過去の光 ~新たな季節のまえに

朝方、ガチャリと玄関のドアを開ける音が聞こえた。

しまった、やっぱり誰かに合い鍵を作られていたんだ。

盗れる物はないにしても、若い女の部屋だと見当はついたはず。

全身の毛穴が泡だち、心臓が音を立ててはずみはじめる。

なにか武器にできるものはないか、いったいどんな奴なんだ。

恐怖心を抑えこんでこっそり薄目を開くと、立っていたのは大家だった。


「うわ、驚いた。寝てらしたの。返事がないから、いらっしゃらないのかと思いましたよ」

驚いたのはこっちでしょ、老人は朝が早い。

と思ったけど、大家が遮光カーテンを引くと、すでに昼近い光が射しこんだ。

昨日の雪は幻かと思えるような、淡くやわらかい日射しだ。


夕べは、白河さんが収穫してくれた大量の古タオルと古歯ブラシを惜しげもなく使い、壁や床を磨きまくった。

カビ取り剤にはこりたし、安全な磨き剤三点セットをΩの穴に放りこんでしまったのが悔やまれたが、やってみると霧吹きの水だけでも、かなりの汚れが落ちた。

がぜん面白くなって、こすっては拭きをくり返しているうちに、時を忘れて夜中の三時過ぎになってしまった。


さすがにもう寝なければ‥と布団に入ったものの、上がったテンションのスイッチが切れず、夢でまで自転車でホームセンターへ往復し、ニスを塗りまくっていた。

そのニスの匂いまでリアルにしてたというのに、実際はどうやら、ただ思いきり寝すごしたようだ。


「床がひどく変色してるわねえ。これじゃ塗り直さないとだめね。1平米2千円だから合計3万円いただきますよ」

これは痛すぎる。

私の実感ではちゃんと自分で塗り直したのに、ひどく損した気分。

「物入りなので、少しだけ引いてもらえないでしょうか」

「これでもうちが2割負担してるんですよ。本来、全額もらってもいいんですけどね」


ため息をついていると、

「あなたね、あの噴火で家も仕事もなくして、まだ避難所暮らしの人もいるのよ。ちゃんと越せる家があるだけ、ありがたいと思わないと」

説教しながら保証金を3万円だけ返してよこし、大家は引きあげていった。

まあ、挿しっぱなしだった鍵の件は内緒のままで、交換代を払わなくて済んだんだから、よしとするか。


午後からは、冷蔵庫に書いたリストでやり残していた、公共料金引き落としの変更をネットで済ませ、郵便局の窓口へ出向いて転送手続をした。

そうして順々に片がついたものを、リストから消していく。

無駄撃ちも多かったけれど、母があちこち引っぱり回して鍛えてくれてなかったら、今ごろはきっと途方に暮れてただろうな。


そしてついに、残るは《引っ越し当日》のみ。

めったにないゆとりの気分を味わいながら、五年間暮らした部屋を見回してみる。

すると、昨日掃除機をかけたばかりなのに、綿ぼこりがもうたまっている。

そっと手でかき集めながら、引っ越し先の部屋を思いうかべる。

これくらいすっきりしたままなら、私にもなんとかなるんだけど‥。

新しい部屋も自分独りでは、数週間もしたら、またジオラマになってゆくのかなあ。


それよりなにより、次の職場に私の居場所はあるんだろうか。

そこでもやっぱり手際よくできなかったら、教えてもらったセンターで相談してみようか。

菊池さんの話じゃ、障害者雇用枠も発達障害には狭き門ってことだった。けど、製造や事務はともかく、販売や陳列なんて身体障害では難しくない?

