからの熱視線をひらり交わして、竹内君は今この瞬間を平然と振る舞う。如何に西野を圧倒する為とは言え、これ以上は彼も限界だった。メンヘラのメンヘラ足る所以を味わったイケメンである。
長期的に考えてみると、彼は一人で勝手に苦労して、松浦さんから西野を救った形となる。得られた報酬は数回のセックスとハメ撮り。果たしてこれを安いと考えるか、高いと考えるか、判断は人によって分かれそうである。
「おいおい、それくらい働けよ」
「お、おうっ」
パタパタと駆け足で教室を後とする鈴木君。
その背を廊下に見送ってから、竹内君は松浦さんに向き直った。
「そういう訳で松浦さん、さっき言ったとおり俺ってこんな男だから、さ」
「っ……」
事実上、もう近づくな宣言だった。
というより、今はそれどころじゃない竹内君だ。西野と約束したブレイクダンス同好会の一件で、先日から寝る間も惜しんで練習を続けている。今も全身が筋肉痛で、とてもではないが机など持てない。松浦さんに構っている時間など皆無のイケメンだった。
そうこうしていると、他から女子生徒が集まって竹内くんを囲い始める。
松浦さんは何を語る間もなく、その輪によって弾き飛ばされた。意地悪な女子の一人から、肘を鳩尾に入れられて、思わずうめき声を漏らす。ただ、そうしたやり取りは他者の身体に隠されて、既に竹内君の目は届かない。
蹌踉めきながらも身体を起こす。
再び視界に捉えた時、既に竹内君の姿は遠い。
そんな彼女の耳に、女子生徒たちからの陰口が届けられる。
「ぶっちゃけ松浦さんの方から迫ったんじゃない?」「言えてる、あの子ビッチだもんねぇ」「たしか部活動でも、部員の男を大勢囲ってるって話じゃん?」「うっわ、それ最悪」「マジなんの為に生きてるんだろうね」「死ねばいいのに」
紆余曲折を経て彼女が落ち着いた先は、学園カーストの最底辺。
文化祭の準備の最中、どこぞのフツメンが彼女に声を掛けたばかりに、その隣まで転がり落ちてしまった松浦さんである。しかし、それでも彼女は諦めていなかった。ジッと人垣越しに、竹内君を見つめ続けている。
「…………」
その瞳は、屈辱と憤怒に彩られて、黒い炎を灯していた。
◇ ◆ ◇
その日の放課後、ブレイクダンス同好会には部員が勢揃いしていた。
数日ぶりに登校してきた竹内君を混ぜてのミーティングである。本番まで残すところ三日となり、当日に向けて細かな打ち合わせをしよう、という流れだった。打ち合わせ場所は例によって、練習場所を兼ねる空き教室だ。
「それじゃあ、以前に説明した流れで一度合わさせて欲しいッス」
声を上げたのは同好会長の向坂である。
円陣を組むよう教室に並び立つ面々を見つめている。
これに間髪を容れず、手を上げたのが西野だ。
「割り込んで悪いが、一つだけ質問をしてもいいだろうか?」
「なんスか? 西野先輩」
「っ……」
西野先輩。
なんスか? 西野先輩。
そんなワードが、先輩呼ばわりが、西野の心に響いた。小中高と学生生活を営んできて、初めてまともに先輩扱いを受けたフツメンである。その思ったよりも聞き心地の良いフレーズから、こいつのことは大切にしてやらねばと、後輩に対する意識が改まる。
ちょろい先輩である。
「……西野先輩?」
「ああいや、その、なんだ。少しばかり気になったことがあってな」
「俺で分かることなら答えますけど……」
「ブレイクダンスのイベントというと、数名から成るグループを作って、一人づつ互いに踊り合うイメージがあったんだが、前に受けた説明では、どうやら普通のダンスコンテストのようなものを想像させる。練習はしてきたが、その辺りはどうなんだ?」
「あ、それはたしかに伝えてませんでした。すみません」
「いいや、謝るほどのことじゃない」
「一口にブレイクダンスのイベントと言っても、幾つか種類があるんですよ」
「なるほど」
今回、西野たちが挑むイベントはショーケースと呼ばれるスタイルで行われる。
