第14話

生ぬるい風が髪を絡めて吹く。もう一端の夏の匂いをつれている5月の風。ビルのガラスに反射した太陽の光がちかちかと私を照らす。眩しいだけならまだしも、アスファルトに跳ね返った熱がじりじりと下から蒸して暑い。新社会人用に買ったばかりのスーツはまだクールビズ仕様でもなく、一ヶ月やそこらでは体に馴染まなくて、きっとさぞ不恰好にうつることだろう。

東京に戻って二週間も経たないうちに4月になった。私は社会人として、人材派遣の会社に勤めている。毎日毎日、先輩について回って耐えられない暑さの中を自社の商品を売り歩く。電話をしては怒られ、怒られたことに怒られる。それでもなんとか会って話を聞いてもらえることになれば飛び上がるほど嬉しい。で、会ってみればまた怒られる。


「で、あんた仲直りしたの?」


頼んだアイスコーヒーをものの3分で空っぽにして物足りなさそうにグラスの中の氷をからからとストローで混ぜながら研修の時にたまたま隣の席になってから仲良くなった羽島が言う。


「仲直りっていうか、喧嘩じゃないというか。」


乱雑な物言いに細くてモデルのように高い身長と、整った顔。それなのに何故か化粧やお洒落に無頓着で、真っ黒な髪をショートカットにしたお転婆娘の顔をちらり見て、またすぐに羽島の手元へと視線を落とした。からり、と暑さでグラスの氷が溶けて行く。


「ああ。そうね。あんたが勝手に駿くんを避けているだけだもの。」


そう言って彼女はグラスを持ち上げるとからからっ、と氷を口の中に放り込んでばりばり音を立てて噛み砕く。涼しくて、いい音だ。


「あんたに、駿くんみたいな人、勿体ないわ。」


嫌味でもなく、本当にそう思っているように彼女は言う。こういう、開けっ広げで嘘のない彼女に、私はすぐに懐いた。それに、東京に来て駿に散々甘やかしてもらってきた私は全く甘やかしてくれない羽島の荒さが無性に心地よかった。それも、贅沢なことだと羽島には突き放されたけれど。


「それは、わかってるよ。だけど、」


だけど、今駿と会っても、私は私の罪悪感と向き合えなくなるだろう。そう思った言葉を飲み込んだ。羽島には、まだ柳瀬くんのことだけは、伝えていなかったから。


「...いいわ。私、ニコチン入れてくるから、じゃあ。」


「うん。」


羽島は勝手に話を切り上げてからになったグラスはそのままに立ち上がればポケットから煙草の箱とライターを取り出して横に振るように私に見せて立ち去った。


結局、駿とは、東京駅に迎えに来てもらったきり、話すことも会うこともしていない。実を言うと、もう一ヶ月半近くなる。その間、駿からの電話やメールは散々来たし、同じマンションの駿は何度も私の家を訪ねて来てその全部に私はなんの反応もしめさなかった。電話やメールは返信せず、家はひたすら居留守を使って。

原因は、明らかに私にあった。私と、もっと言うなら柳瀬君に。勿論柳瀬くんが悪いわけではないけれど。私はひたひたと柳瀬くんを生活に染み込ますようになってしまって、例えば家に帰って一人でテレビを見ていたら、字幕をついつけてしまう。耳の聞こえない彼でもこうすれば楽しめるかもしれない。駅のホームに立って、iphoneの音量を最大にしてイヤホンをつけてみる。音の便りをなくして数えきれない人間の間をすり抜けるのは、ほぼ不可能に近かった。妙に慎重になる足取りに後ろから強引に肩をぶつかられて追い抜かされていく。そうしている間に前から来ている人にも気付けないで、最悪、電車の接近を知らせるベルが聞こえなくて突然視界にホームに滑り込む電車を見たときは思わずイヤホンを取ってしまった。そうして、こんなことをして思うのだ。柳瀬くんならきっと、「馬鹿やね。そんなことしても君は僕のことなんてちっともわからへんのや。」と言って細い目を益々細めて首を右に傾げて微笑むんだろう。馬鹿にしないで、けれど肯定しないで、呆れもせずに、ただ事実として笑うのだ。きっと。そして私は、きっと柳瀬くんにそう言って欲しい。



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