003 王子様みたいな
その途中、ロク先生の言葉を思い出す。
『1人でも平気だと思っていることが、不安要素』
どういう意味だろう?
1人でも平気。そう思うことの、何が良くないんだろう?
誰かがいなくちゃ生きていけないなんて、そんな弱い人間でいる方がよくないと思う。
特に、今置かれている状況を考えれば。
橘家は病院をいくつも経営していて、祖父はその院長だった。祖母はとても優しい人で、祖父や子供たちを支え続けた。
そんな祖父母の娘である私の母は、女優。それなりに人気があったらしいけれど、私を妊娠してすぐに芸能界を引退した。
3人に共通するのは、すでにこの世を去っているということ。母は6歳の時に、祖母は12歳の時に亡くなった。そして先月逝ってしまった祖父は、私の学費と生活費、そしてあの家を遺してくれた。
1人になった私がすべきこと。それは、思い出のつまったあの家を守ることだ。診療所にも観光地にもするわけにはいかない。あの家だけが、今の私の支えだから。
ちゃんと修繕して、安全に住めると証明できれば、誰にも文句は言われないはず。
そのためにはお金を貯めないと――、
「君、大丈夫?」
「……!」
ぐるぐるとした悩みの渦は、男の人の声で消え去った。
まずい、今はもうバイト中だ。
「申し訳ありません。ご注文は何でしょうか」
「野菜炒め弁当を一つ」
「はい。少々お待ち下さい」
私は調理担当の店長に注文を伝えた。
鎌倉駅から鶴岡八幡宮をつなぐ、約360メートル。たくさんの店が建ち並ぶ
弁当や惣菜を買っていくのは地元の人ばかり。でも、休憩スペースと、食べ歩き出来るメニューも置いているおかげで、観光客もたくさん来てくれる。一日の中で、客足が途絶えることは少ない。
「ただいまご準備していますので、少々お待ち下さい」
「うん。……それより、元気がないね。疲れてるんじゃない?」
お客さんにそこまで言わせるなんて、一体どのくらいぼんやりしていたんだろう。私は慌てて「すみません」と頭を下げた。
「謝るほどのことじゃないよ。ちょっと心配になっただけだから」
ただのバイトをそこまで気にかけてくれるなんて、優しい人だ。お礼を言おうと、ぱっと顔を上げたとき、柔らかな微笑みがそこにあった。
男性。だけど、あまりの綺麗さに目を奪われる。肌は白く、鼻筋はラインを引いたように真っ直ぐ通っている。長いまつげに
「橘さん、お弁当上がったよ」
店長の声で我に返った。私はそそくさとお弁当を袋に入れる。
「お待たせしました」
「ありがとう。ええっと野菜炒め弁当は、600円か。……はい、どうぞ」
ちょうど600円受け取る。でも手の中には、小銭以外の感触があった。
その正体は、リンゴのアメだった。
「あんまり無理をしてはいけないよ」
彼は弁当を受け取り、店内を後にした。それと同時に背後から、コツンと誰かに
「橘さん、あのお客さんに声かけられてたね。うらやまし~!」
振り返ると、
「あの人、最近よく来るよね。家が近いのかな? それとも職場?」
「どうなんでしょう? 今日は日曜ですけど」
ガラス越しに外を見ると、まだそのお客さんの姿はあった。
ブラウンのロングコート。首元には品の良いチェックのマフラーが巻かれている。うちのロゴの入ったビニール袋を下げているのに、すごくおしゃれに見えた。
見た瞬間、王子様、というたとえが浮かんだ。もっと正確に言うなら、童話の中の王子様が、正しく年を重ねたような、そんな表現がぴったりくる人だった。
だから、大勢の人の中でも埋もれないのだろう。
「若く見えたけど、あの落ち着きっぷりは三十代だよね。イケメンっていうより綺麗系かな。あ、でも、私は同じ三十代なら、色気たっぷりの
由良千晃という名は聞き覚えがある。今朝もテレビで流れていたはず。
「鶴岡八幡宮で撮影中らしいけど、警備が固くて近づくことも出来ないんだって。はぁ……ほんと残念」
「おーい、2人とも。ちょっといいかな」
奥から、のっそりと大柄の男の人が現れた。天井につきそうなくらい背は高く、スポーツ選手のようにがっしりとした体つき。『くまの屋』の主である、
「今日の夜入ってくれる予定の子が風邪ひいちゃったんだって。それでどっちか1人延長出来たらありがたいんだけど……」
「えー! 私無理です! 夜は約束が」
若園先輩は首を振った。店長は「だよね……」と落胆する。店内の雰囲気が一気に暗くなった。
「あの、私で良ければ入れます」
「え?」
「本当? 助かるよ! まかない奮発するから」
そう言うと、店長は嬉しそうにキッチンへと戻って行った。
「橘さん。ごめんね。私が無理って即答しちゃったせいで」
「大丈夫です。気にしないでください」
「この借りは今度返すから。あ、そうだ。帰り、遅くならないようにね。この辺、最近不審者出るみたいだから」
不審者。ロク先生じゃないよね……。
「背は高くて黒ずくめで、何をするわけでもないんだけど、ずっとこの辺りをウロウロしてるんだって。気をつけてね」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます