008 再会
四十九日のあと、一般の方も招いて『
『偲ぶ会』まで、あと2日。それまでに説得する方法を見つけないと。
放課後。学校の3階廊下。
この時間、この場所には誰もいなくて、考え事をするにはぴったりの場所だった。窓を背にして、春に提出した進路希望のプリントを眺める。すでに受領のサインはあるけれど、先生に事情を話して返してもらった。
希望は第1から第3まで。全部音大の名を書いている。子供の頃から歌が好きで、音大進学は早くからの希望だった。そのことをお祖父ちゃんも知ってくれていたので、生活費だけでなく学費も遺してくれている。すごい大金だ。
「……もし大学に行かなかったら、そのお金で家を修繕することが出来る」
私はぽつりと呟いた。声にすると、『もし』という仮定は現実味を帯びてくる。
全身の力が抜けた。すると未来を書いたプリントが、私の手から離れ、風に乗って飛んでいった。
「あ……!」
窓から強い風が吹き込む。今日は大雪で、廊下の窓はほとんど締め切っているのに、なぜか一つだけ開いていた。凍えるような冷たい風に乗って、プリントはくるりと一回転した。そして、吸い込まれるように窓に向かっていく。
雪とともに、プリントが舞う。
〈あのプリントを手放したら、もう夢は叶わない〉
不吉な考えが頭をよぎった。
ただのプリント一枚で、将来が決まるわけないでしょ。笑おうとしたけど、うまく笑えなかった。
本当の本当に、そうなってしまう気がしてきた。まるで呪いみたいに。……このままどこかに行ってしまってもいいかもしれない。そうすれば、進路への諦めもつくかも。そう思いかけた時、
――ダメ
と、心の中で誰かが叫んだ。
私はようやく走り出した。廊下の床をバタバタと鳴らして、薄い上履き、足の裏が痛くなる。精一杯手を伸ばす。けれど、プリントは指をかすめるだけで、先を行ってしまう。震えるくらい、指先まで力を入れても。
ダメだ――届かない。
あと数センチだったのに。あと数秒、追いかけるのが早ければ。
前に進む力が後悔に変わろうとした時、ぐっと後ろから、手が伸びた。
「――っ!」
しなやかな、私よりずっと長い腕。
未来を記すプリントは、彼の手におさまった。
「良かった。間に合って」
吹き込む雪の中、彼は微笑んだ。
清潔感のある水色のワイシャツに、濃いめのカーディガン。透き通るような白い肌と長い
清流がそのまま人になったような、とても綺麗な人――
「あ……!」
見間違えようがない、リンゴのアメをくれたお客さんだ。
「あの、どうしてあなたがここに……」
「特別講師。放課後、大学を受験する3年生に英語を教えてるんだ」
まだ1年である私とは、縁の無い人だった。どうりでこんなに綺麗な人を知らないわけだと、心の中で納得した。
「アメ、ありがとうございました。美味しかったです」
「良かった。あれ、お気に入りなんだ。俺は
「私は、1年の――」
「
「え?」
関わりがないのに、どうして私の名前を知っているのだろう。その答えを示すように、先生はひらひらとプリントをかかげた。
「これ、進路希望のプリントだね。駄目だよ。こんな大事なものを手放しちゃ」
水留先生は優しく微笑んだ。
「音大希望なんだね。俺も昔、目指してたんだ。ピアノで」
「そうなんですか?」
意外な共通点が見つかり、思わず声が弾んだ。
「君、楽器は?」
「私は声楽です」
「そうなんだ。いいよね、歌。頑張ってね。俺は事情があって諦めちゃったんだんだけど、相談に乗れることがあったら言って」
音大を目指していたこと以外にも共通点があった。
そのことに、強く心が引き寄せられる。
「……希望の進路を諦めるって、辛くなかったですか?」
「え?」
「あ……っ、ごめんなさい。変なこと聞いて。忘れて下さい」
「……辛かったよ。自分の力ではどうしようもないことだっただけに、余計」
月が雲に隠れるように、綺麗な顔に影が差す。
「もうあれから10年以上経ったけど、忘れられない」
「…………」
「君も何か悩んでるの?」
異性で、年上で、どこまでも違う人なのに、不思議な安心感が漂っている。
「講師の俺で良かったら、話聞かせて?」
誰にも頼らない、自分のことは自分で決める。
……そう思っていたはずなのに、決意が揺らがされる。この人に全部話してしまいたい。家のことも、進路のことも全部。そんなことが出来たら、どんなに楽だろう。
私はきゅっと唇を結んだ。
「いえ、大丈夫です。何ともありません。……プリント拾って頂いて、ありがとうございました」
私は無理矢理話を終わらせると、先生の手からプリントを受け取ろうとした。けれど、私の手が届くより先に、先生は頭上までプリントを上げた。
「もしかしてこれ、捨てる気だった?」
「……!」
「図星って顔だね。……それじゃあこれは、返すわけにはいかないな」
「え!?」
均整のとれた笑みが、いじわるを楽しむ子供のような笑みに変わる。
「待って下さい、困ります」
「俺が持っていた方がいいんじゃないかな。少なくとも、君より大事にする」
困らされているのに、不思議と嫌な気持ちにはならなかった。完璧な王子様然とした人が人懐っこく笑うからかもしれない。
とはいえ、やっぱりプリントがないのはまずい。担任の先生に渡されてしまったら、進路の訂正が出来ない。
「預かるだけだ。大丈夫。今度会ったときに返すから」
「今度って……学校で? でも私、今日みたいに放課後まで残ることはほとんどありません」
私の問いに、水留先生は微笑むだけで答えなかった。
「遅くならないうちに帰るんだよ」
そう言うと、水留先生は踵を返し去って行った。
私は追いかけなかった。追ったところで返してくれるとは思わなかったから。大人しく、今度を待つしかない。今日はバイトも休み。学校での用事は済ませたので、もう家に帰るだけ。
だけど。
どうしても帰る気にはなれなかった。
家を守るためには、進路を諦めるしかない。その結論に向き合うのが苦しくて、私はいつもよりゆっくり、帰り道を歩いた。
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