第五章 ヨークの骸

 町の外れ、森の始まり。小さな塔が建っていました。

 外から見れば、二階建ての石造りの塔です。くすんだ壁面が、この塔が建ってから随分経っていることを教えてくれます。

 一見、小さな塔です。しかしその地下には、広大な空間が広がっています。おびただしい数のしゃれこうべと共に。


 ここは骸骨堂。

 その日、骸骨堂の新しい番人が知ったのは、最愛の女性ヨークの死でした。


   *


 骸骨堂の新しい番人は、まだ歳若い青年でした。栗色の髪は癖毛なのかふわりとしており、利発そうな瞳をしています。

「……っと」

 森の中を歩いていた彼は、木の幹に足を取られてあわや転ぶところでした。手にしていた木箱が無事かを確かめます。どうやら無事だったようです。彼はほっと息を吐くと、取っ手を持ち直しました。

 すでに日は傾き、夜の気配が近づいていました。思いの外、村での交渉に時間がかかってしまったことに彼はやるせない思いを抱きます。早く骸骨堂に帰りたくて村を出てきたけれど、今夜はこの森の中で野宿することになりそうです。

 樫の木の下に彼は腰を下ろしました。この森に凶暴な獣はいませんが、まだ少し冷える季節です。樫の木の下ならば、少々暖が取れます。

 朝からいろいろありすぎて、食欲がありません。彼はごろんと横になりました。

 ひとりになると、ヨークを見送ったときのことが思い出されます。


   *


 森の中に住むスヌス族に流行り病が広がっていると聞いたとき、ヨークはさっと顔色を変えました。必要な処置を施さなければ、死に至る病です。今も死者が増え続けているだろうとヨークは懸念を示します。

 彼女はスヌス族の村へ行くと言い張りました。死者がいるから。増え続けているから。

 彼は止めました。スヌス族はよそ者には厳しいのです。愛する者を危険に晒したくはありませんでした。

 ですが彼女は彼の制止を振り切って行ってしまいました。彼にはどうすることもできませんでした。骸骨堂の番人は、骸骨堂を離れてはいけないのです。

 それから十日。森から戻ってきた看護婦が告げたのは、ヨークの死でした。


 彼女の死の知らせを聞いて、彼は悔やみました。

 どうしてもっと強く彼女を止めなかったのだろう、どうしてひとりで行かせてしまったのだろう、どうして掟を破ってでも追いかけなかったのだろう。

 そんな思いが彼の胸を占めます。

 だから、掟を破ってヨークを迎えに行くことにしました。町長に一晩だけと約束して、彼は森に入ったのです。


 亡骸を迎えに来た番人に、スヌス族の長はそっけない態度でした。

 元々よそ者を嫌う種族です。それに加えて、流行り病を抱えて慌しい時期です。

 彼の相手もそこそこに、すでに火葬の済まされたヨークを引き渡すと、さっさと去っていきました。両手に納まる木箱の大きさとなったヨークに、彼は立ち尽くします。

 彼の頬を、ひとすじの涙が流れていきました。


   *


 そのとき気づいたのは、偶然でした。

 ふと視線を向けた先に、なにやら台座が組んであるのが見えます。彼は身を起こしました。台座へ近づいてみることにします。

 どうやらそれは祭壇のようでした。白い布がかけられた四角い石の台座には、四隅に木の棒が立てられ、それぞれが縄で結わえられています。縄にはなにやら文字が書かれた紙が数枚下げられていました。

 彼は目を見開きました。祭壇の上には、幼い女の子が横たわっていたのです。

「君っ、大丈夫か!?」

 彼は慌てて祭壇によじ登り、女の子を抱えました。女の子は痩せ細り、その軽さに驚くほどでした。

 ですがゆっくりとではあるけれど、呼吸はしていました。

 女の子がうっすらと目を開けます。

「大丈夫かい?」

「……ここは、神さまの国……?」

 朦朧とした目で女の子は問いかけます。

「いいや違うよ。ここはこの世だ」

 安心させるように彼が言いました。

 しかし女の子は、泣きそうな顔で彼を見上げます。プラチナブロンドの髪が、さらりと揺れました。

「そうか、君はスヌス族か」

 森の中で暮らすスヌス族。彼らの特徴は二つあり、その一つがプラチナブロンドの髪でした。女の子の輝くような髪の毛は、夜が迫る森の中でも目立ちます。

「流行り病の生贄にされた。そうだろう?」

 女の子は小さく頷きました。

 彼らの信じる神は、町のものと一線を画しています。

 日照り、病、その他のさまざまな災害は、神の怒りによるもの。だから、生贄を捧げ許しを請うのです。女の子は流行り病を鎮めるため、生贄にされたのでしょう。

 目覚めた女の子は、神の元へ行くことが叶わなかったことに悲しみを感じているのです。己の使命を果たせていないこと、それは今も村が病で苦しんでいることを示しています。

 彼はきつく唇を噛みました。生贄を捧げても病が鎮まるなどありえません。適切な処置を施さなければ、村で流行った病は治らないのです。

 スヌス族はそれを受け入れませんでした。それがヨークの命を奪い、女の子の命をも奪おうとしていたことに、怒りを感じます。

 

