002 制服マニアと女子高生

 約束の時間通り、私は鹿路木ろくろぎ法律事務所に着いた。

 事務所自体も休みのようで、先生以外は誰もいなかった。


「ご足労頂きありがとうございます。外は寒かったでしょう」


 眼鏡の奥で、涼しげな目が光る。背は高く、すっと通った鼻筋。表情は乏しいけれど、それがいっそう顔立ちの良さを引き立たせた。

 鹿路木真澄ますみ先生。難関大学を首席で卒業。司法試験にも一発合格。弁護士だった祖父の跡を継ぎ、若くして鹿路木法律事務所の所長になる。

 まさに優秀を絵に描いたような人。現在三十歳。独身。

 でも制服マニア。それも重度の。


「一花さん、今私が病的かつ重度の制服マニアであることについて考えていますね?」

「いえ、別に」


 間髪入れず否定したけど、ロク先生は構わず話し始める。

 

「確かに私は制服をこよなく愛していますが、法は遵守します。ギリギリのラインを攻めている自覚はありますが、超えていません。そもそも私は制服を愛しているのであって、中身に興味はありませんので。……いえ、全くないというと偽証になりますが。しかし私の異常性は、制服という一点に限られています。

 いくら一花さんが星凛せいりん女学院高等学校の可憐な制服を着ていたからといって、紳士の振る舞いを崩すことはありません。ですからどうぞ休みの日だけでなく、放課後も事務所にお立ち寄り下さい」

「嫌です」


 ロク先生の対処法。

 何も言われても無関心、無反応。制服を着ている時は近づかない。

 悪い人じゃないんだけど……制服のことになると目が変わって、語り出すと長いところは、だいぶ困る。


「用件に入って下さい。バイトに遅れるので」

「かしこまりました」


 書類に目を通し、ロク先生の説明を受け、サインをする。簡単な作業だけど、量が多すぎて一時間経っても終わらなかった。


「まだ猶予はありますから、残りの書類は今度にしましょう。次は……ご自宅の件です」


 それまで事務的に進めていたロク先生の声色が変わった。


「やはり、ご親戚の方々の意志は固いようです。まだ未成年である一花さんが、1人で住み続けるのは反対だと。とても古い家で、ところどころガタがきている。皆さん、貴女のことが心配だと仰っています」

 

 ロク先生は、私を気遣うように言葉を選びながら話す。


「もちろんあの家を相続したのは一花さんです。決定権は貴女にあります。しかしながら、ご親戚の言うことも筋が通っていないわけじゃない。築110年の家は金がかかる。税金に修繕費に維持費。特に修繕費は大きな額になると思います」

「…………」

「貴女のお祖父様は、貴女の音大への進学費や生活費は十分遺して下さいました。しかし家のことは考慮されていない。お祖父様も、自分の死後はあの家を手放すべきとおっしゃっていましたから」

「違います」


 私は遮るように強い口調で言った。


「祖父は、あの家を好きにして良いと言ったんです。売れなんて、言ってない」

「……そうですね」


 先生は一旦言葉を切った。

 私の意志を尊重したい、でも出来ない。そんな気持ちが、先生の表情から見え隠れする。


「しかし、ご親戚の皆さんを説得するのは難しいですよ。一花さん、貴女のことが心配だからというだけでない。あの家を取り壊して、新たに病院を作りたがっています」

「どうしてですか? 橘の名がつく病院なら、もういくつもあるじゃないですか」

「正確に言うと、病院ではなく診療所を作りたいとのことです。あの辺りは住宅地ですから、地元の方にも喜ばれるだろうと」

「…………」

「それに加えてここ数年、橘病院の経営状況は微妙なようですからね。診療所建設は、戦略の一つなのでしょう」


 むしろ、そっちが目的だと思う。

 私が心配というのは建前。診療所建設こそが、親族の総意。


「……あの家を壊すなんて、私には考えられません」

「一花さんの気持ちは分かります。橘家の方々の手前、表だって口にすることは出来ませんが、うちの父や祖父も残してほしいと思っているようですよ。あの家を設計した建築家・安斉竜玄あんざいりゅうげんの熱心な信奉者ですから。一花さんに売却の意志があるなら、父たちに託すことも出来ます」


 売却。

 大人の手に全てをゆだねてしまえば、きっとあの家を残すことは出来ると思う。

 でも、私は……。


「私は、売りたくないです。私にとってあの家は、病院のためのものでも、有名な建築家の作品でもない。……ただの家です」


 ただの、唯一の、他には代えられない大事な場所。


「しかし、あんな広い家に1人というのは、寂しいでしょう?」

「祖父が入院したのは2年前です。その間もずっと1人でしたし、もう寂しいとかないです。未成年だからって伯母さんたちは言うけど、それも今更です」

「…………」

「あの家は私が守ります。誰にも迷惑はかけません。今度、ちゃんと伯母さんたちに話しますから」


 私は先生の心配を断ち切るため、声を強めて言った。

 けれど先生はますます顔を曇らせる。


「貴女のそういうところが気がかりなんです。16という年の割にしっかりしてるし、お祖父様のお世話もほとんど貴女1人でやっていた」

「1人じゃないです。看護婦さんたちもいてくれましたから」

「毎日のように病院に通い、最期を看取ったのは貴女だけでしょう。身近な人の死は、とても辛いことです。……特に貴女の場合は、祖父の前に祖母、そして実母も亡くしている」

「私が1人だから心配ということですか?」

「違います。自分は1人でも平気だと思っていることが、不安要素なのです」

「え……?」

「何はともあれ、修繕は必要ですよ。どんなに堅実な造りをしていても、家は痛むものですから」


 ロク先生は私にメモを差し出した。『真堂冬陽』と書かれてある。


「最近知り合った建築家です。デザインが本業だそうですが、大抵のことは出来ると仰っていました。修繕費用の見積もりをとってもらいましょう。来週日曜日の午後。よろしいですか?」

「はい、ありがとうございます。……それじゃあ、私はそろそろ」

「一花さん」


 立ち上がって去ろうとする私を、先生は呼び止めた。


「ちゃんと泣けましたか? 私の気のせいでなければ、貴女は葬式でも一度も泣いていないようだったので」

「……泣きましたよ。もちろん。祖父は私にとって、最後の家族でしたから」


 ロク先生はこの日初めて、少し安心したように表情を緩ませる。


「そんな大切な方が亡くなって、まだ一ヶ月。あまりご無理なさらないように」

「はい」


 私は、人より嘘つきだと思う。

 むやみに誰かを騙すことはないけど、必要だと思えば顔色一つ変えずに偽りを口に出来る。……人に心配されたり、同情されそうになれば、いつだって。

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