故郷
栃谷の故郷は島根の外れ、山間の小さな町だった。無人駅を降りると、駅前には数件の商店とバス停があるだけ。
「のどかなところだね」
「そうでしょう。自慢できるのは静かなところってぐらいですから」
少し肌寒い風が一陣、吹き抜ける。春の兆しが感じ取れるようになってきたとはいえ、まだ三月の山陰だ。キャンプ地から比べると、その気温差は大きかった。相沢は薄着で島根に乗り込んできたことを多少、後悔していた。
やがて訪れたバスに二人は乗り込み、一番後ろの席に間隔を空けて腰を下ろす。結局、利用者は相沢と栃谷だけで、車内には二人の会話だけが響いていた。
「相沢さん、大丈夫だったんですか?監督は怒ってませんでした?」
「ああ、大丈夫だったよ。上手く説明してきたから」
栃谷は「そうですか、ありがとうございます」と、座ったまま頭を下げようとする。だが、腹部の贅肉のせいで、深く腰を折ろうとしても途中でそれが止まり、軽い会釈ほどにしか見えない。
「栃谷君、全然頭が下がってないよ。ちょっとしたヘッドバットにしか見えない」
相沢が吹き出しながら、そう指摘すると栃谷は「これが限界でして」と苦笑いを浮かべる。
そうしているうちにバスが目的地へと到着した。
「ここです」
バスを下車し、栃谷に促されて前を見る。バス停の前に古い一軒家が佇んでいる。
「へえ、ここが栃谷君の家か」
木造で建物自体は歴史を感じさせたが、小さい穴が空いていた跡のある壁も丁寧に修復されており、手入れはきちっとされているようだ。
「さあ、中に入ってください」
栃谷の後に続いて玄関へと向かっていく。
「帰ったぞー」
栃谷が入り口の引き戸を開けると、一人の男の子が出てきた。
「兄さん、おかえり」
「急に帰ってくることになってごめんな、裕也」
体型は栃谷と正反対で、どちらかというと痩せ型。恐らく高校生ぐらいだろうかと相沢は予想したが、実際にはすでに高校を卒業していた。
「この人は同じチームの相沢さんだ。あ、相沢さん、こっちは弟の裕也です」
相沢が「初めまして」と挨拶すると、裕也は「兄さんがお世話になっております」と丁寧に返してくる。
「ねえ、本当に栃谷君の弟?いやにしっかりしてるけど」
「そりゃ、兄さんと比べたら絶対にしっかりしてる自信はありますよ。でもプータローなんですけどね」
照れくさそうにする裕也の頭を、栃谷は「そんな事胸を張って言うんじゃないよ」と笑いながら叩いている。
「きょうだいって、楽しそうだね」
その光景を見ながら、相沢は思わず、そうこぼしてしまった。
家の中に入ると、相沢たちは仏間へと向かった。仏壇には栃谷の母、由美子の遺影が飾られている。やはり、若い。その笑顔は例えるなら、夏に懸命に咲く向日葵のように、周りの人たちを自然と笑顔にするような、明るさに包まれている笑顔だった。
「紹介します。うちの母です」
栃谷がまるで生きているかのように自分の母親を紹介する。
相沢は遺影の前で線香をあげて、手を合わせる。
次に栃谷も線香をあげ、遺影に語りかけた。
「母さん、ただいま」
遺影の中の由美子は、当然の事だが変わらず微笑み続けている。
栃谷は言葉こそ発しないものの、心中で何やら報告しているような様子だった。
「お茶どうぞ」
後方から聞こえた裕也の声に、相沢は腰を上げてそちらへと移動して、低いテーブルの前に再び腰を下ろした。
栃谷の報告は以前に続いていたため、相沢は先に湯のみに口をつける。
「相沢さん、兄はどうですか?上手くやってますか?」
「あ、実は僕も最近入団したばっかりで。でも、凄く頑張ってると思う」
「そうですか、ちょっと安心しました。兄は昔から優しすぎるところがあるから、プロの世界でやっていけるか心配してたんです」
その心配は相沢も同じだった。母が亡くなったことで目標がなくなった栃谷は、ガソリンの入っていない車のようなものだ。性根が優しいからこそ、母を喜ばせようという純粋な思いから、我武者羅にやってきた部分は大きいだろう。
だが、その目指すべきところが無くなってしまった。もちろん、目標など選手それぞれ違う。しかし、全員が何かしらのモチベーションを持ってしのぎを削っているのだ。その中で燃え尽きたような選手が生き残っていけるほどプロの世界は甘くない。
「裕也君、ちょっと教えてもらいたい事があるんだけど」
栃谷の家を後にしてから、相沢と裕也はある場所へと栃谷を連れて行った。
「ここは…」
栃谷は懐かしさを覚えていた。甲子園出場を決めた高校三年の夏。決勝が行われたのが、この島根県営球場だったからだ。
「栃谷君、ちょっと僕に時間を貰えないかな?」
「え?ええ、構いませんけど、一体何を?」
「栃谷君、これから一勝負しない?そして、これで今の自分に答えを出したらどうかな。僕は言っても、去年までは草野球をやっていた人間だ。もちろん、プロの投手に比べたらまだまだ未熟な投手だと思う。ただ、そんな僕の球すら打てないようなら、君は野球をきっぱりと辞めたほうがいい」
そう告げる相沢の目は全く笑っていない。そこでようやく相沢は冗談を言っているのではないと栃谷は理解する事ができた。
「分かりました。僕にもプロとしてのプライドがあります。必ず打ってみせます」
相沢は含み笑いを浮かべると、裕也がいつの間にか用意していたグローブを受け取り、ゆっくりとマウンドへと歩んでいった。
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