 彼は女の子を抱えました。女の子は抵抗する素振りを見せません。もうそんな体力は残っていないのでしょう。

 彼は荷物を置きっぱなしにしていた樫の木まで辿り着くと、女の子を静かに横たえました。樫の木の暖かさに、女の子の強張っていた体から力が抜けます。

 彼は荷物を漁り、水筒を取り出しました。中の紅茶はもう冷めてしまっているだろうけど、ないよりましでしょう。女の子の頭をそっと持ち上げ、水筒を口元に宛てがいました。女の子はゆっくりと口に含んでいきます。

「君の名前はなんと言うんだい?」

「ヨクサル」

 彼の動きが止まりました。ヨクサルと名乗った女の子をじっと見つめます。

 やがて悲しそうに目を伏せました。

「……彼女と一緒だ」

 そう言って傍に置いた木箱を撫でました。

 小さな木箱に納まる大きさになってしまったヨーク――ヨクサル。彼が互いに愛称で呼ぶ仲だったのは、彼女だけでした。

「彼女はね、医者だった。流行り病に冒されたスヌス族の村を救おうと思ったんだよ。……でも、その薬には血清が使われている。スヌス族の神は、他人の血を体に入れることを許していないから。だから彼女は」

 殺された。

 薬さえあれば、流行り病は治るものでした。だけど彼には村人に拒まれるだろうことは分かっていました。スヌス族は信仰深いのです。たとえ病気が治ろうとも、彼らの神を裏切る真似は決してしません。

 それでもヨークは譲りませんでした。万が一の可能性に賭けて、町を出発しました。

 スヌス族のために懸命に尽くし、最期は自身も病に侵され亡くなりました。

「恨んでる?」

 ヨクサルはまっすぐな瞳で彼を見上げていました。彼は一瞬、驚いた顔をしました。先ほどまでの怒りが収まっていたのです。

「恨んでなんかいないよ。ヨークは彼女の信じる道を貫いたんだ」

 ヨクサルは不思議そうに彼を見つめていました。

 きっとヨークは、後悔などしていなかったのでしょう。彼女にとって最も悔やむべきは、救える命を救いに行かないこと。

 だからそのために自らの命を落とそうとも、救いに行ったことは誇るべきものなのでしょう。

「僕はフレドリクソン。みんなはフールと呼ぶよ。骸骨堂のフール」

「骸骨堂?」

「そう。死者が眠り、そして淋しくなったら会える場所だよ」

 諭すように話すフールに、ヨクサルはまだ要領を得ていないようです。

 幼いヨクサルには、まだ死というものが分からないのでしょう。それなのに命が奪われようとしていたことを、フールは哀れに思います。

「ねぇヨクサル。行くところがないのなら、骸骨堂に来ないかい? 面白いものはないけれど、温かいごはんと寝床くらいは用意してあげられるよ」

 フールの問いかけに、ヨクサルは目を瞬かせました。

「でも、あたしはここで死ななきゃいけなかったから……」

「なら、なおさら骸骨堂はうってつけだ。あそこは死んだ人にもう一度会える場所だから」

 ヨクサルはここで一度死んだ。死んだものとして、骸骨堂で新しく始めればいいとフールは言います。

 やっぱりヨクサルはよく分かっていないようです。その目がとろんとしてきました。

「少しお眠り。じきに夜は明けるから」

 その言葉に、ヨクサルは安心したかのように眠りに落ちていきました。


   *


 朝日が差してきました。ヨクサルの顔色は、幾分か良くなったようです。その瞳がゆっくり開きます。

「そろそろ行こうか、ヨクサル」

 フールは立ち上がります。ヨクサルに手を差し出しますが、ヨクサルは座り込んだままでした。

「あたし、ヨクサルはもう死んだ」

「じゃあ『ヨーク』はどうだい? 彼女もそう呼ばれていた」

 思いもよらなかった言葉に、フールは少し考えて、そう言いました。ヨクサルは瞬きを繰り返します。

 ヨクサルは全てを失いました。一族のためだと命を捨てさせられ、親に助けを請うこともできず、名誉なことだと神に捧げられました。『ヨクサル』の持ちものは、もうなにもありませんでした。

 死んだと思った自分に名前を与えてくれた人がいる。ヨクサル――いえ、ヨークにはそれだけで充分でした。

「フール」

「なんだい? ヨーク」

 名前を呼ばれ、ヨークはなんだかくすぐったい気持ちになりました。自分の名前を呼ばれただけで、こんなに幸せな気持ちになったのは初めてです。

 手を差し出したままだったフールは、もう一度言いました。

「行くところがないのなら、骸骨堂へおいで。ずっと一緒にいてあげる」

 ヨークはその手をじっと見つめます。おずおずとフールの手を取りました。

 その手の暖かさを、ヨークは一生忘れることはないのでしょう。


 それは彼女の二度目の始まりの日でした。

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