一般にブレイクダンスというと、フツメンの言葉通り、ダンサーが交互に一人づつ踊り合うイメージが強い。しかしながら、一方で他のダンスと同じように、グループの皆で一緒に踊るものもある。ショーケースとは、そちらを指してのことだ。
そのような説明が向坂から西野たちに為された。
「今回のイベントだと、ショーケースで上位四チームが選出されて、ダンスバトルに進むことになってるんスけど、そこまで目指す必要はないかなって思ってます。練習時間はおろか、碌に構成を練っている時間もありませんでしたから」
「参加することに意義があるということか」
「そうっスね。皆でちゃんと最後まで踊りきれれば十分だと思います。一応、誤解のないように説明をさせてもらうと、ショーケースはちゃんとストーリーを作って、数ヶ月くらい練習して挑むのが普通なんですよ」
「それはまた、随分と手間の掛かる競技なんだな」
「そうなんです。先輩の言うとおり、ショーケースは時間と手間が掛かるんです。即興で始まるバトルとは別物っスね。衣装やサウンド、場合によっては小道具を使ったりもします。けど、今回はその余裕もないので、淡々と技を繋げていこうと思います」
「それで大丈夫なのか?」
実はダンスの合間に行われる挑発合戦に興味があったフツメンだ。
中指とか立ててみたかったブレイクダンス一年生だ。
それができないと知って、ちょっと残念な気持ちだろうか。
「大してレベルの高くない地区予選なんで、それでも十分だと思います。っていうか、ローズ先輩のダンスを見た後だと、それでも、もしかしたらもしかしてしまうんじゃないかって、少なからず期待しちゃってるんですよね、俺」
向坂は朗らかな笑みを浮かべて語ってみせる。
それでもやはり、当初の目標はより高いところにあったのだろう。
何処か寂しそうな眼差しのバリタチだった。
「そういうことなら、すまないが俺からも一ついいか?」
次いで竹内君が手を上げた。
「あ、は、はいっ! なんですか? 竹内先輩っ」
答える向坂の表情は、西野に対する際と比較して、幾分か瞳が輝いて見える。伊達にゲイバレから同好会を潰し損ねていない。その視線はイケメンのイケているところに吸い寄せられて、かと思えば、シャツの上から胸板の具合など窺い始める。
竹内先輩、サッカー部だから身体の方も引き締まってそう、とかなんとか。
「衣装はどうするんだ? ステージで使う曲に関しては、前の打ち合わせで貰ったプリントに技の順番と併せて書いてあったから、こっちで用意して練習してたけど、各自それっぽい服で来いって言われると、些か不安が残るじゃん?」
チラリ、隣に立つ西野に視線を向けては語る竹内君。
こちらのフツメンの絶望的なファッションセンスを理解しているが故の心配事である。いつぞやどこぞの百貨店で高級スーツをお買い求めになっていた光景は、未だ彼も記憶に新しい出来事だ。
西野が一人で自爆する分には、取り立てて文句もない竹内君だが、今回は同じグループでの参加となる。まさか足を引っ張られては堪らないイケメンだった。万が一にもスーツで来られた日には目も当てられない。
そして事実、西野の脳裏にはスーツという選択肢も存在していた。
少しパリッとしていたほうが、逆に目立って格好良いんじゃないか、みたいな。
「それでしたら、俺の方で発注してあるんで大丈夫ッス」
「ふぅん? 随分と準備が良いんだな。やるじゃん、向坂」
「い、いえっ、滅相もないッスっ! それにローズ先輩にも手伝って貰ったんで」
竹内君に褒められて、とても嬉しいバリタチだった。
対してイケメンの意識は、早々に金髪ロリータへ移る。
「そうなんだ? ローズちゃんも色々と手伝ってくれてありがとうね」
「どういたしまして」
ニンマリと良い笑みを浮かべて、ローズは頷いてみせた。
