僕は絵を描く

夜清

僕は絵を描く

 外界から遮断した薄暗い部屋で空を仰ぐ。

「描かなきゃ」

 どうしてか、その言葉が口からこぼれた。

 理由はわからない。さっぱりわからない。

 けど理由なんてどうでもよかった。とにかくペンをとった。

 描かなければ。それだけが今の原動力だ。

 最初は何を描こう。

 森、空、池。どれもいい。とても魅力がある。

 ああでもそうじゃないんだ。

 自分が描きたいのは。

 自分が描かなければならないのは……。

 カーテンを開いた。長らくご無沙汰だった太陽光に目が焼ける。

 振り返ってようやく部屋の惨状に気付いた。

 物が散乱し、体を置いておけるスペースがあまりない。

 綺麗好きな自分にしては信じられないほど荒れ果てた部屋に、思わず苦笑いがこみ上げる。

 まずはここから始めなければならないだろう。

 それから、次は学校だ。

 埃をかぶった制服を見て、再びこわばった笑みを作ってみせた。

 


 彼は大きく息を吐きながら、背もたれに身を預けた。

「今日はこんなもんでやめとくか」

「すごいなマシロ。すごく上達したじゃん!」

 お世辞なんかじゃない心からの賛美を込めて小さく拍手を送る。

 画面には可愛らしいタッチのキャラクターが描かれていた。

 マシロは長時間の作業疲れで固まった体をぐっと伸ばす。

「まあ、まだまだだよな」

 今の賞賛を聞いてじゃないだろうが、息を漏らしながら少し得意げに言った。

 何度か伸びを繰り返したあと、握っていたペンを放って、自分が描いた作品をじっと見る。

 マシロはプライドが高いから、きっと修正箇所を探しているのだ。自分で終了宣言しておいて、未練がましく画面をにらんでブツブツとつぶやいている。

 マシロは集中すると独り言をつぶやく癖がある。

 目標を高く持って、いつだって全力で取り組む。そこが彼のいいところ。

 そしてそれが、俺がマシロを応援する理由。



 俺はツバサ。自称だけどマシロの友人兼ライバルだ。

 俺とマシロは同じ美術部員で、うまくもないくせに部誌の表紙を奪い合う仲だ。

 現在はわけあってマシロの応援に徹している。

 こうして放課後に彼の家へお邪魔しているのもそのためだ。

 マシロはこの数か月で素人目にもわかるほど、ぐんと画力が伸びた。

 画材も増えたし、パソコンが苦手だったくせに高価なペンタブまで手に入れて、毎日絵を描いている。

 熱心すぎてちょっと妬けちゃうくらいだ。



 今日も学校から帰宅するなり、着替えもせずマシロはパソコンを立ち上げた。

「帰ってすぐ描くのはいいけど、小腹埋めたりしないの? さっき帰りながら腹減ったって言ってたのに~」

 あきれ半分で思わずからかうが、返事はない。

 どうやらもう作品に集中してしまったらしい。

「別にいいけど……」

 相手にされないとちょっと寂しい。

 しかし邪魔をしたくないのでおとなしく横に座って彼の作業を眺めることにする。

 画面に映し出された絵を見てすぐ、いつもと違うことに気付いた。

「……イラスト風なんて珍しいね」

 俺は萌え絵なんて呼ばれるような絵柄が得意で、マシロは美術っぽい絵、それこそ風景画のような物が得意だったはずだ。

 マシロの絵はまるで水彩画みたいに繊細で、俺の画風にはない美しさがある。デッサンも下手なりに部で一番丁寧だし、本当にその道を目指しても悪くないんじゃないかと思う。

 そういえば彼の絵はいつも見とれてしまうくらい綺麗なのに、ライバルという立場上悔しくてほめたことはなかった。もしチャンスがあれば今度伝えよう。

 ふと最近は授業中も可愛らしい感じのばかり描いてることを思い出す。

 絵柄をガラッと変えるなんて並大抵の苦労じゃない。

 一体どんな心境の変化だろう。

「……ツバサはこんなのが好きなんだろ」

 不意に呟かれた言葉に心臓が大きく跳ねる。

「え、好きっていうか俺にとって描きやすいだけだよ。ま、嫌いじゃないけどさ」

 焦ってとっさに返事する。

 マシロは少し目を伏せて、着色作業に移った。

「これ、ちょっと難しいな」

「そう?」

 難しいとか言う割に、よく描けてると思う。

 それになんとなく俺の絵柄に似ている気がする。もしかしなくても参考にしているのだろう。

 嬉しいような、恥ずかしいような、なんとも言えない気分だ。くすぐったいが少なくとも悪くはない。

 急に浮足立った気持ちを落ち着けるためパソコンから目を逸らす。

 逸らした先の時計が目に入り、だいぶ遅くなっていたことに気付く。

 そろそろおいとましよう。

「バイバイ」と声をかけようとして、マシロの真剣な顔に気付きやめる。

 邪魔にならないとわかっていても、声をかけるのはためらわれた。

 マシロは今必死に頑張っている。

 努力に努力を重ね、もう一度、描くということに手を伸ばそうとしている。

 そんなマシロの足を俺はもう引っ張りたくない。

 陰から応援できればそれでいい。

 それでやめておくべきだ。

「家に帰らなきゃ」

 俺の帰りを両親も待っているから。



 あれからしばらく経った頃、俺が校舎の廊下を歩いていた時だ。

 マシロが美術室にいた。

 あの事故から一年、まったく寄り付かなかったのにどうしたんだろう。

 まさか退部届でも出しに来たのかと悪い想像がよぎる。

 湧き上がる不安を黙らせきれず、申し訳なくなりながら盗み見る。

 どうにか会話も聞き取れそうだ。

「……のか?」

