第四章 マーガレットの骸

 町の外れ、森の始まり。小さな塔が建っていました。

 外から見れば、二階建ての石造りの塔です。くすんだ壁面が、この塔が建ってから随分経っていることを教えてくれます。

 一見、小さな塔です。しかしその地下には、広大な空間が広がっています。おびただしい数のしゃれこうべと共に。


 ここは骸骨堂。

 死者が眠る塔を管理しているのは、ひとりの少女でした。


   *


 ひとりの男が、しゃれこうべの前で祈りを捧げていました。

 骸骨堂の地下は、番人がいるときは誰でも自由に出入りしていいことになっています。今ごろヨークは、一階でロッドの煎れた紅茶を飲んでいることでしょう。ここの番人は、模様を記すこと以外は弟子に任せてしまうことも多いのです。

 男の他には誰もいません。

 がたいのいい男でした。働き盛りなのでしょう。服の上からでも、鍛え上げられた体格が分かります。

 男はしゃれこうべの前で跪き、固く目を閉じて祈りを捧げていました。風も通らない地下は、静かな空気で満たされています。

 男はようやく顔を上げました。しゃれこうべに手向けた花を一瞥すると、階段へと向かいます。

「どうもありがとうございました」

 一階に戻った男は、番人ヨークに頭を下げました。骸骨堂の番人は、ソファに深く腰かけ本を手にしています。

「またいつでも来ると良い」

 番人の返事に、男は寂しげな笑みを見せました。


 ひと月ほど経ったある日。またあの男が尋ねてきました。今日は薄汚れた炭鉱夫の格好をしています。手には数本のマーガレットが握られていました。

 男の目当てとする人物の月命日は、昨日だったはずです。炭鉱夫の格好をした男です。きっと仕事を休むことができなかったのでしょう。

 男はまた一人地下に潜ると、前回のように祈りを捧げ帰っていきました。

 またひと月経って、男が現れました。手にはマーガレットの花があります。例のごとく、月命日の次の日でした。

「お仕事、忙しいんですか?」

 雨が降ったその日、念のためとロッドが付き添いました。雨漏りなどはしたことがありませんが、空気が湿っています。これからもないとは言い切れません。ヨークはロッドに付いて行くよう言いつけました。

「土砂崩れはひどかったけど、もう落ち着いたもんですよ。普段どおりです」

 男は町向こうの鉱山で働いているそうです。あの山では石炭が取れ、町の重要な財源となっているのです。

 男がしているのは、ふた月ほど前の落盤事故の話でした。町向こうの鉱山で起きたその事故は、多くの負傷者とひとりの死者を出しました。

「じゃあなぜ」

 ロッドの言わんとすることが分かったのでしょう。男は曖昧に笑います。

 目当てのしゃれこうべへと辿り着きました。男はそっとマーガレットを供えます。

「昨日、やつの奥さんと子どもが来たでしょう?」

 長い時間、目を閉じ祈っていた男は、顔をしゃれこうべに向けたまま話し出しました。

 昨日のことはロッドも覚えています。まだ若い奥さんと小さな子どもでした。父親の死を理解していない子どもと、それを目にして必死で涙を堪えている奥さんの姿が頭に浮かびます。その姿に、ロッドも胸を痛めました。