不本意ながら同好会に付き合っている彼女の立場からすれば、わざわざ手間を掛けさせられた分だけ、不機嫌になりそうなものだ。しかしながら、その顔にはニコニコと笑顔が浮かんでいた。
更に何を思ったのか、彼女の視線がガブリエラに向かう。
「お姉様? 私になにかご用ですか?」
これに気づいたガブリエラが、嬉しそうな表情となって声を上げた。
ローズと比較しても殊更に白い肌の只中、真っ赤な目玉がギョロリと動く。それと同時に歓喜から、形の良い眦が大きく垂れ下がった。彼女の性癖を理解する金髪ロリータとしては、可愛らしさより気色悪さが先に立つ銀髪ロリータの反応である。
「いいえ? 貴方にご用なんて何もないわよ」
「そうなのですか? お姉様からの視線を感じたのですが」
「目の前を羽虫が舞っただけだから、いちいち気にしないで頂戴」
「それは残念です」
彼女たちの間で交わされるやり取りは、ここ最近の二人の関係そのものである。取り立てて変化は見られない。居合わせた面々もまた、その辺りは既に理解しており、これといって突っ込みも入らなかった。
以降、同日は日が暮れるまで練習と相成った彼ら彼女らである。
◇ ◆ ◇
竹内君のブレイクダンス同好会入りは、すぐさま学内で噂になった。
放課後の教室、一人残って夜遅くまでダンスの練習をしていた竹内君。西野にだけは絶対に負けるまいと、必死になっていた竹内君。その姿を覗き見た女子生徒によるリークは、SNSを通じて一晩で拡散された。
おかげで翌日、朝のホームルーム前、彼の周りには人集りが生まれていた。
松浦さんの3P宣言による影響など、既に微塵も感じられない。
「竹内君、ブレイクダンス踊れるなんてかっこいいー!」「サッカー部と兼部って聞いたけどマジ? それって凄くない?」「あれってめっちゃ大変なんだよね? うちの弟も練習の最中に首の骨折ってたし」「え……そ、それってやばくない?」
「っていうか、一年の頃から同じクラスだけど、竹内が踊れるなんて知らなかったし」「そういうところストイックで格好いいんだよな」「分かる、マジで憧れるわ」「お、俺もやってみようかな?」「やめとけって。普通に骨折って終わりだって」
「入部してみたいけど、やっぱり敷居高いよなぁ」「ローズちゃんも入部したらしいじゃん?」「俺らが入っても、気不味い雰囲気になるよなぁ」「たしか転校生の子も入ってるらしいぜ?」「マジかよっ!?」
朝のホームルーム前、クラスメイトに囲まれてイケメンは語る。
「いやいやいや、まだそう大した出来栄えじゃないからさ……」
さわやかに語ってみせた手前、脇や背中に嫌な汗を掻きまくりの竹内君である。
事実、昨日の練習では最も踊れていなかった彼だ。
フツメンにすら劣っていたという事実が、イケメンの立場を退っ引きならない状況まで追い詰めていた。しかも数日後には、ステージ上での披露が控えている。舞台に立った者たちの間で、否応なく比較される羽目になる。
もちろん言い訳は用意している。
例えば本家本元であるブレイクダンス同好会の部長。彼には負けても仕方がないと、当たり障りのない説明ができる。なにせ捧げた時間が違う。周りも容易に納得することだろう。むしろ、自分が目立っては本末転倒だとも。
そして、金と銀のロリータもまた、そういうものだと説明すれば、周りの納得を得ることは容易いと竹内君は考えている。その浮世離れした存在感は、言葉で説明の難しいあれこれも、感覚で納得させるだけの説得力があるだろうと。
しかしながら、西野にだけは絶対に劣る訳にはいかない彼だった。
こればかりは何をどのように説明したところで、上手い言葉が見つからない。何故ならば、相手は西野なのである。幾ら西野が優れていようと、西野ができることなら、自分にも当然できるだろうとは、昨今の二年A組におけるトレンドだ。
おかげで竹内君は焦りに焦る。
西野、西野、西野。
まるで呪いが如く、脳裏にその名前が繰り返される。
「…………」
