葉介・蛍ルート
*本編時系列とは別物としてお読み下さい。
5月5日。こどもの日。
ゴールデンウィークも後半にさしかかったが、鎌倉を訪れる観光客が途絶えることはない。小町通りの一角にある弁当屋くまの屋も昼時は大変盛況だった。
「いやー今日はすごかったな。ゴールデンウィークなめてた」
「ほんとにね……こんなにお客さん多かったの初めて」
忙しい時間を乗り越え、バイトの
カランという鐘の音ともに、店の扉が開く。やってきたのは、
「葉介さん、蛍さん! どうしたんですか?」
「もうすぐバイト終わるかなと思って、迎えに来たんだ。あ、沖永君もいるんだね」
「はい! 葉介さん久々っスね!」
たまに一花の代わりにバイトに入る葉介とは、顔見知り以上の関係を築いている。年の差を感じさせない穏やかな彼に、幸太はよく懐いていた。
「これ、休憩の時にどうぞ」
蛍はすっと紙袋を差し出した。この辺りでも人気の洋菓子店のロゴが見える。
「ありがとうございます! 店長ー! ……あ、ダメだ。まだ死んでる」
「いいんだよ、店長さんによろしく」
美しく笑う彼に、幸太は思わず見惚れた。綺麗な顔立ち。モデルみたいにスタイルが良くて、その上さりげない気遣いまでできる。こんな完璧な人なら、きっと望むことは全て叶うのだろうと内心憧れた。
この中の誰かが橘一花の父親。……誰であっても大変だろう。密かに恋心を抱く幸太は悩まずにいられない。
「もしかして、これから遊びに行くの?」
「うん、そうなんだ」
「いいなぁ、オレも行きて~」
「沖永君も来る?」
「え!?」
彼女からの願ってもない誘い。身を乗り出しかけて、
「…………」
蛍の冷たい微笑に、幸太は
「い、いや、オレまだあがりの時間じゃないから」
「あ、そうだったね。じゃあ、また明日」
「おう、お疲れ」
3人を見送って、幸太はほっと息をつく。
美形の冷笑は怖い。迫力がありすぎる。誘いに乗ろうとしたのが、そんなに気に障ったのか。けれど今の反応。あれは親子というよりも――。
「いやいや、ねーだろ。うん」
想像、妄想。あるはずがない。と、自分に言って聞かせる。
でももし、そんなことにあったら。
……敵うはずない。この恋は、木っ端みじんに終わってしまう。
* * *
「今日のデートは、横浜だよ。中華街や赤レンガ倉庫に行ってショッピング。夜は美味しいもの食べて、夜景を見るんだよ」
ちょっと自慢げに葉介は言って、蛍がため息をつく。
「最初に全部言うんだね……」
「え、ダメだった?」
「葉介君らしいよ。手の内をさらけ出した上で、楽しい時間を作っていこう」
3人は鎌倉駅に向かった。鎌倉から横浜まで20分と少し。連休で大渋滞の高速道路を行くよりも、ずっと早い。切符を買おうとした時、電光掲示板の注意文に気付いた。
「線路内で事故、運転見合わせ。電車、動いてないみたいだね」
「……仕方ない、車で行こう」
「すごく混んでると思いますよ。鎌倉から出るだけでも一苦労かと」
駅には立ち往生する人々で溢れかえっている。対応に追われる駅員を見る限り、復旧はまだ先のようだ。
蛍と葉介は考え込む。時間は
「横浜は、また今度にしませんか? 来週の土日とか」
「それはいいけど……今日はどうしようか?」
「私に任せてください!」
一花は2人を駅の近くにあるレンタサイクル店(有料の自転車貸し出し)に連れていった。
「鎌倉って実は自転車で回るのがいいんです。道路は混んでるし、細い道が多いから」
「へぇ。今日は天気いいから、自転車日和かもね」
自転車を借り、3人は出発する。一花も葉介も楽しげだが、蛍は困惑気味だった。
「……自転車なんて何年ぶりだろう」
「蛍って自転車あんまり似合わないね」
「え!?」
「うーん……白馬の方がしっくりきそうな気がします」
「鎌倉の街を白馬で駆けたら捕まるよ……」
鎌倉駅の大通りを南に進む。舗装された綺麗な道をしばらく行くと、潮の匂いがしてきた。目の前に、美しい海が広がる。
「海! 泳ぎたいなぁ」
「海開きまであと2ヶ月くらいですね」
「じゃあ夏になったら一緒に泳ごうね、一花!」
「……あそこに見える島が江ノ島です」
「何で無視するの!?」
「どう考えても一花は海で泳ぐタイプじゃないよ、葉介君」
休憩を挟みながら、海沿いを走る。途中、有名な花寺にいくつか立ち寄り、花や歴史的建築物を楽しんだ。
そうして観光客と同じように有名なスポットを巡り。18時。夕日が沈みかけた頃、3人は大きな橋にたどり着いた。
「この橋を渡った先に、江ノ島があります。自転車、ここでも返せるので返しましょう」
「帰りはどうするの?」
「江ノ電があるので大丈夫です」
「夕食は――」
「江ノ島に食べるところいっぱいありますよ。オススメは生しらすの海鮮丼です」
「今日の一花は頼もしいね」
「……!」
一花はぷいっと顔を背け、照れを隠す。周りには大人ばかりなので、頼もしいなんて言われることはめったにない。思いがけないくらい、嬉しい言葉だった。
