第六章 永訣の骸

 夜明けと共にヨークは目を覚ましました。身を起こし、床に落ちてしまっていたカーディガンを拾い上げます。

 暖炉のないこの部屋は、少しひやりとした空気に満ちていました。カーディガンを羽織りながら、ヨークは戸棚の上を見上げます。

 そこにはしゃれこうべがひとつ、置かれています。文字もなにも記されていない、うっすら黄ばんだしゃれこうべです。

「……嘘つきフール」

 そう呟くと、ヨークは立ち上がり部屋を出て行きました。


   *


「おはようヨーク。目玉焼きとスクランブルエッグ、どっちがいい?」

 一階に下りると、ロッドが朝食の用意をしていました。人が来るときには置かれる仕切りが取り払われていて、階段から炊事場が丸見えです。

「スクランブルエッグ」

 挨拶代わりに返すと、ロッドはにっと笑いました。

「了解」


 ほどなくして、ソファに座るヨークの前に、朝食が運ばれてきました。

 ケチャップのかけられたスクランブルエッグに、ライ麦パン。野菜たっぷりのトマトスープは、ほこほこと湯気を立てています。

 ヨークは眉をひそめました。

「ヨーク、好き嫌いは駄目だよ」

 ことりと紅茶の入ったカップを置いて、ロッドはソファに座りました。ヨークの視線はスープに入れられたピーマンに注がれていました。

「食べれるし」

 しかしヨークの朝食の時間は、なかなか終わりませんでした。


   *


 なんとかピーマンを平らげると、ヨークは乾いた柔らかい布数枚と箒を持って地下へと降りていきました。

 今日は北側を綺麗にすることにしました。ヨークは柔らかい布でひとつひとつ丁寧に、しゃれこうべを拭き上げていきます。

 一区画拭き終わると、今度は箒を手にしました。そうして石の床を静かに掃いていきます。


 三区画終わるころには、時計の針が昼を指していました。ヨークは懐中時計をポケットにしまい、一階へ上がっていきました。

「ヨーク、お疲れ様。ここ片づけるからちょっと待っててね」

 ロッドはばさばさとローテーブルを片づけていきます。

 ロッドには事務仕事を任せていました。亡くなった人の名前や月日、喪主などを記して纏めておくのです。

 ヨークはなにげなく炊事場に目を向けました。そこにはバスケットが置かれています。

「お待たせ。今日は外で食べよう。暖かいから」


 二人は外に出ると、ドアに鍵をかけました。念のため、ドアノブにベルを下げておきます。誰かが来ても、これを鳴らしてもらえば分かるでしょう。

 骸骨堂の裏手の木は、今の季節、鮮やかな薄紅色の花をつけていました。ロッドが地面に敷物を広げます。

 彼がバスケットから出したのは、色とりどりのサンドイッチでした。たまごにレタス、ハムにトマト、バタークリームなど、様々な具材が柔らかいパンに挟まれています。

 ロッドはポットから紅茶を注いでいました。

「お前は本当にいろんなものが作れるなぁ」

 感心したかのような口調ですが、ヨークの瞳はサンドイッチを前に輝いています。ロッドはくすりと笑いました。

「ヨークが生活力なさすぎなんだよ。僕が来る前はどうしてたの?」

 その言葉にヨークは押し黙ります。ぷいっと顔を背けました。

「ロッドがいるから問題ない」

 不貞腐れる師匠がおかしくて、ロッドは声を殺して笑いました。

 食事の間、ベルは鳴りませんでした。鳴らないことはいいことです。死者が出ていないということですから。

