悪い大人の後日談
「私、そろそろお風呂入ってきますね」
「はーい、いってらっしゃい」
「あ、そういえばロケ先で美味しいお菓子見つけて買ってきてたんだった。皆食べない?」
「食べる!」
「食う」
と、
「一花の分はあるのか?」
「それはもちろん。じゃあ持ってくるから、ケイ君お茶入れて」
テーブルに、地方の
同居が始まったころであれば、彼女のいない居間に用はないと、それぞれ自室に戻っただろう。望んで始まった共同生活ではないし、必要以上に
それが変わったのはつい最近のこと。もちろん一花と2人きりの時間が一番だが、4人でいるのもそこまで悪くない。そう、それぞれが思い始めていた。
甘味を頬張っていると、どこからともなく歌声が聞こえてくる。
「また一花、お風呂場で歌ってるね」
「今日は何の曲かなぁ」
よく耳を
「演歌だな」
「……くくっ」
蛍は口元に手を当て、笑いをこらえる。入浴中熱唱する一花は、彼の笑いのツボだった。
「一花はよっぽど歌が好きなんだね」
「うん、本当に可愛い」
蛍は深く
「可愛いって……爆笑してるくせによく言うぜ」
「爆笑じゃない。あまりの可愛さに笑みが出るだけだ」
「一花の歌が聞けるのは嬉しいな。いつもは歌ってってお願いしても逃げちゃうから」
「微笑ましいよねぇ。選曲に難ありだけど、そこもまたいい」
毎夜繰り広げられるリサイタルは、昭和の歌謡曲が中心だ。
「いいとは思うんだけど……あの子、友達とカラオケ行ったときとかどうしてるのかな? 昭和の歌謡曲ばっかり歌って、引かれてない? 変な目で見られてたらどうしよう」
千晃は深刻そうに言った。冗談でも何でもなく、本気で心配している。それに対して冬陽はそっけなく返す。
「大丈夫だろ。アイツ、カラオケ行くような
「それは何も大丈夫じゃないよ、ハル君」
「一花はちゃんと友達いるよ。休み時間、クラスメイトと仲よさそうにしてるところをよく見かける」
「それなら安心。ていうかケイ君って、一花ちゃんの学校に
千晃は
「いいよねぇ。俺も一花の学校の先生になりたいな」
「お前が何教えるっていうんだよ」
「
「猛獣を手なずける女子高生も魅力的ではあるけどね」
千晃は苦笑する。
その時だった。居間まで届いていた歌声が、ぷつんと途切れてしまった。
「もうお風呂から出たのかな。いつも1時間は入ってるのにね」
年頃の少女の長風呂に文句を言うのは、この家では冬陽だけ。皆そういうものだと思っているので、普段より早く歌声が止んだことを不思議に思う。
一花はすぐには姿を現さなかった。居間を出て一時間ほど経って、ようやく戻って来た。結局いつも通りの入浴時間だったことになる。
彼女は居間と廊下を繋ぐ戸から身体半分だけ出して、じっと4人を見つめる。濡れた髪をタオルでまとめ、可愛らしいパジャマ姿。けれどその表情は不安げだ。
「あの……声、聞こえてましたか?」
「おう、聞こえ――うぐっ」
「ええ? 何のことかな? 何も聞こえてないよ」
冬陽の口を
「今日は風が強いからねぇ。風の音ならよく聞こえてたよ」
「俺、テレビずっと見てた」
千晃と葉介が蛍の
すると一花は、ほっと
「そっか……あのくらいなら大丈夫なんだ」
「どうしたの?」
「えっ、いや、何でもないです! 髪
一花は居間を出ていった。軽い足音が遠のいて、蛍は冬陽に
「あんなこと言って、一花が歌わなくなったらどうするんだ」
「そうだよ。これが聞けるから居間にいるのに」
「冬陽。気にしないふりをするのが、大人の
「うっ」
この家で一番精神年齢の低い葉介に、大人の気遣いなんて言われたくない、と思ったが、3人の睨みにひるむ。
「聞こえてるのに聞こえてないって言うのは性格悪いだろ……」
「僕らが余計なこと言わなければいいんだって。彼女は心地よく入浴できるし、僕らは僕らで彼女の歌を楽しめる。誰も損しない」
「俺たちだけの秘密だね」
「一花を傷つけないためだ」
葉介は無邪気に言い、蛍はすました顔でお茶をすする。
千晃は、人の悪い笑みを浮かべる。
「性格悪くて当然。だって僕らは大人だからね」
【END】
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