背中合わせのブルー
朝之小鳩
背中合わせのブルー
色褪せた木のドアを開けるとカランコロンと軽いベルの音が響いた。
ランチの一覧が書かれた手書きのメニューには女性受けしそうな有機野菜のワンプレート料理などもあるが、聡美のオーダーは初めて来たときから変わらず決まってグラタンだ。
グツグツと音がするほど熱せられたホワイトソースの上に、所々焦げ目がついたきつね色のチーズがとろけて香ばしい匂いが漂う。
スプーンの先でちょんとつつくとチーズの蓋がパリンと割れてとろりとしたソースと絡まる。
ふうふうしながら程よい噛みごたえをのこしたマカロニを口に入れる。
舌には熱が絡まり少し甘みを感じるホワイトソースの優しい味が口一杯に広がった。
「う~ん♪」 あ、もしかしたら今リアルに声が漏れたか? まぁいいか。
聡美は気にしない。
聡美の世界には今は自分と目の前のグラタンしか存在しないのだから。
あまりの美味しさに全身の細胞が喜んでいると思うのは盛り上がりすぎか。
でも聡美はここのグラタンを食べるとお腹だけでなく指先まで温かくなるような気がする。
まさに今「めちゃくちゃ幸せ」なのだ。
グラタンを食べ終わってから聡美は手帳を出した。
次の「充電」はいつにしようか。
来週には展示会の準備は始めたいところなのでその前の水曜の欄にブルーの丸をつけた。
書道家である母親の影響で同じ道を目指している聡美は地元の子供達相手に書道教室を開いたり、カルチャーセンターで大人向けの書道教室を担当する傍ら、不定期で展示会を開いて自分の書を展示販売もしている。
高校時代から月に2回、書の師範のもとに通い芸術性の高い書を創作するための勉強も続けている。
どんな世界でも上を見上げればきりはなく、より高みを目指すという姿勢は喜びよりも至らない自分を再確認していく地味な作業だと聡美は思う。
それはどちらかというとエネルギーが消耗していく感覚だ。
だから毎回の学びの時間の後にはこの小さなレストランNonnoのグラタンを食べて胃袋と気持ちを両方満たすのがお決まりかつお気に入りのパターンとなっている。
聡美にとって表現を続けていくために欠かせないことがもうひとつ。
それは癒しとリラックス、創造力の充電を求めて時々水族館に通うこと。
平日の静かなほの暗い水族館で濃いブルーに包まれていると色んなものがほどけてリセットされていく。 思考や感情が水に溶けていって、しがらみから解放され自由であることが肯定される感覚が堪らなく心地よい。
そんな風に水族館に通い始めてから数か月。
自分と同じように一人ぼんやりと水槽を見つめている背の高い男性がいることに気づいた。
初めて気づいたとき男性の着ている白いシャツに水の揺らめきが反射して 「とてもきれい」 だと思ったのだ。
水槽から水槽へ。
まるで自分も魚のごとく自由に移っていく。
その日、白いシャツとは何度かすれ違ったが、相手もずっと一人でゆっくりと水槽を眺めていた。
一人で水族館に行く自分は相当変わり者の自覚があったが、まさか同年代の同族がいるとは。
きっとこの人も癒しとリラックスをもとめて水族館にやってきているのだろうと勝手に親近感を抱いた。
何度目かのすれ違いで不躾にならないようにそっと顔を窺うと、水の揺らめきを吸い取ったようにキラリと光った目が印象的だった。
初回の出会い以降も時々水族館で見かけることがあったが
「今日も来てるな」と思うだけで二人にそれ以上の接点はなかった。
話す相手の目をまっすぐに見つめることを彩は躊躇しない。
今日で会うのは2回目だったが相手の男、
「緊張してます?」 微笑みを絶さないまま彩が聞くと
「そりゃしますよ。取材なんて初めてですから」 と健は答えた。
OL向けのフリーペーパーでライターをしている彩から店に電話が来たのは2週間前。 担当しているグルメ特集でレストランnonnoを是非とも取り上げさせてくれないか、と依頼があった。
健は一瞬躊躇したが彩からの
「とりあえず一度お店に伺いたい」
という申し出だけは受けた。
正直ライターという肩書きを怪しんでもいたが、彩が記事を寄せているフリーペーパーが思いの外しっかりしていたことと、彩自身の 信頼できそうな人柄に取材を受けることを決めた。
彩は取材交渉の時にこの店の若いコックがビジュアルにも明るいことにも目をつけていて料理とコックを女性受けしそうな記事にしようとしていた。
コックである健の私生活、 (シングルなのは確認済みである) もチラつかせると女性客は今よりも更に増えるに違いなかった。
が、しかし健の性格なのか会話のやりとりから職人気質の固さがイマイチ抜けきらない。
「西村さんは気分転換するときはどうしてます?」
と雑談風に聞く。
「あー……俺ね、水族館に行くんすよ。一人で(笑)魚が無心でパクパク餌食べるとこ見るのが好きで」