江ノ島は、山が切り離されて出来たような島だった。急な坂の両脇には、賑やかな商店が並ぶ。それを過ぎると、日本山大弁財天を奉る神社がある。
「なかなか体力使うね」
「楽しい!」
「………………」
「一花、大丈夫?」
ここに来るまで、「いつもリードされてばっかりだけど、今日は私が案内するんだ」という使命感に燃え、疲れは一切感じなかった。しかし、それはただ
「今日はここまでにしておこうか」
「ダメです……ゴールは、ここじゃない……」
よろめきながら一花は、上を指差した。
江ノ島の頂上まで行くには2ルートある。険しい石畳の階段を上るか。はたまた、長いトンネルのような屋外エスカレーターに乗るか。ゆっくりと景色を眺めながら行くのもいいが、体力が尽きかけた一花を案じて、今回は文明の力に頼ることにした。
高低差46メートルを登りきった頃には、美しい夕暮れが目の前にあった。鮮やかな炎が広大な海を赤く染め、やがて水平線のかなたへと沈んでいた。
細道を進んでいくと、開けた場所に出る。アメリカのとある地名を名付けられたその広場は、海、そして鎌倉の街が広がっていた。
闇の中、街のライトが浮かぶ。一つ一つは小さなものだが、無数の輝きは星空のようだった。3人は感嘆のため息をつく。
「綺麗だな」
「うん、ほんとに。江ノ島っていいね、俺ここ好きだな」
「そういえば、観光らしい観光をしたのはこれが初めてかもしれない。せっかく鎌倉に暮らしてるのにもったいなかったな」
心地よい潮風が、疲れた身体を癒やす。空には月が昇り、辺りを照らし始める。蛍は満たされた笑みを浮かべ、言った。
「由比ヶ浜、花寺、江ノ島。あんまり時間ないと思ったけど、いっぱい回れたね」
「混雑を避けながら観光スポットを回り、かつ夕焼けに間に合わせる時間配分……。完璧なデートコースだ。見習いたい」
蛍は真面目な顔で言った。葉介も同調する。
「一花はいい彼氏になれるね」
「ええ……せめて彼女でお願いします」
「一花に男女交際は早い」
「蛍さんはすぐそういうこと言う」
「ふふっ。蛍、アレみたい。ええっと、そう、ガンコオヤジ。『娘はやらん!』って、バーンとちゃぶ台ひっくり返す人」
「そんなことは――」
「今日沖永君を警戒してた」
「うっ」
「そうなんですか? 沖永君は違うって何度も言ってるのに」
図星を突かれ、たじろく蛍。一花は頬をふくらませる。
「千晃さんも冬陽さんもしつこく聞いてくるんですよね。どうしてうちの大人は、そういう発想ばっかりするんだろう」
「心配なんだよ。皆一花が可愛いからね」
葉介はかばうように言う。蛍に悪気がないことは一花も分かっているので、とりあえず今はこれ以上触れないことにした。
「本当に楽しい一日だったな。ありがとう一花」
「俺も、すごく楽しかった。……でも、初めての場所の方が、君にとっては良かったんじゃないか?」
女性はエスコートするもの。そう心から信じ切っている彼にとって、今日という一日はとても新鮮だった。次どこに行くか、何をするか分からないというのは、彼の人生であまり起きないことである。
そんな蛍の戸惑いを察した一花は、海を眺めながら言った。
「江ノ島は、温かい雰囲気の商店街も、楽しい水族館も綺麗な展望台も好きなんですけど……ここから見る景色は特別で」
「何か思い出があるの?」
「小さいとき、母と来たことがあるんです。……何才の時だったのかも分からないけど、何となく覚えてる」
輝く太陽。海原をゆく船。遠くに見える街。潮騒に耳を澄ませていると、強い風にさらわれそうになった。怯えてつかんだ、母の手……。
「ここは手すりがあるから、身長がないと景色がよく見えないんですよね。多分、母に抱きかかえてもらったんじゃないかな」
記憶の中の母は、おぼろげだ。まるで時の流れに
溢れそうになる寂しさに
「私はこの鎌倉が好きです。特別な場所を特別な人に知ってもらえるのは、とても嬉しいことです」
一花の言葉に、葉介と蛍は顔を見合わせる。
「特別な人、だって」
「録音しておけば良かった」
「千晃と冬陽に聞かせるんだね」
「一花、もう一回――」
「い、言いません!」
この人たちなら本当にやりかねない。慌てる一花に、2人は優しく微笑んだ。
「またこういう日を作りたいね。鎌倉巡り。今度は千晃たちも一緒に」
「それはどうかな。情緒の欠片もない彼らに、美しい景色や歴史的建造物の価値が分かるとは思えない。……まぁ。一花が望むなら、同行を許してやってもいいけど」
「じゃあ決まりだね」
思い出が、一枚の絵画だとして。
人の記憶は曖昧だ。日を追うごとに薄らいでいくのは防ぎようがない。けれど、消えることはない。なぜならその絵画は、心の中にあるのだから。
日々新しい色は生まれ、そしてキャンパスは無限に広がっていく。
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