放課後の窓際で
いつも奥にいた。
周りが騒いでいても滅多なことでは手を止めなかった。
黙々と進む作業は夕日が差し込み、初めて時間経過に気付いたように終わる。
そして明日も変わらず、奥でひっそりと作業が進むのだ。
彼が握った鉛筆一本から生み出される景色は、森に空に池など様々だ。
ボクはその世界に間違いなく魅了されていた。
思わず追いかけたけれど、その時には遅かった。
世界は変貌していた
しかもボクが望まない方向に。
失望した。
それなのにボクはまだ追いかけるのをやめられない。
全部、あの人のせいだ。
放課後の人気のない教室にボクたちは向かい合って座っていた。ボクは今日出された課題を、目の前の女は無駄話をと思い思いに時間を潰している。
非効率的な女を尻目に黙々と課題を片づけていく。明らかにこちらが聞いていないのに、女はぺらぺらとどうでもいいことを垂れ流していた。
「だからあたしはこう思う訳よ。生半可な覚悟で恋を語るなってね」
行儀悪くも椅子の背の方を向いて座り、ボクの机に肘をついて話しかけてくる。正直邪魔以外の何物でもない。
「……」
くだらないと一蹴することも考えたが、継続して無視を決め込むことにした。
そこでようやくこちらが聞いていないことに気付いたらしい。焦ったように身を乗り出す。
「ちょ、ちょっとミツキ? 聞いてる?」
「聞いてないですね。邪魔だから話しかけないでください」
「敬語やめて? 邪魔して悪かったし謝るから敬語やめてね?」
心の底から嫌そうな声だった。
緩慢な動作で女は頭を下げてきたが、ノートが隠れてしまって余計に邪魔だ。
確実にわざとやっている。証拠に肩がプルプルと震えている。
これ以上付き合うのは無駄だ。長い付き合いのボクにはそれがよくわかっている。
手を止めないまま話しかける。
「サツキ、そろそろ部活が始まってるんじゃないの?」
「んえ?」
間抜けた声をあげ、サツキは振り返る。視線が黒板横の時計を捉えた途端、激しく机を蹴って立ち上がる。
もちろん蹴り飛ばされたのはボクの机だ。
「やば、部長がうざいんだった! じゃね、ミツキ。後でその課題写させてね!」
学生鞄とテニスラケットのケースを担ぎ、バタバタと品のない走り方でサツキは消えた。
「写させないし」
蹴られた反動で床に飛び散った筆記用具を拾い集める。
サツキの横暴はもはや慣れているが、こんながさつな女が周りから高く評価されていることは納得いかない。横暴の被害者がボクだけなのが主な原因かもしれないが。
人目があるところでは決して暴れないあたり、無駄に聡いということだろうか。悪く言えば確信犯というわけだ。
などと益体も無いことを考えているうちに、ノートの空欄は埋まった。
腕時計を確認すると、とっくにボクの部活も始まっていた。
気だるげな溜息混じりに手早く筆記具などを片づけて教室を出る。まだ中に鞄が残っていたから施錠の必要はないだろう。
ひと気のない廊下を淡々と進む。時折聞こえるのは野球部の掛け声か。外を見れば揃いのユニフォームの一団が賑やかに駆けて行った。
静かな廊下の先へと視線を戻しツカツカと歩を進める。物の数分で目当ての教室へと着いた。
カラカラと戸を引き、中へ声をかける。
「遅くなりました」
これっぽちも遅れていないが、入学して日が浅い身としてはこれくらいの社交辞令は使うべきだろう。
何人か顔を上げて会釈してくる。すべて上級生だ。今年の新入部員は少ないと聞いたが、さすがに自分一人でこの空気を味わうのは辛いものがある。
「やあ、
そんなボクの心中を察した訳ではないだろうが、上級生の一人が気さくに話しかけてきた。ボクは出来うる限り最高に愛想がいい作り笑いを浮かべる。
「こんにちは、田所先輩」