 同級生の声だ。

「ああ。今まで悪かったな」

 マシロの声は堅い。

 ずっと避け続けた相手だから仕方ないだろう。

 マシロの声は続く。

「急に来て、しかも無茶言って申し訳ないと思ってる。けど、僕にやらせてくれないか」

 いつになく緊張した声音から、こうして距離があるのに真剣さがありありと伝わる。

 相手は何も言わない。酷く考え込んでいるようだ。

 重い沈黙が訪れる。

 これではダメだと思ったのか、それとも静寂に耐えられなかったのか、マシロは早口で言う。

「〝アレ〟が完成したんだ!」

 相手の息を飲む気配があった。

 〝アレ〟というのは十中八九、あの俺の絵柄に似たイラストのことだろう。

 この反応からして同級生はマシロがイラストを描いていたのは知っているようだ。

 下校するマシロについて行ったあの日から、なんとなく俺は家に押しかけなくなった。今まで目を逸らし続けたことを突き付けられそうで、終わりが見えそうで、自然と足が遠のいていた。

 たぶん俺がそうやって距離を置いていた間に、話したんだろう。

「マシロ……お前、もう大丈夫なのか? また描けるのか?」

「ああ」

 狼狽えた同級生の問いかけにマシロはか細く、しかしはっきりと肯定する。

「気持ちの整理も……たぶんついた。それに、これ以上は逃げたくないから……」

「……」

 今度の沈黙は長くは続かなかった。

「そうか……実は、まだ部誌の表紙決まってないんだ。よろしくな」

「いいのか! ありがとう。これであいつに……」

 嬉しそうにはにかむ顔を見て、俺はハッとした。

 マシロのあんな笑顔、久しぶりに見た。

 ああ、そっか。もう終わりなんだな。

 気付けば俺がマシロの家に行かなくなってから一か月近く経っていた。



 ガタガタと音を立てて、プリンターからイラストが吐き出される。

 それは一か月以上掛けて制作された作品だった。

 背景は得意な風景画風に、描かれたキャラクターはアニメ調ながら背景から浮かないように何度も調節した。

 あまり大きな声で言いたくないが、渾身の出来だった。

 イラストの紙が曲がらないよう細心の注意を払って持ち運ぶ。

 たった数歩がいやに長く感じた。

 ちょうどパソコンの向かいにあたる棚の前で、イラストを広げる。

「どうだツバサ。まるで合作みたいだろ」

 返事はない。当たり前だ。

 相手は飾られたただの写真なのだから。

 こんなことはただの自己満足。

 でも、どうしても描かなきゃって思ったんだ。

 ツバサが生きていた証に。



 ツバサは僕の親友だった。

 いつの間にかそばにいて一緒に絵を描いていた。

 あいつが描く世界はとても生き生きしていて、描かれたキャラクターがいまにもしゃべり出しそうな印象を受けたことを覚えている。

 絵だけじゃないな。放課後遊び歩いたこともあった。

 友人の少ない僕にとって、生まれて初めての親友だったと言い切っても大げさじゃない。

 なのに……僕は失ってしまったのだ。



 ツバサが死んだのは、一年以上も前だ。

 僕の目の前で車にはねられた。即死だった。

 手を伸ばせば届く距離の親友の死は、僕をおかしくさせるには十分だった。

 学校という小さな世界でツバサとずっと一緒だったから、些細なことでもあいつを思い出す。あいつの死も思い出してしまう。

 そのたびに押し潰されそうな痛みに襲われ、耐えられなかった僕は逃げ出した。

 ツバサを思い出してしまうものは全部拒絶した。

 葬儀に顔を出さず、学校に行かなくなり、やがて絵を描くことも見ることもやめた。今まで描いた綺麗な風景が嘘っぱちに感じて、破り捨てたことも少なくない。

 薄暗い部屋に閉じこもって、闇雲に震えた。

 おびえて、おびえて、自分を責めるうちに、ある日突然吹っ切れた。

 曇天の雲を切り裂いて光が差し込んだようだった。

 なんの前触れもなく「ツバサの世界を描きたい」そう思った。

 それからは自分でも驚くほど行動を起こし続け、絵を描きまくった。

 描くたびに、不思議とツバサに背を押された気がした。

 縮んでしまった世界を少しずつ修復して、僕はようやくこの現状まで来れた。



 あの時、僕が描きたかったものはなんとか形になった。

 しかしまだ足りない。圧倒的に足りない。

 これからもっとツバサの絵を描くだろう。

 尊敬や嘆きなんかじゃない、名も知らぬ感情に突き動かされて。

 この最初の一枚はまだまだ拙いが、今はこれで満足だ。

 あいつがどう思うかは知らないが。

「長い付き合いになりそうだな」



 完成したイラストを写真立ての隣に置く。

 明日、家に持っていってやろう。それから、線香でもあげて報告しようと思う。

「ツバサ、お前の画風って簡単そうに見えてすっげぇ難しかったよ」

『そんなことないよ~。これ俺より完成度高いって』

「なんかちょっと違うが、それは勘弁してくれ」

『ううん。本当に嬉しいよ。ありがとう、マシロ』

 写真に向かって柄にもなく笑みを浮かべ、恥ずかしい独り言を垂れ流しつつも、僕は久しぶりに清々しい気分だった。

『……ずっと応援してる。今度こそ、本当にバイバイ』

 心なしか写真の中のツバサが笑みを深めたように見えたが、作業疲れの錯覚だろう。

 さて、そろそろ片づけて寝よう。

 明日からきっと忙しくなるのだろうから。


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