プリズム ~見えないライバル
ベランダのプランターのシソにダニが付きはじめている。
シソなんか実家ではこぼれ種ではびこっていたから、ぞっくり生えた芽を母が雑草のようにむしっていた。
それならベランダでも育つだろうと思ったのに、実を付ける頃になると、いつもダニにやられて葉がチリチリになってしまう。
でも、農薬を使うのは嫌だから、やられる前に使いきるのが私の防衛策。
今日は生のキハダマグロに混ぜて、和風カルパッチョ(プランA)にしようかな。スーパーが刺身のセール日だから、早く行けば、半端を集めたマグロのすき身もあるはずだ。
魚のお買い得品が売りきれていれば、鶏ひき肉と豆腐の和風ハンバーグに混ぜてあんかけ(プランB)でもいいな。
そうだ、余ったシソは、和風モヒートっぽく黒砂糖とぐちゃぐちゃつぶして焼酎を注いでみよう(プランC)。
レモン汁は‥瓶入り調味料のでもいいよね?
カクテル用の細めのグラスも景品でそろえたし、旬の香りのするそれなりににぎやかな食卓になりそう。
「買い物リストは、思いついたら後回しにせず、すぐ付箋に書いて冷蔵庫に貼っておくという人もいましたよ」
と作業療法ではいわれた。
素直に真似てみたら、
①やりかけていることを中断して書きにいくと、鍋が焦げたり、アイロンが半日つけっぱなしになった。
②ポケットに付箋とペンを入れて書いてもみたけど、はがして店に持っていくのを忘れた。
③店に持っていくのには成功しても、見ながらカゴに入れるのは初めだけ。特売もあさるうちにメモの存在を忘れ、最終チェックを怠った。
④今日は残らず買えた、あとは郵便局だけ!と店を出た日は、植え込みのアジサイの薄青~桃のグラデーションに心を奪われ、気づいたときはとっくに目的地を通りすぎていた。
・・トラップは何重にも張りめぐらされているんです、先生。
「いつも持っていくものは、ドアの内側に〈持ち物リスト〉を貼ってはどうですか。会社用と買い物用と2パターン。出る前にカバンの中身と照らし合わせて、忘れ物がないかチェックするといいですよ」
とも提案してもらった。
けど、チェックするという手数を増やして、期待どおりにいったためしがない。
①チェックリストを頼りすぎると、その日だけの特別の持ち物を忘れる。
②これですべて持った!と安心して外に出たとたん、最後に書いてあった鍵をかけるのを忘れる。
③その日だけの持ち物を、鍵をかけている最中に思いだした日は、よくぞ思いだした!と自分をほめながら出社した。けど、帰宅したら鍵がドアに挿さったままだった・・。
泥棒に合い鍵を作られていないかと青くなったが、何日たっても貴重品を盗まれた形跡は現れなかった。
泥棒も部屋をのぞいてみたら、金目のものを発掘する気が失せたのかもしれない。
そう報告したら、
「南さんは楽天的なところが取り柄ですね。なかには、本当に鍵をかけたかどうか不安で、何回もかけ直したり戻ってきて確かめたりして、出かけられなくなる人もいますから」
と慰められた。
なるほど、私はそのときはパニックになるけど、喉元過ぎるとけろっとしてしまう。
でも、次から次へとやっかい事は起こるのだから、のんびり生きてるわけでもない。
長所を探して言ってくれてるんだろうけど、悩みが深いわりに軽く見えるらしいっていうのは、あんまりうれしくはない。
そうして時が経つにつれて、〈持ち物リスト〉の貼り紙は、見慣れて玄関ドアにとけこみ、いつしか脳に何の信号も寄こさなくなってしまった。
試行錯誤のあげく今は、仕事用は巨大な肩掛けカバン、買い物用はエコバッグに、日によって要る要らないは考えず、全部入れっぱなしにしている。
必須の鍵と財布だけは二つずつ用意して、両方に入れることにした。
そして、どちらのカバンも、玄関に置きっ放しにするのがコツだ。
ただ、携帯電話だけがメールチェックや充電のため部屋に持ちこむから、いつしか携帯ならぬ不携帯になってしまう。
マグロか鶏挽き肉・・などと買うものをメモしていると、窓からにんにくを炒める香ばしい臭いが入ってきた。
隣か下の部屋だろうか。さあ、私も急ごう。
今日は買い物用のエコバッグを、さっと取りあげてドアを出て、ほら楽ちん。
ところが、ドアを閉めようとしたら、財布に入れているはずの鍵がない。
いらない会社の鍵はくっついてくるのに、なんだって家のは行方不明になるんだろう‥
もし外で落としたのなら、ただちに大家に連絡して変えてもらわなくちゃいけない。
でも、部屋のどこかにあるのかもしれない。
現に今まで二回も変えてもらったあげくに、どちらも後から出てきた。
それもゴミの地層の奥で化石になっていたわけでもなく、何回も確認したはずのポケットやカバンの隅から。
二回目は恥ずかしくて、「また見つかりました」とは言えなかった。
三回目ともなれば、恥ずかしいは通りこして、もう情けないしかない。
私が高校三年になっても、しょっちゅう物をなくしたり見落としたりするので、ある視力矯正クリニックでプリズム眼鏡というものを誂えたことがある。
「水のなかにある物は、ずれた位置に見えるでしょう。お子さんは片方がそういう状態で、両眼の焦点を正確に合わせるために、非常に無理をしています。このレンズで左右のずれを修正するといいでしょう」