他者から囲まれたことで、改めて自らの置かれた状況を理解する彼だった。自ずと身体も強張る。だいぶ気温が下がってきた昨今だが、人知れずシャツの下では、気持ちの悪い汗を流し続けている。
テメェら西野舐めるんじゃねぇよ、こっちはマジで大変なんだぞ。心中に呟かれたのは、フツメンのスペックを見誤ったが故の憤りである。おかげで先々日から睡眠時間を半分に削っている竹内君である。
他方、問題のフツメンはといえば、極めて静かだ。
「…………」
昨日と変わらず、周囲にはまるで人気が見られない。
それでも西野は自席に腰掛けて、誰かが話しかけてくるのを待っている。かれこれ十数分ほど待っている。誰かにブレイクダンス同好会へ参加したことを伝えたくて、うずうずしている。大勢の生徒に囲まれた竹内君を横目に、そわそわしている。
しかしながら、彼の下を訪れる生徒は一向に現れない。
「…………」
自分も竹内君と一緒にブレイクダンス同好会に入ったんだ。そんな何気ない会話を交わしたくて仕方がないフツメン。けれど西野には、その話をする相手がいなかった。何故ならば、彼は学園カーストの最底辺に位置するからである。
その扱いは昨日とまるで変わりない。
「…………」
このままでは何もないまま朝のホームルームが始まっていまう。
異性からモテる為にブレイクダンス同好会へ入部したというのに、その事実を公表することなく終わってしまったら、それこそ元も子もない。圧倒的にちやほやされている竹内君の姿が、フツメンの心を焦らせた。
そんな彼の耳に、ふと届く声があった。
「そういえば、たしか西野も入部したとか聞いたけど」
「っ……」
ついに自分の番がやって来たか。
フツメンの身体が強張る。
悦びが全身を駆け巡る。
さあ来いと。
思う存分話しかけてくれと。
しかしながら、現実はそこまで甘くない。
「どうせ数日で辞めるだろ? 絶対にローズちゃん目当てだって」「あー、なるほどな」「ここ最近、やたらとまとわりついてるもんなぁ」「あれマジでローズちゃんが可哀想だよな」「もしかして弱みを握ってるとか?」「普通にあり得るし」
「そもそも、あの必死さがないよねー」「言えてる」「っていうか、風俗とか行けばよくない?」「いや無理っしょ? あの顔じゃ絶対に断られるし」「なんか中学生みたいだよね」「ヒゲとか生やせばイケるっしょ?」「うわ、めっちゃ見たくないしヒゲ中学生」
「…………」
散々な言われようのヒゲ中学生だった。
しかしながら、今の彼には彼らの意見に抗する力がない。
カースト序列が足りていない。
故にフツメンには待つことしかできなかった。
段々と寂しくなってゆく心を、一時間目の授業に向けて用意した数学Bの教科書など眺めてつつ慰める。すると、ふと目に止まったのは標準偏差の線グラフ。平均をゼロ、標準偏差をσとする正規分布の確率密度関数。
その分布に従う確率変数が0±σの間に値をとる確率は、およそ六十八パーセント。これから弾き出されること、マイナス3σの位置に自らの姿を重ね合わせたのがフツメンである。より抽象的には、左隅の方で凸の裾に位置する平べったい辺り。
学内カーストにおける生徒の分布が、仮に西野の眺める関数と同様の性質を見せた場合、昨今の彼が立つ位置はと言えば、その記載に等しくマイナス3σより以下、コンマ幾つの世界となる。つまり校内に数名。確率的には悪い意味でスーパーレアだ。
「…………」
そして、数学Bの教科書は確率分布の在り方こそ教えてくれても、これを操作する術は導いてくれない。果たして学内カーストの横軸を決定付ける要素は何なのか、教科書を前に頭を悩ませるフツメンだろうか。
本を開いたまま、真面目に考え始めてしまう有様である。
だからだろうか。
すぐ目前まで近づいた者の存在に、彼は声を掛けられるまで気付けなかった。
「西野君、ちょっといい?」
「っ……」
