Home, Honey Home -Pieces Collection-

潮文音

第1章 その真実は蜜のように甘く

001 始まりと終わりの場所

 ちゃんと、ここに帰ってこれるんだ。

 

 事故で命を落とした母を見て、病気で亡くなった祖父母の最期を目の当たりにして、私が思ったこと。

 天国も地獄もあんまりピンとこないけれど、どこで死んでも、どんな死に方をしても、ここに――この家に帰ってくる。

 私も同じ。この家で生きて、この家で死ぬんだと、幼い頭でもぼんやりと理解できた。将来のこと。何になりたいとか、何がほしいとか、そういうはっきりとしたものは未だ一つもないけれど。

 死に場所だけは決まってる。そのことを私は、幸福に思っている。



 鎌倉駅から商店街を抜け、鶴岡八幡宮の横を通り過ぎる。それから心臓に悪い急な坂を登ると、そこに我が家がある。

 まるで古い物語の舞台になりそうな洋館だけど、和室もある。洋風と和風のいいとこ取り、和洋折衷のお屋敷だ。その昔、著名な建築家が設計したそうで、「観光スポットにしませんか?」という申し出は後を絶たなかった。


 確かに、見た目は立派。

 でも実際は、どこもかしこも古い、化石みたいな家だ。

 

 木造なので火事になったら一発アウト。大雨の日はたまに雨漏りする。木々に囲まれているから夏でも涼しいけれど、今みたいな冬は、すきま風で凍えそうになる。

 そんな家なので、2月の朝は起きるのが億劫で。肌を刺すような冬の空気が、家の中を支配している。

 私はめいっぱい着込んで、1階の居間へと下りていった。

 

 今朝のご飯は白飯と鮭。それからインスタントのお味噌汁。食べ物をお腹にいれると、次第に身体が温まっていく。

 

 ――リリリリリリッ


 この家同様古い黒電話が、鳴り響いた。


「はい。たちばなです」

『もしもし、鹿路木ろくろぎです。おはようございます』


 電話の相手は鹿路木真澄ますみ先生。

 この場合の先生は教師でも医師でもなく、弁護士だ。


『念のため確認しておこうと思いまして。相続に関する手続きですが、今日の十時からで問題ありませんか?』

「はい。もう少しして出るつもりです」

『何も休みの日に来てもらうことはないんですけどね。遊びたい盛りなのに。学校終わりに寄ってもらえればいいんですよ?』

「大丈夫です。そのままバイトに行くつもりなので」

『ああ、弁当屋さんの。本当に始めたんですね。ちなみに……何を着て働いているんですか?』


 何が「ちなみに」なのか謎だけど、とりあえず聞かれたことには答える。


「……エプロンですけど」

『エプロン、なるほど。エプロンですか……』


 先生の声が沈む。

 まるで意中の人にフラれたかのように、落胆が電話越しにも伝わってきた。


『今からとても大事な話をしますから、よく聞いて下さい。……橘一花いちかさん』


 先生は改まって私の名を呼んだ。


『エプロンに文句はありませんが、母国で考案されたものには思い入れが強くなります。一花さん、ご存じですか? 割烹着かっぽうぎは1800年代の激動の時代に考案され、幅広い女性に愛用されてきました。貧富、身分の差はあれど、割烹着を身にまとえば皆平等。国防婦人会のユニフォームになったのです。もちろんエプロンにはエプロンの素晴らしさがあります。多様性に優れ、台所に花を添える。

 しかし、それを踏まえた上でも、割烹着を私は支援します。清潔な白。華美さはなくとも純度の高い美しさがそこにある。どうでしょう。バイト先の弁当屋さんで割烹着を取り入れてみるのは? もちろん選定には私が――』

「失礼します」


 私は受話器を置き、居間に戻った。

 そして、今日の天気を確認するために、テレビの電源を入れた。

 

<最新エンタメ情報>

<イケメン人気俳優・由良千晃ゆらちあきの素顔>

<ヨーロッパで話題のサーカス、遂に来日>


 次々と話題は移り変わり、ようやくお目当ての情報が画面の上に流れてきた。

 横浜、晴れ。湘南、晴れ。鎌倉は……。


『昨今身近になりつつあるDNA鑑定について、その信憑性に疑いの声が上がっています。手抜きや詐欺被害が多発、多くの利用者に被害が及んでいます。これに対し政府は国民に注意を呼びかけ――』


 本日の鎌倉は晴れ。気温は低いけれど、雪は降らないらしい。ありがたい情報を手に入れて、私は支度を始めた。


 家を出ようとしたとき、ふと祖父の教えが頭をよぎる。


 おはようございます。いってきます。

 こんにちは、こんばんは……

 挨拶はきちんとしなさい。家でも外でも。


 おじいちゃんの言うことは、いつも正しいよ。

 でも、この家でそういう言葉を口にすることは、もうないんじゃないかな。


 誰もいない家に「いってきます」なんて、虚しいとしか思えないから。

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