絶滅危惧種 ~仲間への疑い

私の脳は冬眠する。

とくに中学・高校のころはひどくて、弱々しい光のもとでの授業は、夜ちゃんと八時間寝ても居眠りばかりしていた。

母が個人懇談で注意されて、通っているヨガ教室の先生に相談したら、逆に諭されたそうだ。


「娘さんの体は、太陽のリズムをちゃんとキャッチしているんですよ。目覚まし時計に合わせて年中決まった時間に起きるほうが、不自然なんです。冬は1~2時間早く寝かせてあげなさい。こういう人は長生きしますから」

自分史上、居眠りでほめられたのは、後にも先にもあれっきりだったなあ。


‥玄関のチャイムが聞こえてはいるのだから、感覚回路は起きている。

けれども、動作回路のどこかがスイッチの切れたままで、体が動かない。

手足が動かないから、せめて横に転がってベッドから落ちてみる。

そして四つ這いで移動しようと思うのだが、異様に体が重い。


そうするうちに、感覚回路が背中の感触に気づいて、じつはまだ横たわっていることを、思考回路にフィードバックする。

そこで思考回路が、今見ている部屋は頭の中の映像にすぎないと気づく。

‥ああ、いやだな、一番嫌いな悪夢につかまってしまった。


そこでもう一度、うーんと掛け声をかけ満身の力をこめて、ベッドから転がり落ちてみる。

けど同じサイクルから脱けだせない。

それを六回もくり返したところで、やっとまぶたが開いた。

今度こそ現実かな。‥ああ、動いた、よかった。


力みつづけて息が切れたので整えていたら、ふたたびチャイムが鳴った。

だるい体を、夢でのシミュレーションどおりに横に転げおとし、手をつっぱって立ちあがる。

ドアそばでダメ押しのチャイムが鳴ったので、はいはいと文句をいいながら開けてみると、白髪の大家が立っていた。


三階建ての鉄骨アパートの屋上に、大家は住んでいる。

ペントハウスと呼べるほどでもない、後からのっけただけの小さなプレハブだ。

それでも、独身のまま働きに出もせず暮らしていけるんだから、うらやましいかぎりだ。


アナログなお婆さんだから、家賃は口座からの引き落としではなく、こちらが持参する決まりだ。

遅れれば、取り立てに自分の足でやって来る。

取りに来られると、ゴミだらけの部屋を見られてしまうから、なるべく避けたい。

だから、一年分の支払日を携帯電話のカレンダーに入れてあるのだけど、今月は引っ越しの算段にすっかり気をとられていた。

支払いが遅れたのを謝ったついでに、年度末で引っ越すことを伝える。


「では、引っ越しの日が決まったら教えてちょうだい。前日に現状確認と精算に来ますからね」

大家は、ドアから中をのぞき込んで、眉を寄せながらいった。

保証金から弁償代を引かれないように、なるべくきれいに原状復帰しておかなくちゃ。

こうやって数年ごとにリセットするというのも、所帯の整理にはよい区切りかもしれない。


母が私に家事を仕込んだのは、一般の家庭よりむしろ早かったと思う。

皿と米と風呂を洗うのは小学生のころから私の役目だった。

卒業文集には、母が寝こんだ日に炊事、洗濯機、掃除機すべてをこなしたという作文がのったくらいだ。

中学、高校では、週一回は夕食を担当してもいた。

だから、家事にはむしろ自信があったし、家を出るのになんのためらいもなかった。


けれども、いざ一人暮らしを始めてみると、勝手が違った。

じつは、あらゆる家事は、いつ始まるとも終わるともどうにもつかみどころのない「片付け」のうえに成り立っていた。

母のこまめな声かけがなくなると、いつのまにか服や道具は埋もれてしまい、掃除機をかけるスペースもなくなっていった。

そうして、出だしは順調だった洗濯も掃除も、いつしかゆき詰まってしまったのだ。


Ωだけは気をつけて世話をしているつもりだったが、巣穴がしだいに汚れてきていた。

石けんカスは食べているようだし、流れこんだ髪の毛やゴミは、割り箸で取り除いている。

それでも、その夜、風呂あがりにのぞき込むと、白いカビのようなものがあった。


そこで、化粧落とし用のコットンを割り箸に巻きつけて、そっとぬぐってみたがとれない。

強めにぬぐおうとすると、Ωはグモ‥ゥ‥と鳴いた。

強引にやると傷めるかもしれない。

たしか合成洗剤はだめなはずだし。

こういうときは、皆に相談するにかぎる。


「Ωに簡単にとれない汚れかカビのようなものが付いたのですが、こすると嫌がっているようです。ストレスかけずにきれいにする方法を、ご存じないですか」(風に舞う木の葉)


「そんなふうになったことないけどな~。体調わるいのかも(´?`)」(ヌクラ☆らぶ)

「地球防衛黴軍、出撃!!」(嵐を呼ぶ使者)

「ぬらしたティッシュペーパーで湿布してふやかせば、取れやすくならないでしょうかね」(自称ジェントルマン)

「ティッシュペーパーを食さぬよう、ご注意あれ」(黒主の主)


「うちは泡だてた純石けんでふやかしてます。2分後にぬるま湯で洗い流すと、うれしそうに身ぶるいしますよ。清潔にしてあげると、喜ぶんじゃないでしょうか」(人呼んでリケジョ)

うん、ベストアンサーはこれ!