予期せずその名を呼ばれて、西野は顔を挙げた。
それはまるで熱いものにでも触れたようだ。
「ちょ、ちょっと、いきなり顔を上げないでよっ! びっくりするじゃないのっ」
「あぁ、委員長か。どうした? 俺になにか用件か?」
西野の机の正面には、志水の姿があった。
その姿を確認して、彼は高ぶる胸の高鳴りを落ち着かせた。てっきり他の誰か、ブレイクダンスの話題に興味を持ったクラスメイトが、自分に声を掛けてくれたのかと勘違いしたフツメンだった。
「っていうか、どうして少し残念そうなの?」
「まさか? クラス委員長に声を掛けてもらえるなど光栄だ」
「…………」
いけしゃあしゃあと言ってのけるフツメン。
本人がどこまで気づいているかは定かでないが、卒業旅行での一件を経たことで、委員長に対する意識が変化している西野だった。伊達にプライベートな部分を色々と見せ付けていない。クラスメイトであると同時に、事情を知ってしまった一般人枠である。
故に一歩引いてしまうのが、彼の掲げる目的が所以。
こちらのフツメンが求めているのは、甘酸っぱい青春の思い出なのである。そこには暴力など出番はなくて、学内での清く正しい、或いは放課後に少しエッチな、いずれにせよ穏やかな時間だけが求められる。
だからだろうか、一歩を踏み込んだ志水に対して身を引いてしまうのは。
「まあ、西野君が私のことをどう思っていようと、別にどうでもいいのだけれど?」
「自分を卑下するのは良くない。委員長はとても魅力的な女だ」
「っ……だ、だから、そういうのが良くないって、前にも言ったわよね?」
「……すまない」
速攻で地雷を踏み抜いたフツメンである。
たが、それでも委員長は西野と会話を続ける意志を見せた。
「ところで、ど、同好会に入ったのよね? たしかブライクダンスとか」
「ああ、そうだ。つい数日前のことだ」
先月までの彼女であれば、絶対に在り得なかった光景である。西野を毛嫌いしていた委員長らしからぬ振る舞いである。その姿を目の当たりとしては、教室に居合わせたクラスメイトもまた、何がどうしたとばかり、二人に視線が向かう。
「西野君、ダンスなんて踊れたの?」
「いいや、踊れるというには程遠いな」
「だったらどうして、ブレイクダンス同好会なんて入ったの?」
「…………」
それは西野にとって、あまり素直に口外したくない内容だった。同時に志水にとっても、もしかしたら、などと勝手に想像した上での問い掛けであった。そして結果的に、両者の推測は類まれなる一致を見せた。
「そこまでして女の子にモテたいの?」
「…………」
完膚無きまで叩きのめされる羽目となったフツメンである。
ぐぅの音も出ない。
「……もしかして、図星?」
「さて、どうだろうな」
「想像した以上に安直で、なんだか逆に申し訳ない気分なのだけれど」
「…………」
情けない気分になるフツメンだった。
論破されてしまったフツメンだった。
しかしながら、自らの本懐は偽れないフツメンある。
「今という時間を大切にしたいと、切に感じている。だからこそ、できることは全てやっておきたい。その結果、後悔することがあったとしても、今この瞬間を全力で駆け抜けることができたのなら、それはきっと、笑い話として受け入れることができる」
「っ……」
フツメンが放ってみせた若さ故の主張。
それが委員長の心に思いのほか響いた。
今まさに自分という存在を見失いかけている彼女だ。より具体的に言えば、東京外国語大学の入試に向けて、成績の振るわない高校二年生である。このまま進んだのなら、保険として受けた併願の三流私立大学が精々の未来が見えている。
そうして必死な彼女だからこそ、同じく必死な彼の意見は鋭く突き刺さった。
似たような状況に立ったからこそ見えてくる光景もある。
「そ、そう? それなら、まあ、頑張れば良いと思うけれど」
「応援してくれてありがとう、委員長」
