第9話 新しい傘を買わなくちゃ
それは20年前の春の日の事だった。
買い物帰りに、異動前の部署の7歳年上の女性社員に遭遇した。天気が不安定な春の午後、パラパラと降り出した雨が急に土砂降りになった。
その女性は鞄の中から赤い折りたたみ傘を取り出して「私、そこのバス停だから。じゃあまた会社でね。」と微笑んで去っていった。
彼女が雨の中、赤い傘をさして横断歩道を渡る姿は印象的だった。突然の雨に鞄を頭に走る人もいる中で、悠々と歩く後ろ姿は美しかった。
コンビニエンスストアでビニール傘を買おうと思って店内に入ったものの、私は何も買わずに店を出て、2軒隣の雑貨店に入った。傘を見ているうちに雨が止むかもしれないという期待もあった。
ビニール傘は500円。雑貨店の傘は1980円。私の財布の中には3000円。
実は、家に帰っても傘立てには骨の曲がったビニール傘しかなかった。そのころの私は、傘は雨が凌げればそれでいいと思っていた。ビニール傘の方が視界が広くて都合がいいとさえ思っていた。
それまでの私は、ビニール傘を買っては失くし、買っては壊し、買っては失くしの繰り返しだった。出先での取り違えも多い。飲み会に新しいビニール傘を持って行って、次の日の朝、古いビニール傘を持って帰ったことに気が付いてがっかりしたことが何度もあった。新しい傘を持ち帰ったことはない。なぜだろう、これは本当に不思議。
雑貨店には、色とりどりの傘が置いてあった。私は迷って迷って、1本の傘を選んだ。明るいネイビーで大きな白い花模様、華奢な持ち手の部分は白い合皮の1980円の傘だった。
「すぐ使います。」
と言って店員さんにタグを外してもらって店を出た。傘を差すと、ぱっと気分が明るくなった。雨の中、20分ほどの道のりを歩いて帰った。傘の内で聞こえる雨音もビニール傘とは違って聞こえた。私はその傘を丁寧に扱い、使った後は陰干しして汚れるたびに手入して大切に使った。以来、私はビニール傘を買わなくなった。
あれから20年の月日が経ち、すっかり忘れていたあの傘の思い出が急に蘇ったのは、新しい傘を迷いに迷って淡いピンクとグレーのバイカラーの傘に決めて、「すぐ使います。」とタグを切って貰った時だった。
実は、私は期間限定で単身での引っ越しをすることになった。
予報よりも早くに天気が回復して、朝から晴天だったのでついうっかり、お気に入りの傘を玄関に忘れてしまったのだ。折りたたみ傘を移動時に使うことにすればよかったと後悔しきり。
というわけで、新しい傘を買い求めに大型ショッピングモールへと出かけたというわけである。雨が降るまで傘を買う気になれなかったのは、この記憶を思い出すためだったのかもしれない。
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