 二人は咲き綻ぶ花を見ながら、ゆったりとした時間を過ごしました。


   *


「染料を混ぜてみるかい」

 骸骨堂に戻ったヨークが言ったのは、そんな言葉でした。

 ロッドは我が耳を疑います。

「……どうしたのヨーク。熱でもある?」

「ない。やりたくないのかお前は」

「やりたいに決まってるよ!」

 ロッドが弟子になってから、長い月日が流れています。その間、骸骨堂の番人としての仕事はなにひとつやらせてもらえませんでした。

「これ片づけてくる! ちょっと待ってて!」

 ロッドはバスケットを片手に、炊事場へと駆けて行きました。

 ヨークはため息をひとつ吐いて、それを見送ります。

 ロッドがやって来た日のことを思い出しました。


 ロッドが骸骨堂に現れたのは、ある晴れた日の午後でした。眠くなるような日差しの下、大きなリュックを背負った彼は、ヨークを見て眩しそうに目を細めました。

「こんにちは、骸骨堂の番人さん。僕を弟子にしてください」

 あのときのロッドはまだ十二歳。働きに出るには早すぎる年齢でした。

 弟子を取る気はない、とすげなくするヨークに堪えた様子もなく、行くところがないと言われては無下に追い出すわけにもいきませんでした。

 出てけ、居座るなと言うヨークをのらりくらりとかわし、家事をそつなくこなすロッド。いつしか彼の料理に胃袋を掴まれ、あっという間に五年が過ぎました。

 ヨークにとって、五年など瞬きをするような時間です。スヌス族は、人の倍の寿命を持つのです。

 しかし少年は青年へと成長していました。

 骸骨堂の番人など、誰も進んでなりたがる仕事ではありません。番人は死者と話すことができなくなるのです。たとえ一度とはいえ、そのチャンスを失うような真似を誰もしたくはないでしょう。

 ですがロッドは五年の間、一度もやめたいとは言いませんでした。

 まだ年若い彼を、骸骨堂に縛りつけるのは忍びないと思っていたヨークですが、あの喜びようを見ればもうそんなことは言えませんでした。

 片づけを終えたロッドが、ヨークの元へと駆けてきます。

「お待たせヨーク! なにからすればいい?」

 その表情はまるで子どものようです。もっとも、ヨークからすれば大抵の人は子どもみたいなものでしたが。

 無言で見つめてくる師匠に、ロッドは首を傾げます。

「まったく。いつまで経っても子どもだな」

「なっ……! そんなことないだろ!?」

 憤慨する姿は、五年前からさして変わりありません。

 ヨークはくすくす笑いながら、頬を膨らませるロッドを見ていました。


   *


 初めてにしては、ロッドの腕前はなかなかのものでした。骨に記すための染料は、配合が難しいのです。

「筋がいいのう」

「でしょ? もっと早く技を伝授すれば良かったんじゃない?」

「調子に乗るな」

 ヨークがロッドを小突きます。立っていれば身長差でそれは叶わなかったでしょうが、今の二人は床に膝をついています。目線が一緒になった弟子を小突くなど、ヨークには容易いことでした。

 それほど強く小突いたわけではありません。ですがロッドは額を押さえながら、唇を尖らせました。

「そういえば、骨にはなんて記してるの?」

「『惑いし者よ 我らの縁は此処で切れよう 淋しいときは声を聞かせておくれ 進め! 其処は死の帝国なり』。お前いつも聞いてただろう? 体を失いこの世を漂う魂に、死の帝国への道筋を示す詩なんじゃ」