「別に西野君を応援なんて、し、していないわよっ!」
「そうなのか?」
「それとこれは私からのお節介だけれど、他人に偉そうなことを言ってみせるなら、歯並びくらい矯正した方がいいと思うわよっ!? 欧米諸国では、歯の並びは社会的な信用にも関わる、とても大切なことなのだからっ!」
「……なるほど」
苦し紛れの強がり。
その一言が、どれだけの惨事を引き起こすことか、委員長は知らない。
フツメンは彼女からの助言を、素直に受け入れて頷いた。
自身が尊敬する相手、二年A組の委員長からのアドバイスであったから。
「ありがとう。早急に改善したいと思う」
「そ、そうね、それが良いと思うわっ!」
「ああ、その気遣いに感謝する。ありがとう、委員長」
「っ……」
西野からの感謝を受けて、委員長は歩み早にその下を離れていった。
一人寂しそうに自席へ腰掛けたフツメン。全てはそんな彼を哀れに思い声を掛けた彼女の、良心が所以のやり取りであった。結果的に声を掛けられた側は、次なる目標を得て、おもむろにズボンから端末を取り出した。
間髪を容れず、歯医者の予約を取るべく動いた西野である。
◇ ◆ ◇
その日の放課後、西野の歩みは近藤歯科医院へ向かった。
二年A組の女子を仕切る生徒、リサちゃんの名字もまた近藤であり、いつだか彼が屋上で耳にした彼女の父親の職業は歯科医師である。つまるところ、同医院の二階には彼女の私室が所在しており、その界隈は彼女の生活圏である。
「西野さん、こちらへどうぞー」
「はい」
女性歯科衛生士に案内されるがまま、西野は診療室へ歩みを向ける。
おっぱいの大きな若い女性の歯科衛生士だった。
普段はシニカルを気取る彼も、やっぱり男である。本能には逆らえない。もしかしたら、これはそういうことなのかと、期待に胸が膨らんだ。あまり規模の大きなクリニックではないので、そういうことになってしまうのではないかと、ドキドキでワクワクだ。
そんな彼の耳へ、不意に響く声があった。
「ぱぱぁー? ご飯の支度できたよぉー?」
それはフツメンの歩みが向かう先、通路の角の向こう側から聞こえてきた。同医院が経営者の住居を兼ねていることは、彼もまた同所を訪れるに際して、建物の外観から何となく把握していた。自ずと声の出処も医師の家族だろうと判断が付く。
治療室に配置されたユニット、リクライニング式の椅子まで移動する。するとフロアの隅の方で向かい合いやり取りをする者の姿が目に入った。方や白衣姿の男性。年の頃は四十過ぎといったあたりだろうか。恐らくはクリニックの歯科医師だろう。
西野と同じく厚ぼったい一重瞼の持ち主である。更に言えば、顔立ちもまた取り立てて褒められるところはなくフツメン。しかしながら、その表情に何をするともなく笑みが浮かんでいる。おかげで見る者に穏やかなおじさん然とした印象を与える。
強いて欠点を上げるのであれば、頭頂部の具合が少し怪しい。
「悪いけれど、まだ患者さんがいるんだよ。先に食べていておくれ」
「え? もういつもの時間過ぎてるよね?」
そして、もう一方は西野もまた目に覚えのある相手である。
リサちゃんだ。
「困っている患者さんがいるんだ、そういうことは言うものじゃないよ」
「もうっ、パパってばいつもそうなんだから。嫌いになっちゃうよ?」
微笑ましいやり取りであった。
口を尖らせては語ってみせるリサちゃん。ただ、その表情は台詞とは裏腹に、ニコニコと笑みを浮かべている。学内で眺める彼女もまた笑みの尽きない少女ではあるが、家庭で眺めるそれは、それ以上に朗らかなものであった。
「今日は一緒にご飯を食べて、一緒にお風呂に入る約束だったじゃないの」
「ご飯を食べる約束はしたかもしれないけれど、お風呂に入る約束はしていないよ。いいからほら、家に戻っていなさい。すぐに患者さんがいらっしゃるから、お前が居たら気にされるかもしれないだろう?」
「いいじゃん、パパ。一緒に入ろうよ」