田所タケヒトは最上級生であり、ボクが所属する美術部の部長を務めている。性格は至って単純で、面倒見がよく人に好かれる。いわゆるどこにでもいそうな没個性的な男だ。
この手の人物は距離感をつかみやすいから、ボクとしても楽だ。
しかし問題は副部長の方だ。
なんとなくできた定位置に移動しながら目を走らせる。
いた。
いつも通り校庭が望める窓際の席に座って、一心に手を動かしている。副部長はいつもどこか遠くを見ていて、どことなく超然とさえしているように見える。
ボクは彼、渡瀬マシロが苦手だ。渡瀬先輩は割と綺麗な顔立ちをしている。それもあってか人に浮世離れした印象を抱かせるのだ。根暗ではなく社交的でもないが、気軽に話しかけることが躊躇われるタイプだ。そのせいか漠然と苦手意識を抱えている。
そんな状態にも関わらずボクの定位置が彼と同じ長机なのが解せない。
そっけなくならない程度に挨拶をしてから彼の斜め前に座る。彼はかすかに会釈を返しただけだった。目線をこちらに向けることさえない。
ボクの隣は基本空いているのだが、今日に限っては田所先輩が鎮座している。
先輩は彼と友人だそうだが、それにしても部長と副部長に囲まれるなど、これほどまでに息が詰まる空間も中々ない。ほんの少しでいいから定位置に配慮して貰いたかった。
人目を気にするようになにやらひそひそと囁き合っているが、そういうのはボクがいないところでやってほしい。気になって仕方がない。副部長が作業しているところへ、道具を何も広げていない部長が指示を出している。珍しいが共同作業をしているように見えなくもない。
それにしても顔が近くはないだろうか。なんというか平凡を絵に描いた田所先輩と薄幸そうな渡瀬先輩の組み合わせは不自然に目立っている。本当にただの友人なのだろうか。
「……」
変な邪推をしてしまった。居心地の悪さから何気ない動作を装って先輩方の手元に目を向ける。
鞄から画材を並べ始めてボクはようやく違和感に気付いた。
渡瀬先輩が握っているのは絵画用鉛筆でなくてシャーペン、広げられている物はスケッチブックではなくノートだ。先輩が絵を描く時はいつもスケッチブックに鉛筆だったため新鮮だ。
認識を新たにした途端、田所先輩が机を叩いて立ち上がった。
「おまっ、なんでこの方程式もわかんねえの?」
……方程式?
「え……なにか間違ってたか……?」
おそるおそる尋ねる渡瀬先輩の頭に容赦ない鉄拳が飛来した。目を丸くして頭をさする渡瀬先輩は、先ほどまで感じていた浮世離れした印象を微塵も残していない。もはやクラスに一人はいる間の抜けたやつにしか見えない。
続く部長の説教につられて、先輩のノートを盗み見る。
隅々にファンシーな落書きがされているうえに、数式はめちゃめちゃだった。どちらかと言えば数学が得意なボクからするとありえない回答まである。
ボクの視線に目ざとく気付いた先輩が、慌ててノートを隠す。
「……見た?」
「ばっちり見ました」
「だ、だよなー」
急に目が泳ぎ始めた。
どこか既視感を覚える反応に思わず口が滑る。
「先輩って、おバカなんですか」
「んなっ!」
渡瀬先輩の反応より早く、
「そうだ、マシロはバカだ!」
部長が返事をした。
目に見えて先輩が落ち込んだ様子が視界の端に映る。すっかりしょげ返った様子でシャーペンを弄くり回していた。
遅まきながら冷や汗が流れる。てっきり一年の分際で何を言ってるんだと怒られると思ったのだが、二人ともそんな様子はない。
ひとまず胸をなで下ろす。
部長はさらに続ける。
「乾。こいつはな、あまりにバカ過ぎて赤点が目の前だ。赤点とったらもれなく部停まで約束されている。なのに勉強をしようとしないバカなんだ」
「なんですかそれ。かなりヤバイですね」
「うっ……」