障害者も雇用してる会社に、ふつうの非正規雇用で入っておいて、様子が分かったころカミングアウトして、障害者枠に移行するってルートはどうなんだろう。


ただ、障害者雇用になったからって、めでたしめでたしでもないみたいだし。

給料はますます安くなるのかな。社会保険もないとさらにきつくなる。

障害者手帳をもてば、きっと同僚の目線なんかも、良くも悪くも変わってしまうんだろうな。

菊池さんとこみたいに、かえって気まずくなることだってあるかもしれない。


‥いや、迷っていてもしょうがない。

相談しただけで損するわけじゃなし、とにかく言わなきゃ助けてももらえないよね。

ジョブコーチから実地で教えてもらえば、もっと私に合った工夫だって見つかるかもしれない。

この五年間で何と何が苦手かは重々わかった。

今なら、この部分だけならできます、ここをこうしてもらえれば私にもできます、これははずしてもらえると助かりますって、話せることが幾つもある。


今は圧倒的に暗黒に占拠されている、私の人生のオセロ盤。

どこから手をつければ白を増やせるものやら、またまた無駄撃ちの山を築いたり、こっちが討ち死にするときだってあるかもしれない。

けど、数撃ちゃ当たるものだって、また出てくるかもしれないじゃない。


その夜は、引っ越し準備ですっかり抜けおちていた風呂に、二日ぶりに浸かった。

新薬の治験も、じょじょに減量して無事終了した。

特に効果も感じられなかったけど、不安もないではなかった副作用も(Ωの件をのぞけば)出なかった。

退職金はないから、協力費がちょうど引っ越し代の足しになった。


それにしてもΩって、けっきょくのところなんだったんだろう。

Ωの声がしないと、独り言をいう気にもならない。

かつて一人でいたころは、鼻唄ぐらい口ずさんでいたはずなのに、それさえする気になれない。

‥湯の音だけが響く静かすぎる時間。

所在ないばかりで、いっこうにくつろげない。それを意識すればするほど胸がふさがってくる。

たまらず、久しぶりの風呂もさっさときりあげて、Ωが死んで以来ふれていなかったサイトを起ちあげてみた。すると‥


「お風呂の洗い場の排水口から、水があふれて流れなくなっちゃった。いつから詰まってたんだろ。ヌクラが溺れちゃったんじゃないか心配("0")」(ヌクラ☆らぶ)

「オレんちのは、あんなに食べてたのに、泥みたいなのを大量に吐きもどしたよ? 流しが使えないんで、ゲロもどきはトイレに捨てたけど」(その名も生ゴミ男)

なんと、あちこちのΩに異変が起こっている。


「うちのΩは、以下のような経過をたどりました。

3月14日夜8時:約200ミリリットル程度の粘土様物質を発見。単なる汚れではないようなので、触らずに観察を続ける。

3月15日朝8時:粘土様物質の表面に、朱色の1ミリ以下の粒がびっしり現れる。一部をはがしてみるが消えない。いつもの「コピー」ではないと思われる。

3月15日夜8時:粒がオレンジ色の極小のエノキ茸状のもの(傘1ミリ、丈2ミリ程度)に成長している。

3月16日朝8時:キノコ状のものが茶色く枯れている。粘土様物質を除けてみると、Ω本体もなくなっている。

以上から、Ωは生殖体に変化し世代交代した可能性があると、私は推論しています」(人呼んでリケジョ)


「粘菌のように胞子を飛ばしたってわけですか・・」(自称ジェントルマン)

「なんという愚者ども!! 地球は終わった! ああああぁぁぁぁぁ‥‥」(嵐を呼ぶ使者)


そこで途切れている。二日前だ。

Ωを失ったと思われる人から沈黙していっている。

あるいは、リケジョの飼育法だけが正解だったのかもしれない。

ジェントルマンの所は、まだ生きているのか初めからいないのか、やはり玉虫色。

それとも、皆も薬が切れたから、Ωの幻影が消えただけなのか。あいかわらず疑問のままだ。

さぐってみるとするならば‥


「うちのΩも土だけ残して消えました。皆さんのところは、その後どうですか」(風に舞う木の葉)