「そんなに入りたければポチと一緒にはいったらどうだい?」
「ポチじゃなくて、パパと一緒に入りたいのにぃー」
しかし、それも十代中頃を過ぎようかという女の台詞としては、些か際立ったものである。世の中では思春期を向かえた大半の少女が父親を嫌悪するという。そうした只中、彼女が父親を見つめる眼差しには、幾分か熱が入って見受けられる。
つまるところ、リサちゃんはファザコンだった。
それも近親相姦上等を掲げる筋金入りのパパ大好きっ子だった。
彼女の膣に未だ膜が残っている理由もまた、パパが娘を娘として扱い続けている為であり、娘が未だパパを攻略できていない為である。ここ数年は風呂場に乱入してみたり、ベッドに忍び込んでみたりと、その手の行いには枚挙に遑がない。
当然、彼女はその事実をクラスメイトに対して秘密にしている。少し軽い感じの女の子を演じながら、女子グループのリーダー的に存在として振る舞ってきた。同時にそうした事実に対して、リサちゃんは何ら負い目を抱えていない。
彼女は強かに現実を見据えつつ、計画的にパパ攻略を考えている。その脳裏には妊娠、出産へ至るまでの具体的な計画が存在している。将来の夢はパパの隣で歯科衛生士。そんな非常に生々しい女の子だった。
「そんなこと言うと、またお風呂に突撃しちゃうよ?」
「昔はもう少し素直だったのに、どうしてこうなってしまったんだろうね……」
「うふふふ、現役女子高生とお風呂なんて、パパ、とってもお得じゃない?」
「自分の娘に興奮するような父親はいないよ。ほら、あっちに行ってて」
故に帰宅後、父親と共に過ごす夜の時間。今この瞬間こそ、リサちゃんにとっては人生で一番大切な時間だった。今日はどんな話をしようか、食事の間に流すテレビ番組はどうしようか、そんなことばかり普段から考えている。
そうした彼女の至福をブレイクするヤツがいる。
「すまない、飛び入りで予約などしてしまって」
英語は読めても空気は読めない患者、西野五卿、十六歳、童貞。
自然と謝罪の言葉を述べたところ、二人に反応があった。
「ああいや、気にしないで下さい。こちらこそ妙なところをお見せてしまって申し訳ありません。ほら、リサ、患者さんがいらっしゃるのだから、お前は戻っていなさい。食事は食べてしまっていて構わないから」
「えっ……、ちょ、ちょっと、なんで西野がいるのっ!?」
西野の姿を目の当たりとして、リサちゃんの表情が驚愕に染まった。
そのクリクリとした大きな瞳が、殊更に大きく見開かれた。
「朝のホームルーム前、委員長から歯の矯正をした方が良いと指摘を受けてな。都内でも名医と誉れ高い近藤先生に是非見て頂きたく、予約をさせて頂いた。以前、リサちゃんが学校で自慢して見せたとおり、ネットに記事が幾つも上がっていた」
「っ……」
しれっとリサちゃんをリサちゃん呼ばわりのフツメンである。
しかもあろうことか、委員長を引き合いに出してのトークだ。どうして委員長が西野の歯並びを指摘するのだとか、わざわざ矯正など勧めるのだとか、彼女にしてみれば謎が謎を呼ぶ語り草である。
「委員長から提案って、ど、どういうこと?」
「言葉通りだ。歯並びが悪いから直した方が良いとアドバイスを受けた」
「…………」
まるで状況の見えてこないリサちゃんだった。
相変わらず説明が下手くそなフツメンである。
「リサの友達かい?」
子どもたちの間に会話が途切れたことで、リサちゃんのパパから声が掛かった。どうやら患者が娘の知り合いとは思わなかったようだ。優しげな眼差しで、西野を見つめては問い掛ける。
「クラスメイトとして日々を共に過ごさせて頂いている」
「なるほど、同じクラスの子なのだね」
「学校でも自慢の父親だと伝えられたところ、是非先生に見て頂けたらと」
いつぞや屋上での一件を思い起こしては語る。
松浦さんがクラスの女子一同からイエローカードを貰った一件だ。