真剣な口調と裏腹に田所先輩が笑っているため、それなりにフランクな返しをする。思った通り二人はボクの失言を叱らない。おかげで息苦しさは消えていた。
思えばこれが間違いだったのかもしれない。油断して笑っているボクに部長が言う。
「なあ、乾。悪いがちょっとこいつの勉強の面倒をみてやってくれないか」
「え……」
予想もしていなかった言葉にたじろぐ。
渡瀬先輩も青い顔で固まる。
「これがわかるってことはそこそこできるんだろ? 基礎だけでいいから頼まれてくれないか?」
普段の明るい顔とは違う部長の切羽詰まった表情に驚き、とっさに首を縦に振ってしまう。
「いいですけどボクはまだ一年で……」
「一年の基礎さえ叩き込んでくれたら十分だ。後はオレが引き上げるから」
「はあ……」
結局ボクはお調子者の部長に流されて、放課後毎日先輩の勉強に付き合うことになった。正直渡瀬先輩は苦手なので放り出してしまいたいが、今更そういう訳にもいかない。
先輩だって気が乗らないようだったし、あまり本格的にやらなくてもいいだろう。自分の予習復習だと思って切り抜けることにしよう。
ボクはこの美術部に絵画の技術を学びに来ただけなのに、どうしてこんなことになっているのだろう。
渡瀬先輩との勉強は思ったより何事もなく過ぎていった。
授業が終わるとすぐに部室へ向かい、早めに来てもらっている先輩に勉強を教える。部員がやって来始めたらお開きにする。余裕がある日はみんなが帰った後に続きをやった。
部長から許可されていた軽い体罰も少々使わせてもらった。もちろん意味もなくそんなことはしない。先輩は目を離すとすぐに落書きを始めてしまうから仕方なくだ。
そしてこれはまた予想と違っていたが、先輩はそこそこ勉強ができた。丁寧に教えた公式はたった数回のミスだけでマスターできるくらいに。
本人に話を聞く限りどうも単純に授業を聞いてないのが問題なだけらしい。一度それをネタに話を振ると困ったように笑っていたことを覚えている。
「どうしても……描きたいと思ったものはすぐ描いちゃってな……」
ボクは呆れて嘆息した。
「学生なんだから授業を優先しましょうよ。そんなのばっかり描いててもなんにもなりませんよ」
何かが引っかかったのか先輩は一度首を傾げたあと、苦笑いした。
「ミツキの言葉は耳が痛いな」
「正論だからですよ、マシロ先輩」
ささいな会話をやり取りするうち、ボクと先輩は名前で呼び合うくらいの距離感になっていた。親しくなっている自覚はないが、最初より声をかけやすいという点では確実に楽になっていた。
数日後、期末テストが終わった。マシロ先輩は無事、赤点は免れたらしい。
放課後呼び出されて本人から直接報告をもらったあと、感謝の言葉を述べられた。本当にたいしたことはしていないのだが、満更でもなかった自分がいた。
友人がいたらこんな感じなのかもしれないと思った。
夏休みへのカウントダウンが始まった。
今日は珍しく部活に遅れていた。
隣のクラスのはずのサツキが持ち込んできた厄介ごとに巻き込まれてしまった。プリントを人数分数えて揃え、それぞれをホチキスで留めるだけの事務作業だ。しかし単純な作業ほど時間を食うもので、気づけば部活が終わろうとしていた。
せめて顔だけでも出そうと美術室の扉を開けた。
部屋には誰もいない。いや、奥に一人いる。
窓から差し込む夕日を背に黙々とキャンバスに向かっている。
マシロ先輩だ。
そっと戸を閉め、なるべく静かに歩み寄った。邪魔をしたくないというより、神聖なものに感じたからというのが近いかもしれない。
そうだ。だってボクはずっとこの光景が見たかったのだ。
ボクは昔から絵を描くことがたまらなく好きだった。
最初こそアニメのキャラクターを模したみっともない代物だったが、徐々にちゃんとした絵画を描けるようになった。