「俺はね、ずるいやつなんですよ。あいつが死んだ、ふた月前の炭鉱事故……。殺したのはこの俺なんだ」

 男が語り始めたのは、目の前の骨の人物が亡くなる原因となった事故のことでした。

「あの日、あの炭鉱に潜ってたのは俺とあいつだけだった。前の日に雨が降ってたから気をつけなきゃな、なんて笑い合ってたんだ。ちゃんと気をつけとけば良かった……」


   *


 その日、道は明け方まで降り続いた雨でぬかるんでいました。しかし炭鉱の入り口はしっかりとした木の柱で支えられていて、外から見た限りでは入っても問題なさそうでした。

「じゃあ俺と炭鉱長で確認してくるから。時間に戻らなかったら救助隊に連絡してくれ」

 冗談交じりにそんな会話を交わします。

 こんな日に仕事をするのは、いつものことでした。安全確認を怠るつもりはないですが、慣れたものだったのです。

 男と炭鉱長は、薄暗い坑道を進みます。トロッコはがたがたと揺れていました。ランタンの灯りが、彼らの影を坑道の壁に長く伸びています。

「しかしなぁ。お前が父親になるなんてな」

 最深部まで行くには、まだしばらく掛かります。手持ち無沙汰に男は話し始めました。

 男と炭鉱長は、長い付き合いです。同い年で、同じ町で育った二人。兄弟も同然な二人でした。

「そう言うなよ。俺だって自分が父親になるなんて、想像も付かなかったさ」

 炭鉱長はそう言って、目を伏せました。それきり無言のときが続きます。

 いつのころからか、男は炭鉱長には言えない気持ちを胸に抱えていました。気のせいだと押し殺そうとしましたが、それは炭鉱長が結婚したことで決定打になってしまいました。

「……なんで結婚なんかしたんだよ」

 言ってしまったのは、こんな天気だったからかもしれません。空気は湿って、重く澱んでいます。

 口にした瞬間、空気が変わってしまいました。

 なにかを言いたそうにしているのは、二人とも同じでした。

 言ってしまったら、すべてが崩れ落ちてしまう。そう知っていたから、二人とも口にできずにいたのです。

「……今言うことかぁ? それ」

 苦笑とともに、炭鉱長はわざと軽い口調で言いました。

 ですが言ってしまった言葉は返ってはきません。ちらりと目をやると、男は固い表情のままでした。

「……今だから、言うのか」

「今だけだよ、炭鉱長。ここを出たら、なかったことになる話だ」

 男の覚悟は決まっています。炭鉱長は口を固く引き結んでいましたが、やがて観念したかのように大きなため息を吐きました。

「かみさんを好きなのは嘘じゃないよ。でも、お前を好きだったのも事実だ」

「……『だった』、ね」

「あぁ」

 炭鉱長にとって、それは終わった話なのです。

 こんな短いやり取りだけで終わらせていいものなのか、男に迷いが生じます。これだけで終わってしまうのならば、いっそ口にしないほうがましだったかもしれません。

 そのときでした。遠くのほうから地響きが聞こえてきました。

「なんだ?」

「これは……」

 音は迫ってきます。

「落盤だ!」

 二人の声が重なりました。それと同時に坑道の天井が崩れ落ちてきました。


 どのくらいのときが過ぎたでしょうか。

 気づくと男は暗闇の中にいました。辺りを探ると、ランタンに手が触れます。なんとか身を起こし、ポケットの中に入れていたマッチを使ってランタンに火を点けます。

「おい……。おい! しっかりしろ!」

 傍には炭鉱長が倒れていました。奇跡的に、二人が倒れるほどの空間は残されていたようです。

 炭鉱長は小さく呻きました。意識はあるようです。男はほっと息を吐きました。

 どこからか脱出できないものか。男はランタンで辺りを照らしました。

 崩れた土砂の合い間に、人ひとりが通れそうなほどの穴が開いていました。線路の形状からしてこちらが出口のようです。

「良かった。こっから出られそうだぞ」

 男は穴へと向かおうとしますが、後ろに立ち上がる気配はありません。男が振り返ると、炭鉱長は倒れたままでした。

「おい、どうした?」

「……足を挟まれたようでな。動けんのだ」

 男はさっと顔色を変えました。急いで炭鉱長の元にしゃがみ込み、ランタンをかざします。炭鉱長の右足は、大きく腫れ上がっていました。

「俺に掴まって立てないか」