軟化した答えに彩の直感が動く。
「うわー水族館!それは意外です。今度ご一緒してもいいですか?」 「は?!?!」 健は驚きを隠そうともしなかったが、
「もちろん取材としての同行でおじゃまはしないので」
と彩に押しきられて断りきれなかった。
後日、健と彩は水族館にいた。
彩は健と程よい距離を保ちながら時折質問を投げ掛けてくる。
店でやり取りしていたときよりも肩肘はらずにやりとり出来るのはいつも水族館でリラックスしている効果だろうか?と健は思う。
大きな水槽の前で健は足を止め話し出した。
「最近のお客は皆、飯食うとき能面みたいですよね。 スマフォいじりながら食べる人も多いし」
「あ、そこつかれると痛いです(笑)」
と彩は首をすくめた。
「うちの店にくるお客さんでめちゃくちゃ旨そうにグラタン食べる人がいるんですよ。 一人なのに今にも喋りだしちゃうんじゃないかってくらい表情豊かで……俺、厨房から密かにそのお客さん見てるの好きなんですよ(笑)」
接客はホール担当がいるので直接顔を合わせてやりとりしたことはないがいつの間にかそのお客がくるのを健は楽しみにするようになっていた。
前に彩からnonnoの料理のコンセプトを聞かれたときは当たり障りなく答えたがこうして水族館というリラックスした空間で話していると、自分の深い想いに気づいた。
「俺の料理を食べてくれた人がエネルギー充電してくれたらって思って料理をつくってたんだけど……もっと言っちゃうと、俺の料理で誰かが幸せになってくれたら俺の存在意義にも光が当たるような気がして。
でも現実は 能面な人多いから(笑) 皆忙しいんだろうけど、黙々と終わっていく食事みてると、そういう夢っていうか理想論を見失っちゃってて。」
料理を作ってる俺が消耗しててどうすんだって話なんだけど。 と健は続けた。
「だからそのお客さんくると嬉しくて。 グラタンって俺が密かにいちばん好きな食べ物だったりもして。」
と頭をポリポリと掻きながら健の話しは終わった。
「そのお客さんって女性でしょ?」
彩が含みを持たせた顔で笑った。
おまけに可愛い、とまでは健は言葉にできなかった。
「安心してください。この部分はオフレコです(笑)」
健と彩は目を合わせて笑った。
聡美は大きな水槽の前にやって来てピタリと足を止めた。
同年代の同族、白シャツさん(聡美の脳内ではそう呼ばれていた)が微笑んでいる!
―あんな風に笑うんだ―
一拍置いて耳の奥に自分の鼓動が聞こえてきた気がした。早鐘だ。
彼の目線の先には同じく微笑みを浮かべて自信ありげな表情の女性がいた。
白シャツさんにはあんな風に笑いかける相手がいたんだ。
理解したと同時に聡美の口元からふっと笑いが漏れた。
そうだよね。いるに決まってる。
あんな風に愛おしさが溢れる笑顔で笑いかけられるってどんな気持ちだろう。
聡美の胸にぴりっとした刺激がきた。
どうせ私なんてそんな対象になれない。
卑屈な思い込みは本人も気づかない程の速度で聡美を覆いつくす。
本当はゆっくりと眺めたかった水槽の前を不自然にならないように気を付け、つま先を見つめながら速足で通り抜ける。
出口付近の淡水魚展示エリアまで来て初めて足を止めた。
「はぁぁ……」
重いため息をついて初めて息苦しさに気づき大きく息を吸う。
なんだか自分だけみじめな気持ちだった。
「なんで私だけこんな気持ちなんだろ……」
聡美は自分の気持ちに気が付いて初めて苦笑いをした。
彩はパソコンの前で腕を組んでいた。
健との水族館でのやり取りを思い出しながら記事を書いていたのだが、いまいち納得のいく仕上がりにならない。
常々、文章を書くときは取材対象が立体的に想像できる内容になるように心がけている。
仕事で出会う色々な人々と人間臭い部分を語り合うのが大好きなのだ。
下町育ちで顔見知りしかいないような町で、一歩外に出ると通りがかる人と挨拶や軽口を交し合う環境で育ったことも影響しているのだろうか。
水族館で健が浮かべた温かい笑みを記事で表現したいと思ってしまう。
幸い担当しているフリーペーパーは自由度が高く、比較的ライターに記事内容を任せてくれている。
レストランのメニューも健のビジュアルも女性受けが良いのはわかっているのだ。
自分がここでもっと記事に厚みを持たせられたらあの店はもっと人気が出る。
少々傲慢な読みは彩のデフォルトだ。
「お客さんへのインタビューも記事に盛り込みたい」
と健の了承をとる時にはすでに対象は絞っていた。
聡美がグラタンを食べ終わって食後のコーヒーを飲んでいる時に話しかけられた。
ライターをしているという女性から名刺を受け取る。
名刺に書かれたフリーペーパーは聡美も時々読んでいるので知っていた。
今回はレストランNonnoの取材でやってきているという。
「おいしそうに食べていらしたので、ここのお料理についてお話が伺いたいと思いまして」