気に入った場所は写真に撮るより、スケッチすることが多かった。
しかし、ボクにはそれ以上の才能はなかった。いくら技巧を凝らしてもかつてのように生き生きした世界を描くことができないと気付いたときは気が狂そうだった。
自分に何が足りないのか。それを捜してあちこちの展覧会に足を運んだ。
そして出会ったのが、とある高校生の作品だった。
森林公園を題にしたであろうそれは、はっきり言ってまだまだ技術が足りていない。
絵画としては失敗作かもしれないが、描かれた世界は純粋さを貫き、みずみずしささえ感じられた。
作者名は渡瀬マシロと記されていた。
ちょうど進路を考えていたボクは、迷うことなくこの人がいる高校に進学することを決めた。この人に会って話をすれば、きっと自分に足りないものを見つけられる。そんな予感がしていた。
入学後すぐ、体験入部期間を利用して渡瀬マシロを捜した。いや、美術部にいることはわかっていた。彼、あるいは彼女自身と直接話せる時間を求めていたのだ。
ボクがようやくそのチャンスを得られたとき、同時にボクの予感は間違っていたことを悟った。
渡瀬マシロが絵画を描くことを辞めていたのだ。辞めるだけならまだいい。だがあろうことか、訳の分からない物を描くことにこだわるようになっていた。
あんなに綺麗な風景を描ける人が、アニメや漫画を彩るデフォルメされたイラストばかりを描いていたのだ。
ボクは酷く失望した。渡瀬マシロの芸術は終わっていた。ボクの救いにはならなかった。
以来、ボクは義務感だけで学校と部活に通っている。もっとボク自身に適した環境があったに違いないと、後悔しながら。
「マシロ先輩」
遠慮がちに声をかけると、先輩の肩がわずかに跳ねた。
「おお、ミツキか。ごめん、気づかなかったな」
照れ笑いしながら、先輩はパレットを机に置く。
先輩は集中力が並はずれているからそれも当然に思えた。
「いえ、構いません。それより風景画を描いていたんですね」
キャンバスに描かれていたのは、夕日に照らされた校庭だった。所々に運動部の生徒らしき影がある。
この学校に来てから始めて見た先輩の絵は、かつての美しさを少しも損なっていなかった。むしろ技術が増した分、さらに鮮やかになったようだ。
ボクが見たかった世界はこれだ。
感動のまま感想を述べようとするボクより先に、先輩が口を開いた。
「へへ……なんかきったねえだろ? 最後のコンクールに出すやつくらいちょっとはやる気出そうと思ったが、やっぱこんなもんか」
「……え?」
自分の絵を軽い調子で汚いと言ったことが不可解だが、それよりも後の言葉が引っかかった。
コンクールは秋だ。まだまだ先のはずなのにどうして今描き上げているのだろう。そうだ。受験勉強のためなのかもしれない。
そう自分を納得させたが、先輩の言葉は続く。
「どうしても夏の間に描きたいイラストがいっぱいあってさ、そっちに集中したくてな。とりあえず先にこれを終わらせておいたほうが楽だと思って」
「え……?」
理解したくなかった。ボクはまた、ぬか喜びをしたのか。
失意のあまり言葉がこぼれる。
「……あんなののために、絵をないがしろにするのですか?」
先輩は困ったように笑った。
「あんなのとはひどいな。確かに下手だけどこれでも真剣に描いてるんだぜ」
「なぜですか」
間髪入れずに問いを重ねると、さすがの先輩もたじろいだ。笑みは完全に去り、不安げな反応をしている。
「なぜって……これが僕の描きたいもので……それに僕の友だ」
「だからなぜ、そんな無価値な物を描こうとしているのですか?」
「ミ……ミツキ……?」
先輩が戸惑いの声をあげるが、今更ボクの言葉は止められない。まるで長い間溜め込んだ鬱憤を先輩へぶつけるようだった。
ボクにとって今の先輩は、ボクから絵画を奪い、希望を潰した憎い加害者だ。