入力した言葉を三度読みかえしたが、送信アイコンを押す代わりに、私は×印を押した。

解を求めたところでなんになるだろう。

あれが次世代を作るための土壌だったとして、万が一、うちのΩも世代交代に成功したのだとしても、あのΩ自身はもういない。

新しい部屋のプランターに使えたかもしれない、見事な堆肥の形見さえ、私は石油製品や合成染料のゴミをわざわざ放り込んで、台無しにしてしまっている。


私はΩの死を一人で悼みたかった。

かりに他のΩも死に絶えたのだとしたら、皆もそうなのだ、たぶん。

正体も目的も敵味方もわからなくても、私たちにとって一時期、Ωはたしかに存在した。


もしかしたら、私の言葉に応えてくれていた仲間のなかには、Ω抜きでも友だちになれる人がいるのかもしれない。

転職組の生ゴミ男、就活中のヌクラ☆らぶ、リケジョは学生か院生かもしれないな。黒主の主とはカクテル友だちにもなれそう。

かりに治験関係者だったとしても、治験が済んだ現在なら、もうオフ会を呼びかけるのだって御法度ではない。

‥でも、今じゃない。

もうすこし、もうすこしだけ経ってから。


私は「当日閉める」と大書された段ボールから、最後のお茶に餞別のハーブティを選んだ。

一回分ずつお茶用の紙パックに詰められた、手製のティバッグ。

〈夜明けのティ〉って、夜明けに飲むのにふさわしい目覚まし成分ってことかな。

それとも、恋人同士で夜明けを迎えるときにぴったりとか。なんじゃそりゃ、疲労回復か。

それとも心を落ちつかせて仲直りできる成分? そんなロマンティックな名前つける人じゃあないよね。


私は、小型電気ポットで湯を沸かすと、三年間見慣れた文字で書かれた『いれ方』に従った。

① ティーカップに1袋(花5つ)を入れる。

はいはい‥。


② 湯を注いで、色が出るまで置く。

ええー、予想外の青インクみたいな色が出た。

味覚をそそる色とはいいがたい。やっぱり変わった趣味の人だったか。


③袋を取りだし、柑橘類の汁を小さじ1杯加える。

(ゆずやレモンだと香りがよい。)

引っ越し代のために、今年はゆずが買えなかったなあ。

ま、調味料のレモンでもいいよね。

「‥あ」


注いだ瞬間、カップの中の紺色の宇宙が、桃色に染まった。

私の世界ではいろんな不可思議が起きるけど、これはそのなかでも一等美しいマジックだった。

きれいすぎて、‥‥泣けてくる。


私はカップを手に、ほこりっぽい部屋から逃れて、外の空気を吸いにベランダへ出た。

明日の引っ越しは晴れてくれるのか、天気を探ろうにも、夜空の半分以上は街の灯りで黄土色っぽく濁っている。


「さあ、星見にいくよー!」

小杉君のかけ声で見たあの満天の星空にしたって、じっさいは何億光年も過去の輝きにすぎない。

地球にとって命の源である太陽でさえも、宇宙では星くずの一つ、一瞬のまたたきでしかない。

何十億年か後には、まっ赤に爆発して地球を道連れにしたかとおもうと、その後は白くしぼんで、黒く冷えきって消えてしまう最期を待つのだという。

赤い星、白い星、青い星、そして暗黒物質‥。

すべてを合わせて、ひとつの全き宇宙なのだ。


‥なんて、明日限りのベランダで宇宙の感慨なんかにふけっていたら、クシャミを連発してしまった。

また花粉症と黄砂とPM2・5の季節が始まるのか‥。

次の職場は花見なんてないだろうな。

太田店長も谷沢さんもいい人達だったけど、毎年、花粉の時期に二人して花見に誘ってくれるのだけは、ほんと迷惑だった。


私は私でうっとうしい季節が過ぎたら、また貧乏旅行をすればいい。

今度は携帯電話も、バネのストラップでカバンにしっかりくっつけた。

充電だって、今は延長コードを延ばして玄関でしてる。

トラウマになりそうな思いをしたおかげで、ない知恵しぼりだしたことだってあるもんね。


まだ闇が占めている空の下で、私は冷えかけたちょっと酸っぱい夜明けのティを飲む。

そうだ、今度の出窓で、もしもハーブが首尾よく育ったら、ブログで人に見せるためなんかじゃなく、まず自分自身が安らぐためにこそお茶を入れよう。


だって、慰めてくれるΩはもういないのだから。

Ωに合掌‥そして乾杯。

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