「……もしかして、娘の彼氏かい?」
すると何を勘違いしたのか、リサちゃんのパパが問い掛けた。
まさかの彼氏扱いである。
当然、フツメンなど眼中にないファザコン娘は慌てた。
「ちょ、ちょっとっ! 待ってよパパっ!」
「なにを慌てているんだい、リサ」
「そんなわけないでしょっ!? 彼氏なんかじゃないわっ!」
「そうなのかい?」
「そうよっ! 私のタイプはもっとこう、普段から落ち着きがあって、どんな大変なときも慌てずに冷静で、それでいて側に居たいって思える穏やかな人なんだからっ! 西野君なんて、ぜんぜんタイプじゃないわっ!」
「……本人の前でそこまで否定するのはどうかと思うがね」
大好きなパパから、まるで興味のないクラスメイトが彼氏扱い。
心中穏やかでないリサちゃんだった。
おかげで告白する余地もなく振られたフツメンはといえば、多少なりともショック。何故ならばリサちゃんは、クラスでも指折りの可愛らしい女の子だからだ。頭では無理だろうと理解していたものの、いざ面と向かって言われると衝撃は大きい。
とはいえ、今この場で憤るような西野ではない。
ショックには違いないが、適当に受け流して場を取り繕う。
「すまないが、治療を頼めるだろうか?」
「え? あ、あぁ、そうだね。騒々しくして申し訳ない」
「いいや、こちらこそ滅相もない。気にしないで頂きたい」
「うちの娘がすまないね……」
ヘコヘコと頭を下げて平謝りのリサパパだった。娘と同じ年頃の学生に過ぎない西野に対しても、気を遣った様子で頭を下げてみせる。その顔には人の良さそうな笑みが見て取れる。随分と腰の低い性格の持ち主らしい。
これを理解して西野もまた一歩を引いて頭を下げる。
「いえ、こちらこそ家庭の時間を奪ってしまい申し訳ない」
これで礼儀には礼儀で返せるフツメンだ。ただ、そんな彼に対して礼儀を払う相手が、世間には非常に少なかった為、今のような言動に落ち着いてしまった次第である。こればかりは歯の矯正のように簡単には治らない。
「しかし、矯正となると……」
西野の言葉を受けて、近藤医師が口を開いた。
「なにか問題が?」
「ここは矯正歯科専門じゃないけれど、大丈夫かい? 専門でやっている先生と比べると、やっぱり触れる数が少ないから経験的に見劣りする。そして、医療の現場というのは、他もそうかもしれないけれど、圧倒的に経験がモノを言う世界なんだ」
素直に伝えてみせるリサちゃんのパパ。
歯科医院の中には、外部の歯科矯正医と契約を結んで、来院日を僅か週に一日と限定しながら患者を取るようなところもある。料金を支払った後で、矯正専門医の存在を知る患者も少なからずいる。
そうした只中で、素直に語ってみせた近藤医師は良心的な人物だった。
「こんなこと言ってるけど、パパは矯正の認定医なのよ? 凄いんだからね? 全国でも三千人くらいしかいなくて、たしか矯正をやってるお医者さん全体の数パーセントくらいしか、認定医にはなれないんだからっ!」
「こらこら、リサ。おまえは奥に引っ込んでいなさい」
ここぞとばかりにパパをヨイショするリサちゃん。
腕など組んだりして、まるで自分のことのように誇らし気だ。
「それは素晴らしい。やはり是非とも近藤先生にお願いしたい」
「いいのかい?」
「先生がお受けしてくれればの話ではあるのだが……」
「それならまあ、一緒に頑張っていきましょう」
西野の突っ慳貪な物言いを受けても、丁寧な物腰を崩さないリサちゃんのパパ。そうした立ち振る舞いもまた、娘にとっては魅力の一つなのだろう。ただ、今回はそうした彼の長所こそが、彼女にとって悪い方向へと働いていた。
「よろしくお願いします」
粛々と頭を下げて応じる西野。
その傍らには、悔しそうに彼を見つめるリサちゃんの姿があった。
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