最低なことをしている自覚はあった。しかしボクの頭は先輩の才能を間違った方向から引き戻すという大義名分に酔ってしまっていた。
「先輩は、自分がどれだけもったいないことをしているのか、わかっていますか? それだけの才能がありながら、どうして平気でドブに捨てているのです?」
「……」
マシロは何も答えない。
「あなたにとってはたいしたことじゃないかもしれません。捨てても捨てても、才能はまだ輝いているのですから。だけど、描きたいのに描けなくなった人の気持ちを考えたことあります? 欲しくても手に入らない人の気持ちを知らないから、そんなことができるんですよ!」
「……」
「なぜあんな大衆に媚びたゴミに執着するんですか! 無価値で芸術ですらないのに! あんなもの絵とは呼ばない! 認めない! 無駄なんですよ! 先輩は正しい芸術を目指すべきだっ!」
怒涛の勢いでまくしたてたボクはすっかり息が上がり、肩を揺らして呼吸する。
相対する先輩は悲しげにボクを見つめてただ一言、「ごめん」と呟いた。絵筆を握り、縮こまる先輩は子どもみたいだった。かつてのボクのようだった。
その態度がまたボクの癇に障り、口を開きかけた時だ。
バサリ。何かが落ちた。
出入り口そばのロッカーからだ。
人はいない。風も吹いていない。少し薄気味悪い。だって周りに棚なんてない。
先輩が駆け寄る。ボクもつられてそばに向かう。
どうやら落ちたのはスケッチブックだったようだ。でも一体どこから?
先輩はそれを拾い上げるなり、泣き笑いのような顔でぺたりとへたり込む。
驚くボクを尻目に、先輩はスケッチブックを抱いてかすかに呟いた。
「心配かけてごめん。ありがとう……」
それは誰への言葉だろう。スケッチブックの持ち主だろうか。かすかに見えた青宮という名字の部員に心当たりはなかった。
先輩はボクの目を見て言った。
「才能がすべてじゃない。今、ミツキの視野が少し狭いだけだ」
不安げに揺れていたさっきとは違う。誰かに支えられていることを思い出したかのようなまっすぐな強さがあった。
さらにマシロは優しい声で付け加える。
「僕とおんなじだよ」
「え……」
今度はボクが戸惑う番だった。
マシロは立ち上がり、とても優しい声でボクだけのためにこう言った。
「好きな物、やりたい事、みんなそれぞれ違うだろう? それは正しいとか正しくないとか誰かが決めて良いものじゃない、と僕は思うんだ。決めなきゃいけないんだとしたら僕は悲しいかな。悲しいと楽しくないから」
「それは……」
「ミツキが僕に何かを期待してくれていたのなら、それはすっげー嬉しい。でもごめんな、それには応えられない。僕が描きたいものはあいつの世界だから」
そんなの裏切りじゃないか。過去のボクが抱いたあの感情への冒涜だ。
でも、ここで彼に無理やり描かせたって、過去のような衝撃を受けることはないのだろう。
この人は、楽しくないと描けない人だ。描きたいものしか描けない人だ。
彼の芸術は本当に一度終わってしまったのだ。
ボクはいつから、絵を描かなくなったのだろう。
「残念……です。ボクは、あなたに会えば色彩を取り戻せるんじゃないかって……それだけを信じて……」
ボクは絵が好きだった。たとえ上手くなくとも、描くだけで楽しかった。上達を知ると嬉しかった。上達だけが目的になった。
自分の才能を潰したのは、楽しさを忘れたボクだ。だからあの日、先輩の楽しそうな絵に嫉妬したんだ。叫んで怒鳴りつけて彼を傷つけたくなるほど、楽しそうな姿が羨ましくて仕方がなかったんだ。
我ながら浅ましい。
「ごめんなさい、渡瀬先輩」
やっとの思いで謝罪を絞り出せたボクは足早に出口に向かう。ボクはここにいる資格なんてとうの昔になかったんだ。
「ミツキ」
