葉介・蛍ルート

*本編時系列とは別物としてお読み下さい。



 5月5日。こどもの日。

 ゴールデンウィークも後半にさしかかったが、鎌倉を訪れる観光客が途絶えることはない。小町通りの一角にある弁当屋くまの屋も昼時は大変盛況だった。


「いやー今日はすごかったな。ゴールデンウィークなめてた」

「ほんとにね……こんなにお客さん多かったの初めて」


 忙しい時間を乗り越え、バイトの沖永おきなが幸太こうたたちばな一花いちかは店内を見回した。完売メニューがちらほら目立つ。厨房では調理を一手に引き受ける店長が、敗北したボクサーのように項垂うなだれていた。

 カランという鐘の音ともに、店の扉が開く。やってきたのは、葉介ようすけけいだった。


「葉介さん、蛍さん! どうしたんですか?」

「もうすぐバイト終わるかなと思って、迎えに来たんだ。あ、沖永君もいるんだね」

「はい! 葉介さん久々っスね!」


 たまに一花の代わりにバイトに入る葉介とは、顔見知り以上の関係を築いている。年の差を感じさせない穏やかな彼に、幸太はよく懐いていた。


「これ、休憩の時にどうぞ」


 蛍はすっと紙袋を差し出した。この辺りでも人気の洋菓子店のロゴが見える。


「ありがとうございます! 店長ー! ……あ、ダメだ。まだ死んでる」

「いいんだよ、店長さんによろしく」


 美しく笑う彼に、幸太は思わず見惚れた。綺麗な顔立ち。モデルみたいにスタイルが良くて、その上さりげない気遣いまでできる。こんな完璧な人なら、きっと望むことは全て叶うのだろうと内心憧れた。

 たちばなの周りはすごい、とつくづく思う。完全無欠の蛍はもちろんのこと、葉介だって多少抜けていところはあるものの、優しいしイケメンの部類に入る。以前鉢合はちあわせした建築士も、そして超人気俳優由良ゆら千晃ちあきも、並の男じゃない。