そう言ってにっこりと笑った。
その笑顔に記憶の端がさわさわと動いた気がしたが思い出せない。
自慢じゃないが人の顔と名前を覚えるのは得意ではない。
「ここのお店にはよくいらしてるのですか?」
彩から質問がくる。
「あ、私この近くにお稽古に来てまして、それで帰りはここに寄るって決めてるんです」
自分が書道家であること、毎回このレストランのグラタンで消耗したエネルギーを充電することを話した。
「なぜここのグラタンなんですか?」
「ここのお料理食べてると体中が喜ぶ気がするんですよね。
まるでこの料理に込められてる喜びが私の体に染み渡るみたいに。
食べるとお腹だけじゃなくて指先までじんわり温かくなるんです」
にこにこと聞いてくれる彩にはもうちょっと大胆なことも言える気がした。
「あぁ、私食べる前より絶対ハッピーになったなぁ、って思えるんですよ。
だから私にとっては出会えて良かったって思える大切な料理なんです」
言葉にしてみるとちょっと恥ずかしいかな?とも思ったが普段感じているありのままの気持ちなのでいいだろうと開き直った。
彩はとても満足そうな笑顔で頷いた。
取材が終了したのだろう。気軽な口調で聞かれた。
「あの、恋人はいらっしゃいます?」
あぁ。今聞いてくれるな……。と心で呟いた。
「いません。好きだと気づく前に振られました(笑)」
「え。それってどういうシチュエーションなんですか?」
聡美は苦笑いで水族館の白シャツさんの話をした。
「水族館で何度か見かけてる間にいつの間にか好きになってたみたいで……
だから自分の気持ちに気づく前に女性と楽しそうに話している姿を目撃して振られちゃったわけです(笑)
逆かな? 女性と話してるところみたから気持ちに気づいたのかも。
お互い一人で来てても相手がフリーかどうかなんてわからないですもんね」
彩からはそれっていつ頃ですか?とか相手はどんな感じの人ですか?とかやたらと
詳細を聞かれたが、ライターという職業柄つい取材口調になるのかな、と聡美は答えながら思った。
「書道家さんなんですよね。
珍しい職業の方には取材させて頂くこともあるかもしれないので連絡先を伺うようにしているのですがよろしいですか?」
彩はそういって聡美と連絡先を交換した。
しばらく顔みてないな……と健は思った。
店にグラタンのあの子が来なくなってからしばらく経つ。
あの子が来なくなってしまったらそれであっさりと縁が途切れてしまうのだという当たり前のことに今更気が付いて、思いもよらない喪失感を味わう。
その時ドアベルが響いた。もしや、と期待を込めて振り向いたら彩だった。
「記事出来上がったのでお持ちしました。…ってなんだかがっかりさせちゃったみたいですね」
「ああ、いや…そんなことは……」
と健はちょっと焦って答えた。
相変わらず鋭くて怖い人だ。
「はい、こちらが該当号です」彩からフリーペーパーの最新号が渡された。
コック服姿の自分が思っていたより大きく紙面を飾っていてこっ恥ずかしい。
記事には他にも店の外観や店内の雰囲気が伝わる写真などの他に小さくグラタンを食べているあの子が載っていた。
「あ……」と思わず声が出た。
「よく撮れているでしょう?」
といたずらっぽい笑みを浮かべて彩がからかう。
「なーんだか二人とも同じようなこと言うんですよねぇ」
彩はあ~あとか、まったくとか、なんとかぶつくさ言っていたが記事が気になってそれ以上は耳に入らなかった。
「それでこれ、取材協力のお礼です。プライベートまでお邪魔しちゃったし」
と言って日付指定のナイトアクアリウムのチケットが手渡された。
「日時は必ず守ってね♪」といって史上最高の含み笑いをウインクと共に投げてよこした。
チケットには人数限定でしかも対象年齢も大人のみの夜の水族館をめぐるというイベント内容が書かれていた。その日だけはイルミネーションでの飾りつけもあるらしい。
館内に入ってからは自由行動のようだが、入館時だけは入口で集合とあった。
後日指定の時間の少し前に入口に行ってみるとぽつぽつと参加者が集まりだしていた。
その中の一人に目が釘付けになる。
「なんで……」
そこにはグラタンのあの子がいた。
声をかけようか迷った。相手は自分のことを知らないのだ。
やっと会えたのだけど、いきなりなんて声をかければいいのか……。
もう一度よく彼女を見て再度驚いた。
健が掲載されているあのフリーペーパーを読んでいた。
「あの人か……!」健は彩のウインクを思い出して苦笑いした。
何から話そうか。
健は真っ直ぐに聡美に向かって歩き出した。
二人は水族館のブルーの世界で初めて向かい合って目を合わせていた。
背中合わせのブルー 朝之小鳩 @asakoba
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