勝負 1
相沢はゆっくりとマウンドに登る。
裕也も兄の影響で高校野球をしていたため、捕手をしてくれることになっていた。捕手が居るか、居ないかでは投げやすさが全く違う。裕也はマスクを着けてホームベースの向こう側で準備を終えていた。
マウンド上で相沢は空を見上げる。真っ青な空。どこまでも突き抜けていきそうなほど、青い空。
そして、あの夏を思い出す。どれだけ泣いただろう。でも、野球を好きな気持ちだけは捨て切れなかった。
純真に野球が好きだったあの頃。今の自分はあの時の自分より、ちゃんと成長出来ているのだろうか。野球を好きだという気持ちは変わらないままだろうか。
草野球の軟式ボールから、プロ野球は硬式のものに変わる。投げる時の指先の間隔、腕の振り抜き方もそれに伴って変えなければならない。自主トレ期間は硬式に慣れるための投げ込みもメニューに多く組み入れた。
大丈夫なはずだ。感覚は戻っている。
しばらく裕也とキャッチボールをするうちに、その考えは確信へと変わっていく。
「相沢さん、良いですか?」
栃谷は金属バットを手にして、そう確認した。プロ野球では木製バットを使用するが、栃谷の実家には木製バットが無かったため、金属バットで勝負をすることになったのだった。
「うん、良いよ。投球練習はいらないから」
「え?大丈夫なんですか?しかも、僕は金属バットですよ。ハンディとか要りません?」
相沢は「投球練習もハンディも要らないよ」と微笑んでいる。
「そうですか。じゃあ、お願いします」
相沢は勝負をすると言ったものの、細かい説明はしなかった。3球勝負、1打席勝負、3打席勝負、いろんな方法があるかもしれないが、お互いが言葉を交わさずとも分かっていたからだ。「双方が納得するまでの勝負だ」と。
マウンドで相沢は足をプレートに掛ける。やはり、スパイクで無いのは違和感がある。だが、これくらいなら想定内だ。裕也が構えるミットを凝視しながら、ノーワインドアップで始動を始める。
相沢の身体はゆっくりと折りたたまれるように低く沈み込むと、地面すれすれの所でボールをリリースした。
スピードは恐らく120キロ後半というところだろうか。ボールは右打者の栃谷に向かい、浮き上がるように伸びていく。栃谷の好きな内角高めのストレート。だが、栃谷は手が出なかった。
「アンダースロー…ですか」
アンダースローとは、俗に言う下手投げと呼ばれる投法でストレートは低い位置からホップするように見える。軌道が通常の投手で多いオーバースローとは違うため、初見、それも1球目で捉えるのはプロでも難しいだろう。
裕也からボールを返される相沢の目に、いつもの穏やかな感情は浮かんでいなかった。獅子が獲物を狙うような、冷徹な表情だった。
そして、栃谷の言葉にも答えることなく、淡々とマウンドに戻って再びモーションを起こす。
ストレートの軌道は分かった。だが、次もストレートが来るのか変化球が来るのか分からない。球種も何があるか分からない。栃谷は狙い球も定まらないまま、慌てて構える。
相沢の手から放たれたボールは先程と同じコースへ向かっていく。
「また、ストレート!」と栃谷は心の中で呟きながらバットを振る。しかし、ボールに触れることなくバットは空を切った。裕也のミットに心地良い音を立ててボールが吸い込まれる。
返ってきたボールを受け取りながら、相沢は云った。
「栃谷君、真剣にやってよ」
栃谷を哀れむ様に相沢は冷淡に言い放つ。普段から温厚な栃谷もその態度にイラつき、相沢を強く睨みつける。
「僕は真剣にやってますよ!」
相沢は、今度はヘラヘラと笑いながら見下す様に忠告をした。
「そうなの?それが真剣にやっている姿だというなら、本当に野球を辞めた方が良いかもね」
「もう一回、言ってみてください」
栃谷の手は怒りで震えていた。
「文句があるならね、僕の球を打ってから言えば良い。それがプロだろう?ダサいよ。そんな姿は。素人の球を打てないプロ?裕也君から聞いたよ。君は森国監督に憧れて野球を始めたんだろう?君が目指していた森国さんの姿と比べたら、今の君はそこらの草野球の選手よりダサい」
そう、栃谷が野球を始めたきっかけは森国だった。