 それは古くから伝わる文言でした。

 この世と死の帝国を結ぶために、魂が迷子にならないようにするために、道しるべが必要です。これは迷いなく死の帝国に行くために、欠かせない言葉なのです。

「……なんだか、切ないね」

 ロッドがそう言った理由を、ヨークはよく分かります。番人には聞こえることのない声。それはいったいどんなものなのでしょう。

 暖炉の薪が爆ぜて、染料のにおいが部屋に広がりました。

「そうじゃな」

 ヨークの視線は自然と二階へ向きます。

 それをロッドは黙って見ていました。


   *


 二階にある、ヨークの自室。ここにヨーク以外が出入りすることはまずありません。

 骸骨堂の管理人は基本的にひとりなので、管理人室はひとつで充分だったのです。ですがいまはロッドもいます。

『僕にはソファで充分だよ。結構大きいし』

 なんて言葉にヨークは甘えていますが、気にしてはいました。

 あのソファには、フールも寝ていました。


 ――ヨークは子どもだから

 ――ヨークは女の子だから


 そう言ってフールは二階のベッドをヨークに宛てがい、ソファを譲ることはありませんでした。

 ふとヨークは戸棚の上を見上げました。

 そこにはしゃれこうべがひとつ鎮座しています。まだ文字の記されていない、まっさらなしゃれこうべでした。年月が経っているのか、うっすらと黄ばんでいます。

 ヨークはそのしゃれこうべからふいっと視線を外し、小さなため息を吐きました。

「ひとりで染料を調合できるようになったら、ベッドを買ってやろうかね」

 さて、どこに置くのやら。


   *


 ふっとヨークは目を覚ましました。窓の外の闇はまだ深く、夜明けまではまだ遠そうです。

 もう一度眠ろうとしたヨークですが、なにかが部屋でうごめいたような気がしました。ベッドに横たわったまま、暗闇に目を凝らしました。

 ドアの前に誰かがいます。

「なにしてるの」

 ドアの前にいたのは、ロッドでした。

 ヨークは起き上がり、枕元に置いていたランタンに火を点けます。

 その瞬間、ヨークの肌が粟立ちました。

 ロッドの手には、しゃれこうべが握られていました。ヨークの部屋の戸棚に飾られている、あのしゃれこうべです。

 それを見てヨークの顔色は変わりました。彼の右手には、絵筆が握られていたからです。

「ロッド……。おまえ、今なにしてるか分かってるの……?」

「もちろん。配合を教えてくれたのはヨークでしょ?」

 ヨークの表情は、どこか青褪めています。それでもロッドの表情は変わりません。薄ら笑いを浮かべて、己の師匠を見下ろしています。

「ヨークが骸骨堂を離れられないのは番人だからじゃない。前の番人から離れられないんだ」

 ヨークがはっと息を呑みました。目を見開いて弟子を見つめます。

「おまえ……知ってたの……?」

「買い物は僕が行ってたんだよ? ヨークが百歳越えてようが関係ない。町の人たちは語り継いで骸骨堂を伝えていってる。……ヨーク、僕は知ってるよ。君がここに来たいきさつも、僕に番人を譲る気がないことも。だけど僕はヨークが好きなんだ。君ががんじがらめになってるなら、解き放ってあげたい。そのためにはこの骨は邪魔だろう?」

 まるで知らない人を見ているかのようでした。すらすらと淀みなく話すロッドは、五年間見てきたどの中にもいませんでした。

 ロッドはしゃれこうべに筆を伸ばします。

「やめて!」

 それは悲鳴のような叫びでした。彼女を一度でも見たことのある人ならば、その姿に驚いたでしょう。ヨークがこれほどまでに感情を顕わにすることは、滅多にありませんでした。

 ロッドは筆を下ろします。

「言えるじゃないか」

 その口調は、いつものロッドです。元に戻ったロッドに、ヨークは困惑を浮かべます。たった一言叫んだだけなのに、彼女の肩は上下していました。

 ロッドが近づいてきて、その手にしゃれこうべを握らせます。

「この骨にはヨークが記さないと駄目だ。大事な人なんだろう? ……それが今すぐでなくてもいい。いつか彼を死の帝国へ送る。そう頭のどこかで考えててくれたら、僕はそれだけで充分なんだ。きっと僕が先に死んじゃうから。ヨークが淋しくないように」

 ロッドの左手が優しくプラチナブロンドの髪を撫でます。

「……フールは、言ったんだ」

 ヨークはぽつりと呟きます。

 ロッドは師匠を撫で続けていました。

「ずっと傍にいるって……。あたしを見守ってるって……。でもこの百年、ずっと淋しかった……。誰かが尋ねてきても、ここにずっと留まるわけじゃない。みんなが見ているのは、死者だけだ」

 ヨークの言葉は、いつもの気取っているようなものではありませんでした。百歳を超えていても、ヨークの心はまだ子どものままなのです。

「それに文句があるわけじゃないんだ。……でも淋しい。あたしはいつだってひとりになってしまう」

 祭壇に捨て置かれた最初の記憶。それは消えぬものでした。

 フールと出会い、共に過ごしてヨークの心は満たされていたのです。

「僕もきっと、ヨークを置いて逝ってしまう」

 ヨークはロッドを見上げました。至近距離で見つめる弟子の姿は、思っていたよりも大人びて見えました。彼ももう、十七歳の青年なのです。

「でも逆だってありうるんだ。ヨークが先に死んじゃうことだって、あるかもしれない。僕も覚悟しとかなくちゃいけないんだ……。でも、そうじゃなくて」

 ロッドはそこで言葉を切って、目を伏せます。

 さっきからロッドが見せる表情は、初めてのものばかりです。ヨークはなんだか不思議な気持ちになります。

「命尽きても、僕らは愛しい人の声を聞くことはできない。でも記憶はずっと僕の中にある。骸骨堂に来た日のこと。ヨークのごはんがまずかったこと。初めて儀式を見たときのこと。小説の結末を熱く語りすぎて、いつの間にか床で寝ちゃってたこと。……全部全部、覚えてる。ヨークは覚えててくれない?」