まんざらペテンでもないらしく、高価な眼鏡をかけてみたら、子どもの頃から夜になると右眼の奥がよく痛くなっていたのが治った。
けれど、なくし物と見落としは相変わらずだった。
つぎに行った視力回復センターでは、
「お子さんは、左右の眼からの視覚情報を、脳で統合する機能が弱いために、うまく立体視できていないんです」
とセラピストが説明してくれた。
そうして、部屋の四隅にある1~4の数字をたすき掛けの順に見たり、首を左右に振りながら★印を見つめ続けるといったトレーニングを受けた。
けれど、三カ月通ったあげくに効果がはかばかしくないと、「もう視力の成長期を過ぎてますからねえ」と言い訳された。
帰り道、母は「今なら、クラス全員でやってる小学校もあるっていうのに」と苦々しげにつぶやいたものだ‥
いったん部屋に戻ると、窓からの匂いがカレー臭に変わっていた。
昼から煮込むとも思えないから、カレー風味の野菜炒めかな。
ライバルはもう仕上げ段階に入ったようだ。
それにしても、家の鍵は前回の買い物から帰ったときに使ったんだから、部屋に落ちているならジオラマの一番上にのっかっているはずなのだ。
そう考えて、玄関の谷から、キッチンの尾根筋、リビングの斜面、トイレのすそ野と、歩いただろう順にたどってみる。
ラストに、まさかここ?と浴室の排水口までのぞきこんだ。
‥やっぱりない。
と思ったら、穴から黒光りするアメーバのようなΩがにじり出てきた。
うわ、やっぱり部屋を乗っ取られるのか!
泡をくって後ずさりすると、5センチほどで止まった。
その場でなにやらうごめいている。
こちらも逃げるのはやめて目を見はっていたら、ぷっと鍵を噴きだした。
食べられないと判断して返してくれたのか、それとも今まで隠していたのだろうか。
そもそも、なぜそこに落ちたのか狐につままれた気分だけど、ともかくあってよかった。
汚れていないか調べようと、鍵を拾って左手にのせてみた。
‥と、鍵に見えたものはぐにゃりと崩れて黒く変色し、指のすき間からすべり落ちて、また穴に戻ってしまった。
え‥?!
買い物なんか頭からすっとんでしまった。
ただちに、ネットを起ちあげてΩ仲間に報告する。
「なくした鍵をΩが作ってくれたんですが、持ったら消えてしまいました。狐さんの葉っぱのお金と同じなんですね。せめて使う間だけでも、形を保っててくれたら、その場をしのげるのに」(風に舞う木の葉)
「打ち出の小槌みたいに、なんでも出してくれるよね~(^-') これってやっぱりテレパシー?」(ヌクラ☆らぶ)
「あった!と喜んだとたん消えちまうのは、あってほしいっていう切実な念が消えるからかな? 何度も作られると、こっちも引っかかんないけど」(その名も生ゴミ男)
そうか、どこのも消えてしまうのか。
「無防備お人好し軍団!! からかわれてるとか、甘い罠かもって思わんかネエ!?」(嵐を呼ぶ使者)
「拙者の思うに、黒主は人のいう運不運はあまり理解しておらぬのではなかろうか。形のイメージに反応し、機械的にコピーしておるようにも推察される」(黒主の主)
「そしてある朝、部屋の住人のコピー人間が、ドアを出ていく。床には元の主の骸が‥」(嵐を呼ぶ使者)
「皆さん、無視しましょう」(自称ジェントルマン)
「あまり見事に復元されてると、有効利用する手立てはないかと、考えてしまいますよね。瞬間凍結器とか、どなたか物作りに長けた方はいらっしゃいませんか」(人呼んでリケジョ)
‥ふうん、なくし物に困ってるの、私だけじゃないんだ。
大家にはまだ黙っておいて、鍵はゆっくり一日かけて探すとしようか。
こうなったら、買い物に出るのはあきらめて、家にあるもので済まそう。
たしか、こないだセールで買いためたツナ缶があったはず。
それと冷凍のグリンピースでパスタにできる。
シソは、和風ジェノバソースにしてからめればいいや。
松の実は‥‥ピーナッツバターで代用してもいいよね?(プランD)。
うん! 和洋ハーブ全般は無理でも、格安シソづくしのブログならできるかも。
かくて、今度はツナ缶を探して、台所に並んでいる置きっぱなしの袋を物色する。
どの袋だっけ、エコバッグから出した日だったか、仕事帰りにレジ袋に入れてきた日だったか‥。
変だな、生鮮品といっしょに冷蔵庫に押し込んじゃったのかな?
そう、探し物では自分の過去にたどった行動を推理するのが肝心。
「あ、あった」
冷蔵庫にツナ缶、ではなくて鍵が。
おととい行った店のレジ袋に、むき出しで。
‥こうして、すべてはご破算になる。
結論を二回もくつがえされて脳がオーバーヒートし、四つものプランのまえで立ち往生する。
けっきょく、今日は何を作ればいいんだー。
いつのまにか、窓からの匂いが消えている。
隣人はどうやら換気扇を止めて、すでに食べはじめたようだ。
私は見えない相手にまで、置いてきぼりにされる。
こちらはメニューさえ決まってないというのに‥
無用の労力の積み重ねのうちに、午前中がもう終わっている。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます