009 雪の日のプロポーズ
……いよいよ家が近づいても、まだ気持ちが晴れず。
時間つぶしのつもりで、私は鶴岡八幡宮に立ち寄った。降り積もる雪と時間帯が遅いこともあって、人の姿はない。
しんしんと降る雪。さしている傘が、雨の日よりも重くなる。
このままぼんやりしていたら、朝は来ないかな。でもその前に凍ってしまうかも。そんなことを思っていると、足音が近づいてきた。
音の主は、あの黒ずくめの男の人だった。黒く澄んだ瞳が、じっとこちらを見つめている。
「今日バッグには辞書が3冊入ってます。今度は外しません」
「……
一花。当たり前のように、彼は私の名を口にした。
「あなたは誰ですか?」
「君の、思いたいように」
男の人はぽつぽつと言った。その物言いが、何だか子供みたいで毒気が抜かれる。
「……思いたいようにって、すごい言葉ですね。だったら私があなたのことを犬だと思えば、犬になるんですか?」
「ワン」
やっぱり変な人だ。
「こんな時間に1人は、よくないよ。早く帰った方が良い」
「神社で悪さをする人はいないでしょう」
「寒いから風邪を引く」
この雪の中、傘もささずに立っている人に言われたくない。でも寒さなんて少しも感じてないのか、彼は無表情だった。
「あなたに言われなくても、ちゃんと帰ります。放っておいて下さい」
「家に帰りたくないの?」
言い当てられてしまった。エスパー? とも思ったけど女子高生が1人でいれば、誰だって想像がつくかもしれない。
「悲しいときは、泣いた方が良いよ」
「え?」
「ずっと泣きたそうに見える」
「……おかしなこと、言わないで下さい。私は、何も悲しくない」
「……でも独りは悲しい」
悲しい。寂しいではなく。
「あなたは、どこまで私のことを知ってるんですか?」
「……少しだけ。一花が、あの家に独りということは知ってる」
「どうして? 誰かに聞いたんですか?」
「…………」
この人は、肝心なことになると黙り込む。あからさまに怪しすぎて、何だか疲れてきた。人を疑ったり、警戒したりするのは、意外と気力がいる。
「……もういいですけど。私は本当に平気ですよ。独りなのは2年も前からですから、慣れました。自分だけだから自由に家を使えるし、インスタントのお味噌汁だって美味しい」
「…………」
「そりゃあ、悲しくないとか寂しくないって言ったら嘘になるけど。でも、死ぬほどじゃない」
一度はき出すと、どんどん気持ちが溢れてくる。止まらなくなる。
「だいたい、私は無闇に泣くのはどうかと思います。だって泣いたらすっきりするでしょう? 悲しさや寂しさ、涙で薄らいでしまう」
泣いてすっきりするなんて、酷い。その方が悲しい。寂しい。
「俺はね、悲しいって気持ち、形にするとバラのトゲみたいなものがあると思うんだ」
「……はい」
「そのまま放っておいたら、痛いばっかりだよ」
私もそう思う。どこかにしまいたくても、不用意に触れたら怪我をしてしまう。このやっかいな感情には、きっとトゲが生えて、心に抱えているだけで、傷が深まる。
「だからって捨てる気はありません。泣いて終わりにするのも嫌。……そんなの、薄情じゃないですか」
どうしてこんな見ず知らずの人と、話しているのだろう。誰にも打ち明けられなかった気持ちを、なぜ。早く元の自分に戻らなければ。私は彼に背を向けた。
「……もういいから放っておいて下さい。私は――」
――ザザッ。
何か重いものが、こすれる音。頭上から雪が落ちてきた。それも大きなかたまりの雪だ。
気がついた時にはもう遅かった。私は目をつむり、冷たい衝撃に耐えようとした。けれど私を包み込んだのは雪ではなく、人のぬくもりだった。
「あっ!」
黒ずくめの男の人は、雪にまみれて真っ白になっていた。落下する雪から、私を抱きしめて守ってくれたのだ。
「一花、平気?」
「私は何も、それよりあなたの方が」
頭にも肩にも大量の雪が積もっている。
「寒いですよね。どうしよう、早く暖まらないと」
「俺は別に……くしゅん」
「ほら、くしゃみ! 家は近いんですか?」
「えっと、歩いて2時間くらいかな」
「2時間もかかるなら、バスなり電車なり、交通機関を使って下さい……」
普通ここまで雪まみれになったら、雪をはらったり、拭ったりするはずだ。それなのに、彼は棒立ちのまま動かなかった。
「やっぱり危ないから、帰った方がいいよ」
しかも自分のことよりも、私のことばかり気にしている。
彼があまりにも動かなさすぎるので、仕方なく私は彼の代わりに雪をはらった。
「…………」
彼は私にされるがまま。
私をつけ回し、名前とバイト先、学校まで知っている怪しい人物。そんな人の頭を拭いているという、この奇妙な状況。
「薄らいだり、しないと思うよ」
彼はぽつりと呟いた。
「何がですか?」
「あの人が死んだのは、もう何年も前だけど。俺は今でも悲しいよ。生きててくれたらって、ずっと思ってる。悲しいとか、寂しいとか、そういう気持ちは、消えない」
そこまで言われて、彼が私の言葉を受けて答えているのだと、気づく。
ぽつぽつ、静かな雨のような声。でもはっきりと私の心には、しっかり伝わってきた。そして彼は、その声と似た、透明な涙を流した。
「…………」
私は初めて知った。大人の男の人も泣くのだということを。私よりも長く生きてきただろうこの人が、とても無垢な存在に見えた。
「泣いたからって終わりには、ならないよ。でも、……それでも、涙は我慢しない方が良い。だって悲しいときに涙を流すのは、ごく自然なことだから」