先輩が立ち塞がる。
抱えたスケッチブックは脇に置かれていた。先輩は真剣な顔でボクの肩を軽く叩く。
「ありふれたものに目を向けてみてくれ。クラスメイトは何を話していた? 運動部の人たちはどんな時に笑っていた? みんなはどんな時に楽しそうにしていた? ミツキは気遣いができるし優しいから、きっとすぐに気付けると思う。たぶんそれが後悔から抜け出すヒントをくれるから」
翌日ボクは、田所先輩から聞いた。
マシロ先輩がスランプに陥って悩んでいた時期があったこと、まさにその頃に目の前で友人が亡くなっていたこと、それから昨日のスケッチブックがその友人の物であることを。
そして田所先輩は、謝罪してきた。マシロ先輩の勉強に付き合わせたのは、ボクのスランプをサツキから聞いたからなのだと。
正直おかしいと思っていた。勉強会の時にマシロ先輩から聞いた話だと、田所先輩は常に学年上位の成績をキープしているそうだ。そんな頭の回転が速く、気配りできるような人が一年に三年生の面倒を任せるなど無謀なことをするわけがない。
サツキもサツキだ。なぜわざわざ部長にそんなことを話しているんだ。おそらくボクが渡瀬マシロに憧れて、ここに来たことも話したに違いない。
本当におせっかいな姉だ。
あれから半年と少し経った。
ボクのスランプは徐々にだが、解消されていた。もうかつてほどの強迫観念はない。
悔しいことに、やはりこの学校に来たことは間違いではなかったようだ。
「ミツキ。桜ばっかり眺めてぼんやりしてたら、先輩たち見逃すよ」
「わかってるよ」
サツキに指摘され、花束を抱えなおす。途端にふわりと甘い香りがした。別れの香りだ。
今日は先輩方の卒業式になる。本来ならボクは美術部、サツキはテニス部の一員として見送らなければならないが、マシロ先輩や田所先輩は個人的にいろいろ懇意にさせてもらっていたため、抜け駆けしてしまおうというワケだ。
ボクらは外で出待ちしている。時計を見ると、もういつ卒業生が出てきてもおかしくない。
少しずつ人が賑わい始め、とうとう卒業生が体育館から吐き出されてきた。
目を凝らして見覚えのある姿を捜すが、なかなか見つからない。
ふっと視線を外した隙に、ぱあっと顔を明るくしたサツキが駆け出した。
「タケヒトせんぱーい!」
テンション高く手を振り、すぐに人垣へ消えてしまう。前から怪しいとは思っていたけれど、まさかサツキは……。
「サツキちゃんって、タケと付き合ってるのか?」
背後から耳元で囁かれ、とっさに振り返る。
「うわ……なんだマシロ先輩か」
「なんだとは酷いな……」
相変わらず困ったように笑う先輩がそこにいた。
卒業式という行事の力か、あるいはこの桜のせいなのか、今日のマシロ先輩は普段とは違う雰囲気だ。これも悔しいことに顔立ちの力だろう。
この人にはやっぱり敵わない。
「マシロ先輩」
改めて向き直ると、先輩も向かい合ってくれる。
「ご卒業おめでとうございます。これからもがんばってください」
花束をそっと渡す。
別れの言葉なのにどうしようもなく事務的になってしまったが、先輩は嬉しそうに笑って受け取った。
「ありがとうな」
この別れはけじめだ。
急いで変われなくていい。ボクは先輩だけでなく、しがらみや執着とも別れよう。
ここから先へと進んでいく先輩方たちは一人一人違う。それが当たり前なのだ。
ボクはその違いを認められるようになる。
自分自身のやりたいことと気持ちに、素直に向き合えるようになりたい。
ボクは先輩の姿を追いかけることをやめられないだろう。
なぜならこう思えるようになったのは全部、あの人のせいなのだから。
僕は絵を描く 夜清 @crab305
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