私は準備万端ととのえた。

石けんと泡立てネット、スプーン、清潔なボールと湯、コットンを巻きつけた割り箸。

まず、石けんをネットでしっかり泡だてて、スプーンでカビの部分に慎重にのせる。

ほう、たしかに身ぶるいした。

2分測って、よしと湯をたっぷり注ぐと、今度は大きく震えて、

「ウォー‥ム!」


その声音に背筋が凍りそうになった。

今のが喜びの声に聞こえるだろうか。

湯が熱すぎたのか。いつもは床を流れてぬるくなった湯か、飲みのこしたお茶しかかけてないんだもの。


私はあわてて、コットンでΩの黒い肌をぬぐった。

周りにたまった湯も、ていねいに吸いとらせた。

たしかに白い汚れはとれた。

しかし、ぴんとドーム状に張っていた頭が、心なしかたるんだように感じられる。


翌朝、Ωの容体が気になって早く目覚めた。

巣穴をのぞくと、気のせいか艶が失せているようにみえる。

サイトで再びたずねてみた。


「お湯をかけたら、すこし元気がないようです。つやが悪いときはどうされてますか」(風に舞う木の葉)


「死ねィ」(嵐を呼ぶ使者)

「無視しましょう」(自称ジェントルマン)


「獣医に搬入もできぬし、よしんば搬入できたとしても、新種では勝手がわからぬであろうのう。下手にいじらず、様子をみられては如何か」(黒主の主)

「栄養をとって休ませるのが、一番かと思います」(人呼んでリケジョ)

「犬や猫も風邪ひいたりするもんね。動物は自然治癒力が強いから、きっと大丈夫(^^)v」(ヌクラ☆らぶ)


あまり参考にはならないが、他のΩは丈夫そうだということに望みをつなぐ。

栄養補給には、以前パンがお気に召さなかったので、消化のよさそうなヨーグルトを控えめに与えてみた。

すると、それは周囲から波が寄せるように取りこみ、小さな声でつぶやいている。

やっぱり栄養不足だったのかな。Ω仲間がいてくれて本当に助かる。


‥けれども、もはやなくてはならないその仲間について、私は確かめるのが怖いくせに、どうしても確かめてみたい疑問を感じだしていた。

一口にADHDといったって、何が苦手かは人によって違う。

今まで、発達障害で検索した他のスレッドでは、よけいな話が多すぎて読む気になれなかった。

それなのに、Ω仲間のピンポイントで狙い撃ちしたような共通性はなんなのだろう。


一つの研究である新薬の治験は、幾つかの限られた病院で行われている。

でも、被験者は互いに会話を交わして予断をもつことのないよう、通院日は別だ。

もちろん、他の被験者の名前や顔も知らない。

そして、治験に協力していることは、家族以外に口外することを禁じられている。

そこで、私はカマをかけてみることにした。


「いつもいろいろと教えてくれてありがとう。自分の出来なさには、ほとほと愛想が尽きます。Ωの狐さんの葉っぱじゃなく、ほんとうに効く新薬があったら試してみたいです。誰かいい病院知りませんか」(風に舞う木の葉)


いつもは程なく返事が入りはじめるのに、画面が止まっている。

‥3分、5分。

いつもまっ先に反応するヌクラ☆らぶはどうしたの。

必ず発言していた黒主の主は。

15分、20分、やっぱり‥?


今までの会話で、他のリピーター六人のうち何人かは、「風に舞う木の葉」が発達障害をもっていると察しているだろう。

被験者でないのなら、いつものように同調してくれたり、あるいは、「新薬=後発の既存の薬」と解釈して、一般的な答えをくれる世話やきがいたっておかしくない。


なのに沈黙が流れるということは、じつは皆、口どめされた治験仲間だったということはないだろうか。

私たちのメールアドレスは、連絡先の一つとして承諾書に記入されている。

少なくとも数十から数百人いるだろう治験者のうち、似た症状の者が、予め設営されているサイトに誘導されていたということはないか。


さらに考えれば、謎が多い日々のなかでもとびきりシュールすぎるΩの存在は、もしかして真の薬を飲んでいるグループに起きる、副作用による幻覚といったことはないだろうか。

でも、同じ薬を飲んだからといって、シンクロしたみたいに同じ幻覚を見るものだろうか。

Ωにつながるような暗示を、私たちは通院中どこかで受けなかったか。


そのとき、返事が入った。

「オジサンがお仕置きのお注射してあげるよ? 禁断のオフ会にオイデ」(嵐を呼ぶ使者)


あい変わらずの荒らしに見えるけど、お仕置き、禁断のオフ会って、裏の意味がないだろうか。

この人は私と同じことを感じているのか。

そして、今までは感づいていなかったかもしれない他の皆は‥?


「薬との相性は個人によって違うから、まずは主治医に相談するのがよいのではないでしょうか」(自称ジェントルマン)

そんなありきたりで役たたずなことを言うだけのために、どうしてそんなにかかるの。

他の人の様子をみていたからじゃないの。


いつも冷静な自称ジェントルマン、彼は巧みに共感を示しながらも、自分の症状については一度も明かしたことがない。

ネームからしてすまし屋なんだろうと思っていたけど、炎上防止の臨床心理士だというのは考えすぎだろうか。

ひょっとしたら、一人何役も、いや私以外はすべて一人で演じていることだって考えられる。


何段階もの疑惑に、勘ぐりだすときりがなくなる。

それとも、こんなふうに邪推すること自体、二次障害で被害妄想をおこしてるんだろうか。

並んでいるコメント自体がすべて私個人の幻影?


元もとあやふやな世界に生きている私には、確かな判断基準がもうなくなりかかっていた。

そして不審をいだきながらも私は、ΩからもΩ仲間からも離れられなくなっていた。

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