彼は独り言みたいに話す。でも彼の目には、ちゃんと私が映っていた。
「……嫌です。私は泣きません」
「どうして?」
言いたくない。のに、言葉が溢れてくる。
まるで、何かの代わりみたいに。
「泣いたら、私駄目になる。涙、止まらなくなる。立っていられなくなる。……私は独りなのに。独りで生きていかなきゃいけないのに」
「一花は独りじゃないよ」
また名前を呼ばれる。たったそれだけのことなのに、心まで温かくなっていく。凍てついた氷は溶け、溶けて流れる水は、涙となって溢れる。
「悲しいね。寂しいね。もっと生きててほしかったね」
「……うん」
生きててほしかったし、帰ってきてほしかった。一緒に『
出てこない言葉の代わりに、涙が落ちる。たくさん泣いて、泣いて、……泣いて。
ようやく、涙は止まった。
薄らぐと思っていた悲しさは変わらず私の中にあった。泣いても泣かなくても在り続けるなら、やっぱり泣くべきじゃないと思った。
ただ、トゲだらけだったそれは、ほんの少し丸くなった気がする。まるで川の流れが石を削るように、涙がトゲを溶かしたのかもしれない。
「……髪、まだ濡れてるから」
私は再び手を動かす。彼の額に傷があることを思い出し、できるだけ丁寧に、優しく触れた。
ここ最近、大人の男の人と会う機会が増えた。
皆、私よりずっと年上。私の知らないことを知っていて、余裕があって、強い人に見えた。でも、目の前にいる男の人は、やっぱり年下みたいで。
「今日のことは、ちゃんと記憶から抹消して下さいよ。誰かに言ったら一生恨みます」
「分かった」
彼は神妙に頷いた。本当に従順な人だ。誰に対してもそうなのかな。だとしたら、別の意味で心配になってくる。
「くしゅんっ」
男の人とは思えない、可愛いくしゃみ。何というか、この人を警戒するのは無理な気がしてきた。
「このままだと風邪を引いてしまいますね……どうしよう……」
「帰るから、平気」
「ちゃんと交通機関を使いますか?」
「……近いから歩く」
「歩いて2時間が近いって、あなたはどんな時間空間で生きてるんですか」
雪のせいで、どこを見回しても人はいない。この様子では、店も開いていないだろう。少し迷ってから、私は携帯を取り出した。
『……もしもし。一花さん、どうしました?』
「色々と事情があって、今から人を家に上げます」
『……? それは、どうぞ。というか、わざわざ私に報告する必要はありませんよ。パジャマにはさほど興味はないので。……いや、しかし、パジャマは快適に睡眠するための衣。制服と分類できないことは――』
「うちに上げるのは、知らない男の人です」
『は?』
助けてくれた人だけど、さすがに誰にも何も言わず家に入れるのは良くない。だからこういうときは、私の未成年後見人であるロク先生に連絡するのが一番だ。
「最近私をつけ回していた怪しい人ですが、でも悪い人ではないと思います」
『いやいやちょっと待って下さい。駄目です危険です許可出来ません』
「たった今、許可はいらないと先生が言いました」
『
私がロク先生と話していると、彼はとぼとぼと、どこかに歩き始めた。折り返すからと一旦電話を切って、彼を追いかけた。
「待って下さい! 今うちに上がれるようにしますから」
「大丈夫。俺のことは気にしないで」
「そういうわけにはいきません」
私が強く言うと、彼はようやく足を止めた。
「……やっぱり君はあの人の子だ。よく似てるよ」
「あの人? 誰のことですか?」
私に似ている人。それって……、
「もしかしてあなたは、私の母を知ってるんですか?」
「…………」
「だから、私に関わるんですか? 母のことが何か関係してる?」
「……そうじゃない。俺が君のところに来たのは――」
ずっと黙秘を続けていた彼は、全ての問いの答えとなる言葉を言った。
「俺が君の父親だから」
「……はい?」
「お父さん。俺は、君の」
「………………………………………………」
この人は、何を言ってるんだろう?
父。父親。
こんな若い人が? ストーカーみたいなことしてた人が? 自分で雪を払わないで、私のなすがままになっていたこの人が?
私の父親?
「……こういうときにそんな冗談言われても、少しも面白くありませんよ」
「え、本当?」
「はい」
彼は肩を落とした。
「そっか……冗談に聞こえるのか」
違う、そこじゃないと思ったけど、それすら冗談なのかもしれない。私はあえてつっこまなかった。
「明後日、
「どうして知ってるんですか? って質問も今更ですね。もういいですけど」
この人はこういう人なんだ。諦めかけたその時、無垢な瞳に強い光が宿ったことに気づいた。
「お祖父さんの前でもう一度言うよ。……そして誓う。君のことは、俺が守るって」
それはまるで、プロポーズみたいな嘘。
冗談の続きですか? 守るなんて、そんなこと言われても信じられません。そう笑って返そうと思ったのに、声にならなかった。もう止まったはずの涙が、こぼれそうになる。
嘘だと疑う心と、信じたいという願いが重なる。
ずっと求めていたものを、手に入れたみたいに。
迷い続けた末、目的の地に辿り着けたみたいに。
……彼の言葉に、心が満たされていく。
「あなたの名前を、教えてください」
この人のことが、知りたくなった。疑いでも何でもなく、純粋に。
「……ようすけ」
「え?」
「
今度ははぐらかすことなく、彼は静かに答えた。
……そして、音もなく立ち去った。
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