 この中の誰かが橘一花の父親。……誰であっても大変だろう。密かに恋心を抱く幸太は悩まずにいられない。


「もしかして、これから遊びに行くの?」

「うん、そうなんだ」

「いいなぁ、オレも行きて~」

「沖永君も来る?」

「え!?」


 彼女からの願ってもない誘い。身を乗り出しかけて、


「…………」


 蛍の冷たい微笑に、幸太は気圧けおされる。


「い、いや、オレまだあがりの時間じゃないから」

「あ、そうだったね。じゃあ、また明日」

「おう、お疲れ」


 3人を見送って、幸太はほっと息をつく。

 美形の冷笑は怖い。迫力がありすぎる。誘いに乗ろうとしたのが、そんなに気に障ったのか。けれど今の反応。あれは親子というよりも――。


「いやいや、ねーだろ。うん」


 想像、妄想。あるはずがない。と、自分に言って聞かせる。

 でももし、にあったら。

 ……敵うはずない。この恋は、木っ端みじんに終わってしまう。


 * * *


「今日のデートは、横浜だよ。中華街や赤レンガ倉庫に行ってショッピング。夜は美味しいもの食べて、夜景を見るんだよ」


 ちょっと自慢げに葉介は言って、蛍がため息をつく。


「最初に全部言うんだね……」

「え、ダメだった?」

「葉介君らしいよ。手の内をさらけ出した上で、楽しい時間を作っていこう」


 3人は鎌倉駅に向かった。鎌倉から横浜まで20分と少し。連休で大渋滞の高速道路を行くよりも、ずっと早い。切符を買おうとした時、電光掲示板の注意文に気付いた。


「線路内で事故、運転見合わせ。電車、動いてないみたいだね」

「……仕方ない、車で行こう」

「すごく混んでると思いますよ。鎌倉から出るだけでも一苦労かと」


 駅には立ち往生する人々で溢れかえっている。対応に追われる駅員を見る限り、復旧はまだ先のようだ。

 蛍と葉介は考え込む。時間は刻一刻こくいっこくと過ぎていく。


「横浜は、また今度にしませんか? 来週の土日とか」

「それはいいけど……今日はどうしようか?」

「私に任せてください!」


 一花は2人を駅の近くにあるレンタサイクル店(有料の自転車貸し出し)に連れていった。


「鎌倉って実は自転車で回るのがいいんです。道路は混んでるし、細い道が多いから」

「へぇ。今日は天気いいから、自転車日和かもね」


 自転車を借り、3人は出発する。一花も葉介も楽しげだが、蛍は困惑気味だった。


「……自転車なんて何年ぶりだろう」

「蛍って自転車あんまり似合わないね」

「え!?」

「うーん……白馬の方がしっくりきそうな気がします」

「鎌倉の街を白馬で駆けたら捕まるよ……」


 鎌倉駅の大通りを南に進む。舗装された綺麗な道をしばらく行くと、潮の匂いがしてきた。目の前に、美しい海が広がる。


「海! 泳ぎたいなぁ」

「海開きまであと2ヶ月くらいですね」

「じゃあ夏になったら一緒に泳ごうね、一花!」

「……あそこに見える島が江ノ島です」

「何で無視するの!?」

「どう考えても一花は海で泳ぐタイプじゃないよ、葉介君」


 休憩を挟みながら、海沿いを走る。途中、有名な花寺にいくつか立ち寄り、花や歴史的建築物を楽しんだ。

 そうして観光客と同じように有名なスポットを巡り。18時。夕日が沈みかけた頃、3人は大きな橋にたどり着いた。


「この橋を渡った先に、江ノ島があります。自転車、ここでも返せるので返しましょう」

「帰りはどうするの?」

「江ノ電があるので大丈夫です」

「夕食は――」

「江ノ島に食べるところいっぱいありますよ。オススメは生しらすの海鮮丼です」

「今日の一花は頼もしいね」

「……!」


 一花はぷいっと顔を背け、照れを隠す。周りには大人ばかりなので、頼もしいなんて言われることはめったにない。思いがけないくらい、嬉しい言葉だった。

 江ノ島は、山が切り離されて出来たような島だった。急な坂の両脇には、賑やかな商店が並ぶ。それを過ぎると、日本山大弁財天を奉る神社がある。


「なかなか体力使うね」

「楽しい!」

「………………」

「一花、大丈夫?」


 ここに来るまで、「いつもリードされてばっかりだけど、今日は私が案内するんだ」という使命感に燃え、疲れは一切感じなかった。しかし、それはただ高揚感こうようかんに誤魔化されていただけで、足はもう限界を迎えていた。


「今日はここまでにしておこうか」

「ダメです……ゴールは、ここじゃない……」


 よろめきながら一花は、上を指差した。

 江ノ島の頂上まで行くには2ルートある。険しい石畳の階段を上るか。はたまた、長いトンネルのような屋外エスカレーターに乗るか。ゆっくりと景色を眺めながら行くのもいいが、体力が尽きかけた一花を案じて、今回は文明の力に頼ることにした。


 高低差46メートルを登りきった頃には、美しい夕暮れが目の前にあった。鮮やかな炎が広大な海を赤く染め、やがて水平線のかなたへと沈んでいた。

 細道を進んでいくと、開けた場所に出る。アメリカのとある地名を名付けられたその広場は、海、そして鎌倉の街が広がっていた。

 闇の中、街のライトが浮かぶ。一つ一つは小さなものだが、無数の輝きは星空のようだった。3人は感嘆のため息をつく。


「綺麗だな」

「うん、ほんとに。江ノ島っていいね、俺ここ好きだな」

「そういえば、観光らしい観光をしたのはこれが初めてかもしれない。せっかく鎌倉に暮らしてるのにもったいなかったな」


 心地よい潮風が、疲れた身体を癒やす。空には月が昇り、辺りを照らし始める。蛍は満たされた笑みを浮かべ、言った。


「由比ヶ浜、花寺、江ノ島。あんまり時間ないと思ったけど、いっぱい回れたね」

「混雑を避けながら観光スポットを回り、かつ夕焼けに間に合わせる時間配分……。完璧なデートコースだ。見習いたい」


 蛍は真面目な顔で言った。葉介も同調する。


「一花はいい彼氏になれるね」

「ええ……せめて彼女でお願いします」

「一花に男女交際は早い」

「蛍さんはすぐそういうこと言う」

「ふふっ。蛍、アレみたい。ええっと、そう、ガンコオヤジ。『娘はやらん!』って、バーンとちゃぶ台ひっくり返す人」

「そんなことは――」

「今日沖永君を警戒してた」

「うっ」

「そうなんですか? 沖永君は違うって何度も言ってるのに」


 図星を突かれ、たじろく蛍。一花は頬をふくらませる。


「千晃さんも冬陽さんもしつこく聞いてくるんですよね。どうしてうちの大人は、そういう発想ばっかりするんだろう」

「心配なんだよ。皆一花が可愛いからね」


 葉介はかばうように言う。蛍に悪気がないことは一花も分かっているので、とりあえず今はこれ以上触れないことにした。


「本当に楽しい一日だったな。ありがとう一花」

「俺も、すごく楽しかった。……でも、初めての場所の方が、君にとっては良かったんじゃないか?」


 女性はエスコートするもの。そう心から信じ切っている彼にとって、今日という一日はとても新鮮だった。次どこに行くか、何をするか分からないというのは、彼の人生であまり起きないことである。

 そんな蛍の戸惑いを察した一花は、海を眺めながら言った。


「江ノ島は、温かい雰囲気の商店街も、楽しい水族館も綺麗な展望台も好きなんですけど……ここから見る景色は特別で」

「何か思い出があるの?」

「小さいとき、母と来たことがあるんです。……何才の時だったのかも分からないけど、何となく覚えてる」


 輝く太陽。海原をゆく船。遠くに見える街。潮騒に耳を澄ませていると、強い風にさらわれそうになった。怯えてつかんだ、母の手……。


「ここは手すりがあるから、身長がないと景色がよく見えないんですよね。多分、母に抱きかかえてもらったんじゃないかな」


 記憶の中の母は、おぼろげだ。まるで時の流れにさらされた絵画のように、色は落ち、くすんでいく。

 溢れそうになる寂しさにふたをして。一花は2人に向き合い、笑みを浮かべる。


「私はこの鎌倉が好きです。特別な場所を特別な人に知ってもらえるのは、とても嬉しいことです」


 一花の言葉に、葉介と蛍は顔を見合わせる。


「特別な人、だって」

「録音しておけば良かった」

「千晃と冬陽に聞かせるんだね」

「一花、もう一回――」

「い、言いません!」


 この人たちなら本当にやりかねない。慌てる一花に、2人は優しく微笑んだ。


「またこういう日を作りたいね。鎌倉巡り。今度は千晃たちも一緒に」

「それはどうかな。情緒の欠片もない彼らに、美しい景色や歴史的建造物の価値が分かるとは思えない。……まぁ。一花が望むなら、同行を許してやってもいいけど」

「じゃあ決まりだね」


 思い出が、一枚の絵画だとして。

 人の記憶は曖昧だ。日を追うごとに薄らいでいくのは防ぎようがない。けれど、消えることはない。なぜならその絵画は、心の中にあるのだから。

 日々新しい色は生まれ、そしてキャンパスは無限に広がっていく。

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