第9話「TRY ME TO THE MOON」
ヴィル・アセンダントの悩みは二倍になった。
妹のリーラに加えて、メイドのティアからも好意を寄せられているらしい。
それで幸せは二乗というところだが、少しばかり事情がややこしい。
リーラは血を分けた実の妹で、ティアは第三世代型のロボットなのだから。
だが、日々の暮らしは平和そのものだった。
「お兄ちゃんっ、お客さんみたい! 手が離せないの、ちょっと出てっ!」
キッチンでリーラの声が弾む。
彼女は最近、ティアの元で花嫁修業中だと豪語している。学校にもちゃんと行っているが、ここ最近は家事育児の腕を磨くのに夢中である。
そう、育児まで真剣に学んでいるので、ヴィルとしてはたじたじだ。
同時に、ティアが真面目に丁寧に教えるのでお手上げである。
再度ドアのチャイムが鳴ったので、ヴィルは玄関へと向かった。
「はい、どちら様で――!? ……に、兄さん」
ドアを開けると、夕焼けの中に見知った人物が立っていた。ぼうぼうの
彼の名はタルス、ヴィルの腹違いの兄だ。
「……よぉ、ヴィル。ちょっと、いいか?」
「ええと、お久しぶりです。そ、外で話しましょうか、って!? 困るよ兄さん、リーラが怖がる。待って!」
「邪魔するぜ。リーラはまだ生きてんのか? オヤジの葬式にゃあ来なかったな」
ヴィルを押しのけ、タルスは勝手に家に上がり込んでしまった。
履き捨てた靴を揃えながら、やれやれとヴィルは溜息を零す。
兄は二人いて、次兄のタルスは昔から乱暴者だった。長兄のヒドルは
今は確か、小説家として暮らしているらしい。
そして、その暮らしぶりが豊かではないことも聞いている。
それももう、ヴィルには関係ないことの
リビングへとタルスを追えば、自然と小さな悲鳴があがった。
「よぉ、リーラ……でかくなったなあ。どうだ? 心臓の病気、治ったか?」
「おっ、お兄ちゃん! あ、ああ……なんで? どうして! ねえ、お兄ちゃん!」
「へへっ、俺をお兄ちゃんって呼んでくれんのかい?」
「違うっ! あたしの愛するお兄ちゃんは、ヴィル・アセンダントだけ! 助けて、お兄ちゃん……この人、あたし、あたしっ!」
リビングでは怯えたリーラを、ティアが背に
その姿をぼんやりと見ながら、タルスは我が物顔でソファに座る。
ヴィルはリーラが心配だったし、興奮させると心臓に悪い。それはティアもわかっているようで、二人は目と目で頷き合った。不思議なことにヴィルは、ティアとの意思疎通は以心伝心、呼吸もピッタリだ。
一緒にリーラを守って暮らしているからだと、その時は思っていた。
タルスは大きく息を吐き出すと、じろりとヴィルを振り返った。
「まあ、座れよ。話がある」
「僕にはなにも……兄さんと話すことなんか」
「茶でも出してくれよ、メイドロボ。はは、まるでリーラのコピーだな……ん? ああ……お前、オヤジの屋敷にいたポンコツじゃねえか。ケーブル付きの古い奴だ。とりあえず、茶だ。酒でもいいぞ」
横暴が服を着て歩いているようなこの男を、リーラは酷く嫌っている。幼い頃、父の屋敷で暮らしている時にいじめられていたのだ。
止めようとしたヴィルも殴られたし、最後はいつもティアが守ってくれた。
今日は、今日こそはヴィルが守らなければいけない。
この家の主はヴィルで、
「ティア、悪いけどお茶を出してくれるかな。リーラは部屋で休んでて。……で、兄さん。今日はどういった要件なんですか? 手短にお願いします」
ヴィルはタルスの向かいに座って、平常心を己に言い聞かせる。押し殺した声がフラットに響いて、タルスもピクリと片眉を跳ね上げた。
とにかく、話を聞いて要件を済ませ、出ていってもらいたい。
リーラとティアが愛の巣だと言い張るこの家は、ヴィルにとっても家族三人で暮らす大事な場所だから。自分の稼ぎで妹を守ってやれる、唯一にして無二の場所なのだから。
タルスはテーブルに身を乗り出すと、鋭い目付きでヴィルを
「お前が受け継いだ財産は、本当のあのポンコツだけか?」
「……ティアをそういう風に言うのはやめてください。ええ、そうです。僕はティア以外、なにも……強いて言えば、母が生きてた頃に庭に埋めたタイムカプセルくらいです」
「タイムカプセルだぁ? それはいつの話だ!」
「昔ですよ、大昔。……僕たち
ふむ、と唸ってタルスは再びソファに身を沈める。
彼も父が死んだ時、いくばくかのまとまった金銭を相続した筈だ。もっとも、父の事業の大半は、長兄のヒドルが受け継いだ。今は敏腕の二代目社長として、会社を切り盛りしているらしい。
それもどうでもいい話で、もはやヴィルの生活とは別世界だった。
だが、タルスには違うらしい。
彼は声を潜めて、天井を見上げながら呟いた。
「オヤジのよお……月面の土地と資産が見当たらねえんだ」
「は? ああ、月開発の」
「そうだ。オヤジは若い頃から、誰もやりたがらねえ月の裏側の開発で稼いできた。過酷な環境下でもロボットを上手く使って、莫大な富を手に入れたんだ」
それは話にも聞いているし、それが理由で父は世界に名だたる名士になった。今はそのおかげで、月は巨大な資源の塊として活用されている。毎日マスドライバーが、地球へと資源を送っていた。オービタルリングはそれを受け止め、世界中を豊かに潤しているのだ。
五十年前、若き青年実業家だった父の功績である。
だが、莫大な富を生んだ月面の権利が、どこにも見当たらないとタルスは言うのだ。
「ヒドル兄貴は知らないと言っている。手放したとも言ってた。だがなあ、オヤジがそんなことする筈ねえんだよ。あれは……月は、俺らの繁栄の象徴だからな。なあ、ヴィル……なにか聞いてないか? 月の権利書とか、なにかこう……」
「兄さん、すみません。僕はなにも」
「そうだ! 例のポンコツな、ひょっとしてそいつの中になにかしらのデータが」
「兄さん!」
ヴィルが声を荒げると、タルスはびくりと身を震わせた。
だが、すぐに彼は凄んで見せて立ち上がる。
見上げるヴィルの喉元に、太い腕が伸びてきた。
あっという間にヴィルは、吊るし上げられてしまう。
「なあ、ヴィル……月の事業は全部、オヤジの栄光の証なんだよ。なら、俺が引き継がなきゃなあ。そうだろう? ヒドル兄貴はもう、今の会社で満足してるだろうし」
「知らない、ですよ……僕には、もう、関係なんて」
「ちょっとよう、ヴィル。あのポンコツを調べさせてくれよ。なあ? いいだろう?」
「嫌です! ティアになにを、ガッ! ッ――」
その時だった。
キッチンから風が吹き込んで、ティアがスカートを
彼女はヴィルの首を絞めるタルスを見て、油断なく身構える。普段の愛らしい表情が嘘のように、その顔は戦慄に凍っていた。そして、両耳のブレードアンテナがピンと立っている。怒りも
「ヴィル様から手を放して下さい!」
「ん? ああ、丁度いいとこに。おいポンコツ! 月だ、月の資産全部! 知ってんだろう? カラクリは読めてんだよ。ヒドル兄貴には地球の会社、そして……
「ヴィル様の母上、亡き奥様を
「そんなものだぁ!?」
激昂にタルスは目を見開く。
彼の太い指が首に食い込み、ヴィルの呼吸が圧縮されていった。
ただただリーラのことが心配で、ヴィルは涙目でティアへと頼む。視線に乗せた意思は、リーラを守ってくれと願っていた。
だが、ティアは彼の言うことを聞いてはくれなかった。
まるで武道の達人のように、ズシャリと身構えた瞬間……視界からフッと消える。
次の瞬間には、ヴィルは解放されて肺に空気が流れ込んできた。
小さく「グギャ!」と悲鳴が叫ばれ、ヴィルは見る。
どうにか顔を上げた先で……床に突っ伏すタルスの腕をティアが
「タルス様、命拾いなさいましたね。わたしのケーブルがあと数センチ長ければ……タルス様は死んでいました。お忘れですか? わたしは
「ひっ! ち、ちが……待ってくれ! 俺は、俺はただ、オヤジの栄光を、その偉業を」
「お引き取り下さい、タルス様。大旦那様はわたし以外なにもヴィル様に残してはおりません。そして、わたしの中になにも月のことを残されませんでした」
ティアは、嘘をついた。
ヴィルはロボットが嘘をつくところを始めて見た。
彼女のケーブルは、家の中ではほぼ全ての場所に届く。届かないのは奥のトイレや物置だけだ。それに、彼女が人間を殺そうとするなど考えられない。
同時に、冷たい殺意を感じさせる横顔は、タルスを震え上がらせている。
ヴィルはたまらず、咳き込みながらもどうにか言葉を絞り出した。
「もう、いいよ……よそう、ティア。兄さんには、帰ってもらおう。ね? ティア……そんな怖い顔をしてはいけない。リーラだってびっくりするし……僕も、少し……いや、かなり嫌だよ」
「ヴィル様……」
「放してあげて。兄さん、帰って下さい。二度と来ないで欲しい。僕は、僕たちは父の遺産なんて知らない。知ってても、必要ない。僕には……ティアとリーラがいればなにもいらない」
ティアはそっと手を放し、タルスを解放した。
怯えきった彼は、バタバタと手足で
やがて、けたたましくドアが開閉する音が響いて、ようやく静寂が訪れる。ヴィルは真っ先に、ティアに駆け寄り……何故か彼女を抱き締めてしまった。
「ヴィル、様? あ、あのっ、その、申し訳ありませんでした。ヴィル様の兄上に」
「ティア! ごめん、君に怖いことをさせたね……僕が
「ヴィル様……」
「次からは僕が君たちを守る。だから、君は普段のままでリーラを守って。二人を僕が絶対に守る。今日みたいなことはもうさせない。だから」
その時、ヴィルは初めて気付いた。妹と瓜二つのロボットが、自分は好きなのだと。知らぬ間に好意を持ち、相手の好意を受けてさえ気付けなかった自分の気持ち……再び一緒に暮らす中で、彼はティアへと
驚くティアを強く強く抱き締め、ヴィルは動けなかった。
リビングの向こうで二人を見詰めるリーラもまた、動けず言葉を飲み込むだけだった。
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