「立てたとしても、あの穴を潜るのは無理だ」

 小さな穴です。この足では潜り抜けるのは不可能でしょう。

「俺のことは捨て置け」

「できるわけねぇだろう!」

 男の叫び声に、炭鉱長は力なく笑います。

「お前ならそう言うと思ったよ。だから、応援を呼んできてくれ。それまで痛いのくらいは我慢してるからさ」

 男は唇を噛みました。

 怪我をしている炭鉱長を置いていってもいいものか。戻ってくるまで、炭鉱長は無事だという保障はどこにもありません。

「俺が見込んだ男は、そんな臆病なやつだったか?」

 不適に笑って見上げてくる炭鉱長。男は言葉に詰まりました。

 炭鉱長の額には脂汗が浮かんでいます。きっと痛みは相当なものなのでしょう。

 それでも男を信じている。その瞳にはそう書かれていました。

 男は炭鉱長に背を向けます。

「……死ぬなよ」

 せめても、と男はランタンを置きます。

 この先の道には、明かりが灯っていないかもしれません。それでも、炭鉱長の心の拠り所となればいいと思ったのです。

 いつ崩れるともしれない、暗い炭鉱で待つ彼の支えになれば、と。

 穴を潜り抜けた男の行く先には、ぽつりぽつりと明かりが灯っていました。大分奥まで来ています。入り口までは遠いけれど急がねば、と男は壁に手をついて歩き出しました。

 そのときです。後ろから大きな音が聞こえました。

 まさか、まさかという思いで男は来た道を引き返します。

 途中で道は塞がっていました。男が潜った穴も、もうありません。

「炭鉱長! 聞こえるか!? 聞こえてたら返事をしてくれ!」

 男は土砂を掘り出しました。爪が剥がれ、血が噴き出します。それでも手を止めることはできませんでした。

 ふと名前を呼ばれた気がしました。

「炭鉱長? 無事か!? そっちはどうなってる!?」

 返事はありません。低い呻き声が聞こえるばかりです。男は手を動かし続けました。

 炭鉱長がなにか言った気がしました。

 男は手を止め、土砂に耳を当てます。

「――――」

 その言葉を聞いて、男は身動きできませんでした。涙がひと筋零れ落ち、あとからあとから溢れてきます。

「なんで……今そんなこと言うんだよ……。遅ぇよ……」

 土砂の向こうでは、もうなんの音もしなくなっていました。

 やがて助けが来るまで、男は膝をつき、唇を噛み締めていました。


   *


「あいつを無理にでも担いでいけば、あいつは助かったかもしれない。……俺が殺したも同然だよ。あいつには嫁さんも子どももいたのに」

 男は炭鉱長のしゃれこうべの前にしゃがみ込んだまま、唇を噛みました。

 このしゃれこうべは、レプリカです。

 炭鉱長の遺体は回収することができませんでした。土砂の壁は厚く、取り除くことができなかったのです。

 現在の坑道は、別の道が使われています。

「もう、なにも伝えることができない……」

 レプリカでは死者の声を聞くことはできません。

 だから男は、マーガレットの花を供えるだけです。

「罰が当たったんだな……。あいつの気持ちがほしいと思ってしまったから」

 そう呟いて、男は立ち上がりました。

「こんな話、聞かせてしまってすまないな。ここは墓場だ。この秘密をここに収めておいてもらえると嬉しいよ」

 そう言った男に、ロッドはなにも返事をすることができませんでした。


   *


 地下にはロッドだけが取り残されていました。

 そこに足音が響きます。ヨークでした。

 ヨークはランタンを手にし、弟子の元へと歩みを寄せます。

「いつまでそうしてるつもりだ」

「あの人……」

 続く言葉はありません。

 ヨークはしゃれこうべへと近づき、膝を折りました。供えられていたマーガレットを一輪、手に取ります。

「あの人は、いつもマーガレットを持ってくるね」

「マーガレットの花言葉を知ってるかい」

 ヨークは目を伏せました。ロッドは首を横に振ります。返事がないことで答えを察したのでしょう。ヨークが口を開きました。

「マーガレットの花言葉は『秘めた想い』。どちらが死んでもきっと」

 そこで言葉を切ります。


 この先は、彼らだけの秘密。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る