 そんなこと、返事は決まっています。

 ヨークはがばっとロッドに抱きつきました。

「……ヨーク?」

「ありがとう。お前は最高の弟子だよ」

 ロッドからはヨークの顔が見えません。ですが想像はつきます。

 ふっと笑って、ロッドは師匠の背に手を回しました。

「お礼を言うのは僕のほうだよ」

 窓の外では、フクロウが鳴いています。静かな夜だけれど、暖かな空気が二人を包み込んでいました。


   *


「もうひとつ、ヨークに言ってなかったことがあるんだ」

 二人は骸骨堂の屋上へと上がっていました。ヨークの部屋の外階段からしか行けないので、普段は使われることのない場所です。

 座って見上げると、満天の星が輝いていました。この季節、赤や橙の流れ星を見ることができます。今もひとつ、赤い流れ星が東の空へと消えていきました。

「……実は生き別れの兄弟でした、とか言うなよ」

「ははっ、惜しい」

 ヨークは眉根を寄せます。

 ロッドの髪は、濃い茶色。とても兄弟とは思えません。

「僕の本当の名前は、ロッドユールというんだ」

 会話が途切れ、森のほうから虫の鳴く声だけが聞こえてきます。

 ロッドはちらりと隣に視線を向けました。その先では、ヨークが瞳を潤ませています。

 ロッドはほっとしたように息を吐きました。

「覚えててくれて良かったよ。僕の生みの親はね、旅人だったんだ。夫婦で世界中を旅して回ってる人たちで、この森へ来たのもその途中だったらしい」

 そう言ってロッドは森に目を向けました。

 そこには黒々とした木々が広がっています。虫やフクロウの鳴く声に、今は我らの時間だぞ、人間が立ち入るんじゃないぞと言っているかのようです。

 この森の先にあるのは、スヌス族の村です。

「足を滑らせて、谷底に落ちたらしい。まだ赤子だった僕を残して。僕を拾ってくれたのは、スヌス族の母さんだった。母さんが僕に名前をつけてくれたんだ。亡くなった旦那さんの名前――ロッドユールと」

 ヨークは俯いて顔を覆っていました。肩が小さく震えています。

 ロッドはそっとその肩に手を回しました。

「母さんには娘がいた。だけど意にそぐわない方法で喪ってしまって、それからはずっとひとりで暮らしてたんだ。そんなときに僕を見つけて、天からの授かりものだと思ったんだって。小さいときからその話は聞かされていて、僕もずっと、生みの親のように旅に出てみたいと思ってたんだ」

 ヨークはゆるゆると顔を上げます。泣き腫らした目は真っ赤で、ロッドはくすりと笑って彼女の涙を親指で拭いました。

「一目見てすぐに分かったよ。ヨーク、君は母さんにそっくりだ」

 ヨークの顔が歪みます。止まると思われた涙は、後から後から湧き出してきます。

 母と別れたのは、もう遥か昔のことです。もう二度と、会うことも、話を聞くこともないかと思っていました。

「いつか、あの森に行こう」

 骸骨堂は死者だけの場所ではないのです。死者と生者。ふたつが交わるために、この場所はあります。

「ドアの鍵を閉めて」

「ベルを掛けて?」

「あぁ。ヨークなら、どんなに離れててもきっと音が聞こえる」

 この場所で自分は何度生まれ変われるのだろう、ヨークはそう考えていました。

 死者を悼む骸骨堂。

 それはヨークにとっては、始まりを告げる場所でした。


   *


 空が白み始めました。ふたりは肩を寄せ合って、朝日が昇るのを見ていました。

 ふいにロッドが口を開きます。

「前から思ってたけどさ、ヨーク、その喋り方やめたほうがいいと思うよ。似合わない」

「なっ……! でも、あたしはこんな容姿だから……。子どもっぽい喋り方では舐められてしまうじゃろう?」

 三百年の寿命を持つスヌス族。その中でも、ヨークの成長は遅いほうでした。

「そんなことない。町の人はみんな、ちゃんとヨークを尊敬してるんだから」

 そうでなければ、大事な人の骨をヨークに任せようとは思わないはずです。

 ヨークはおずおずとロッドの顔を見上げました。

「もう慣れちゃったし、いきなりは難しいけど……。少しずつ、ね?」

「もちろん」

 そう言って笑うロッドに、ヨークの顔も綻びました。

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