第2話
僕はとても平凡だと思う。
トップクラスのIT企業に勤め、収入もかなりの額。
Youtuberの友達がいる。
仕事は、周りは派手だ。
趣味は寝ることだし、収入があるから、ちょっと良い服やご飯が食べれたりする、それだけ。
かっこいいわけでもないし、特技があるわけでもない、恋人もいない。
学生の頃は全てエスカレーターのように淡々と過ごした。
そんな中でも、好きな女性に恋をして、付き合った。
友達もいた。
それなりに充実していた。
勉強もそこまで苦じゃなかったから特別大変だった記憶もない。
周りに促されるまま生きた。
僕はこれまで苦労したことがなかった。
こんなに身のないつまらない人間がいるだろうか。
24にして気付いた。
ああ、そういえば昨日の人魚はどうしたろう。
帰りの電車で、初老の男性が優先席で髭剃りをしているのを見て忘れてしまった。
最近は化粧だけに目を向けるものじゃなくなってきたんじゃないかと思う。
みんな自由だなあ。
モラル的に見ればあまり尊敬のできる事じゃないかもしれないけど、僕はなんだかその男性を見て関心さえしてしまった。
人魚は、辺りがぼんやりと明るくなるまで入り江であそんだ。
人の知らないこの場所には沢山の人のものが流れ着くのだった。
中でも楽しみにしているのがボトルメールである。
空き瓶に想いを綴った便箋を入れて海に流す。
ある時は、戦争の最中、会えない妻を想って書く。
旅の記録を記したもの、日記みたいなもの。
誰にも言えない悩みを赤裸々に綴った文章もあった。
子供の字も何度かあった。
知らない文字も、もちろんあった。
どれも美しい。
人の生き様とはこんなにも残酷で素晴らしいのかと思い、泣いた。
海が静かな時の楽しみだった。
嵐の後の、凪いだ入り江に行くのはいつもよりワクワクした。
気付いたら寝てしまっていた。
次の駅が降りる駅だ。
7連勤目は流石にこたえた。
目と目の間を少し強く押したり揉んだりしてみるが、スッキリしない。
これは明日1日寝ても回復しないかもしれない。
というよりまる1日、目が覚めないかもしれない。
体はどっしりと重く、フラフラと電車を降りた。
p.m23:00を過ぎてやっているラーメン屋はあるけれど、いつものケーキ屋は閉まっていた。
良くある、仕事帰りに酒を飲みに行ったり、ラーメンを食べに行ったりするのを僕はあまり好まない。
仕事の付き合いで行くことはあるけれど。
仕方ないからコンビニへ寄ってウイスキーとフルーツタルトを買った。
ビールよりも断然ウイスキー派で、ウイスキーはもちろんハチミツ入りだ。
フルーツタルトは、イチゴ、キウイ、リンゴ、ブドウ、ブルーベリー、オレンジ、グレープフルーツが仲良さそうに盛り付けられていた。
ツヤツヤと光り、爽やかな香りと甘い香りが、胃を叫ばせた。
家に着くなり、スーツを放り出して部屋着に着替えた。
ソファに崩れる前に歩きながらウイスキーをボトルごと飲んだ。
舌が痺れたと思ったら、それは全身を突き抜け、空きっ腹に染みた。
疲れ過ぎた体にはひと口でだいぶ効いたらしく、一瞬視界が眩んだ。
ウイスキーをテーブルに雑に置き、倒れるようにソファに埋まりそのまま5分は動けなかった。
あんまり寝転がると寝てしまうので、お楽しみのフルーツタルトを取り出した。
食べて、食べてと踊っていた。
躊躇することなくそのままかぶりついた。
大きく開けた口は崩れたタルトをこぼすことなく全てキャッチした。
ああ、生きてて良かったと思った。
空腹は最高のスパイス、と言うけれど相乗効果で口の中が楽園だった。
朝は食欲がなく、コーヒーしか飲んでおらず、昼も忙しく食事という食事は出来ず、カロリースティックだけだった。
甘いもののおかげで身も心もリラックスしてしまい、ソファから体を動かすのがとても億劫になった。
体とは裏腹に頭はサンバを踊っていた。
やっとの思いで立ち上がり、風呂場へと向かった。
風呂、なんて言わずにシャワールームという方が似合うような、広くて最大限落ち着く場所だった。
風呂場のすぐ横の洗面台には大きな鏡が付いている。
部屋着を脱ぐと程よく引き締まった体が露わになった。
僕の二の腕にはオリオン座がある。
丁度ホクロがその位置に収まっている。
大学生の頃に付き合った彼女にそう言われて知った。
確かに、よく見るとその形をしていた。
硬くて筋のある二の腕を中和してくれていた。
軽くシャワーを浴びて湯船に浸かった。
乳白色の入浴剤はミルクのようで、でもそれよりも軽やかな、色そのままの香りがした。
マンションの1室、この部屋は風呂に来ても静かだった。
東京に住んで入るけれど、都会の喧騒から少し離れた場所。
自分の吐息、水の音。
それ以外は何も聞こえない。
世界から隔離されたかのようだった。
いつもの癖で頭までスッポリと潜ってみる。
冷えていた耳も温まり、お湯に体が溶けだしそうだった。
目を開けてみる。
1面ぼんやりと白く、両手を広げて見てもはっきりとは見えなかった。
息も苦しくなった。
エラがあればいいのにといつも思う。
僕も人魚のように広い海を自由に泳ぎ回りたい。
ああ、でも入浴剤を入れた風呂でエラがあったら危険なんじゃないかとも思った。
落ちてくる瞼を必死に堪えながら髪を乾かし、ベッドに潜り込んだ。
ヒンヤリとパリッとしたシーツに足を沿わせる。
火照った体に心地良い、と思った途端意識を失った。
……また人魚が歌っている。
その直後、滝のような音が聞こえると思ったら大きな魚にぱくり、と食べられてしまった。
暗く、ぬるぬるとした食道をすごい早さで落ちていく。
中々地面には辿り着かなかった。
意識を失いかけた時、だんだん明るくなってきた。
衝撃もなく、トン、と野原に落ちた。
遠くからしか見たことない緑と、色とりどりの花がそこにはあった。
もしかして。
やはり、足があった。
人魚のままで地上に投げ出されるはずないもの。
ここは魚の胃袋ではないのか。
緩やかな風が頬を撫で、蝶が目の前をよぎった。
願ってもいない環境の変化に驚くとともに、もうここからは出られないんだなと直感的に思った。
頭上を仰ぐと、星が煌めいていた。
どうやら夜らしい。
草花ひとつひとつが発光し、まるで、昼間のようだった。
幻想的な世界。
そうか、私はもう。
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