栃谷はゆっくりと深呼吸すると、あの頃の自分を思い出していた。
小学校の時、母親が連れて行ってくれたプロ野球の試合。もちろん、家計が苦しい中で、必死に貯金して貯めていたお金で連れて行ってくれたのだ。きょうだい全員が喜んで、一緒に出かけた。
初めて行くプロ野球の試合。その熱気に栃谷は興奮した。「こんなにも野球を好きな人が居るのか」と。
当時、まだ森国は若手だったがすでにレッドスターズの不動の四番としてバッターボックスに立っていた。
1ー2と1点差の九回裏二死、二塁。忘れもしないあの瞬間。
森国が放った打球はサヨナラホームランとなって、栃谷の目の前に飛び込んできた。湧き上がる大歓声の中、栃谷は懸命にそのボールを追いかけた。何とか掴み取ったそのボールは、栃谷にとってキラキラと輝きを放っていた。
試合後、母が球場の係員に何やら掛け合っていた。そして、何度も頭を下げている。暫くして、係員が家族全員をある場所に誘導した。
「こんばんは」
栃谷の前には、試合を終えたばかりの森国がユニフォーム姿で立っていた。格好良かった。月並みな言い方かもしれないが、格好良かったとしか言えない。
「森国選手!格好良かったです!ホームラン!」
「ありがとう。君が僕のホームランボールを拾ってくれたんだね」
森国は栃谷の頭を撫でながら、そのホームランボールを眺める。すると母が申し訳なさそうに頭を下げた。
「森国さん、無理を言ってしまい申し訳ありません。会っていただいてありがとうございます」
「いえ、お母さん、全然良いんですよ。わざわざ持ってきていただいてありがとうございます」
「それではこのボールはお返ししますので」
二人のやりとりを聞いていた栃谷は驚いて母に訊く。
「え?お母さん、これは返さなくちゃいけないの?」
母は栃谷に対しても申し訳なさそうに諭した。
「今日はね、森国選手の息子さんの2歳の誕生日なんだって。もし、息子さんが大きくなった時に、そんなボールがあったら記念になるじゃない?だから、このボールは森国選手に返した方が良いと思ったの」
栃谷はもちろん悔しかった。せっかく手に入れたボールを返さなくてはならないのかと、母の方を見つめていた。だが、母は穏やかに言ったのだ。
「お母さんはね、思ったの。みんなで初めて見に来た試合。凄い試合だったよね。感動したよね。森国選手にとっても、子供のためにって、今日の試合を頑張ったはずだよね。もし、お母さんが森国選手だったら、この素晴らしい日を、大きくなった時に子供に話したい。『君が2歳の誕生日にサヨナラホームランを打って、そのボールがこれなんだよ』って。もし、それを貰ったら息子さんは嬉しいよね。だから返した方が良いと思ったの。その代わり、お願いしたのよ。森国選手に合わせてくださいって。よく考えてみて。ホームランボールを持ってる人は沢山居るかもしれない。でも、こうやって試合後に森国選手に会える人は少ないはずよ。お母さんは家族みんなで、最高の思い出を作りたかった。だから、ボールは返しましょ?」
栃谷は子供心ながらに納得した。確かにこのホームランボールを手放したくはないが、森国に会えたことはそれ以上に凄いことなのだと。
森国は栃谷の目線までしゃがみ込み、両肩を掴んで感謝した。
「本当にありがとう。僕だけじゃなく、僕の息子の分もお礼を言うよ。本当に、本当にありがとう」
栃谷はそっと森国に対してボールを手渡した。そして、ふと思いついたことを口にした。
「森国選手はカッコよかったです。だから、いつか、僕もプロ野球選手になりたいとおもいました。そしたら一緒に野球してくれますか?」
森国は笑顔を浮かべて迷わず言った。
「もちろんだよ。君が来てくれたらうちのチームは日本一になれるかもしれない。だから、待ってるよ」
栃谷にとっては記念すべき日であり、家族にとっては一生記憶に残る1日になった。
翌週、森国から小さな小包が送られてきた。別の日に打ったホームランボールと手書きの手紙。母はそのボールを栃谷に渡し、きょうだい全員を集めてその手紙を読んだのだった。
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