栃谷の過去

「美味しいね、ここ」


どんな胃袋をしているのだろう。相沢は栃谷が必死に肉を頬張っているのを唖然として見ていた。すでに目の前には空になった皿が山のように積み上げられているが、それでも栃谷の満腹中枢はサインを出さないようだ。


「えっと、栃谷君、ここ割り勘…だよね?」


栃谷は幸福そうに笑顔で答える。


「そうですよ。最初に言ったじゃないですかー」


確実に割り勘負けする。


相沢は別に倹約家なわけでもない。契約金という思わぬ収入も入った。だが、ここまで食べられると流石に悔しさが溢れてくる。

相沢が変な対抗心を抱いてしまったことで、いつの間にか二人とも会話は交わさず、黙々と肉を口に運び続ける時間が続いた。


食べ始めてから一時間ほどした頃、栃谷はようやく箸を止めた。相沢はとっくにギブアップし、項垂れながらはち切れそうな腹を撫でていた。


「相沢さん、美味しかったですね」

「あ、ああ、それにしても、き、君はいつもそれくらい、食べるのか?」


相沢は苦しそうに問い掛けるが栃谷は平然とした表情で「普段はもっと食べますよ。だって割り勘だから、ちょっと今日は気を遣って少なめにしておきました」と笑う。


恐ろしい。ああ、恐ろしい。一体、どんな胃袋をしているのか。大食い選手権に出れば、必ず上位に食い込むだろう。


「僕、昔から貧乏だったんで、焼肉に来るとどうしても食べすぎちゃうんですよね」


相沢の胃袋は少しずつ落ち着きを取り戻してきた。


「そ、そうか。家庭がね」


なるほど、その貪欲さはそこから来ていたのか。


「そうですよ、ご飯のおかずはきょうだいで取り合いでしたからね」

「ちなみに何人きょうだいだったんだい?」

「五人です。僕はその二番目で。でも、昔から気が小さいからご飯の時はいつも取り合いに負けてて」

「なるほどねえ」


相沢はここでようやく本来の目的を思い出した。


「そう言えば、栃谷君てなんでプロ野球選手になったの?」


栃谷はいつの間にか注文していたアイスクリームを頬張りながら答える。


「あ、僕の場合はね、お金を稼ぐためですね。うちは早くに両親が離婚して、父親がいない家庭でして。まあ、ありがちな話ですが、母が一人で僕たちを育ててくれたんですよ。だから、僕も大人になったら普通の仕事をするつもりでした」


「へえ、お母さんがねえ」


「はい、うちの母は大変だったと思います。きょうだいのうち四人が男でしたし、食べる量もみんな半端じゃなかったですから。僕も高校進学の時、野球を辞めるつもりでしたし」


「でも、続けさせてくれたんだ、野球」


「はい。本当は商業系の高校に行って、高卒で働こうと思ってたんですが、でも、受験の時期のある日、学校から帰ると驚きました。母は新しいグローブとスパイクをすでに買っていて、それを僕の机の上に置いてくれてたんです。そうなったら、母の思いを無駄にすることはできない。母も見抜いてたんですね。僕が野球を辞めようとしている事を。そして、夕食の準備をしていた母のところに行って、感謝しました。何度もありがとうと泣きながら言ったことは今も覚えてます。そしたら、母は言ったんですよ。『あんたさあ、うちのことは気にしないで良いから。だから、やるなら日本一になんなさい』って」


「良いお母さんだね。分かってたんだ、栃谷君の気持ち」


「ええ。でも、その日から夕食のおかずはずっと安い鶏肉の唐揚げとかでしたけどね。きょうだいにも迷惑をかけたと思います。野球って案外お金かかるじゃないですか?だから、みんなが僕のために色んなことを我慢してくれてたんです。母ときょうだいがいたから僕は今、ここに居る事ができるんです」


「それなら、プロ野球選手になった時、お母さんは凄く喜んだんじゃない?」


「ええ、そりゃ、天と地がひっくり返りそうな勢いで小躍りしてました。でも…」


「でも?」


栃谷の表情が急に曇った。


「母はもう、この世には居ないんです」


「亡くなったの?」


「ええ、去年、ガンで。まだ、52歳でした。五月でシーズン中だったんですが、その日の試合が終わってから、兄から電話があって亡くなったと。本当はもっと親孝行したかったんですけどね。それから、自分がプロ野球選手でいる目的が無くなっちゃった気がして」


「今日、泣いてたよね?もしかして、お母さんの事を?」


「ああ、すいません。バレてましたか。あれは鮫島君の言う通りです。母が亡くなってからヤケ食いを繰り返してたんです。そしたら体重も増えて、自分のスイングはできなくなりました。母が居たらきっと怒ると思います。でも、その母は居ない。背中を押してくれていた母が居なくなり、僕は何のために野球をするのか、どうしたら良いかが分からなくなってしまったんです。そう思ったら自分が情けなくて、情けなくて」


「そういう事だったんだね」


栃谷は手をパンッと叩いて話題を変えようとした。


「ああ、話が暗くなっちゃいましたね。そろそろ出ましょうか」


栃谷の提案に相沢は頷き、会計をしてから外に出た。

もちろん、割り勘負けした。だが、そんな事はもうどうでも良い。


「なあ、栃谷君」

「何ですか?」


相沢は一歩外に出て空を見上げる。すると、一筋の流れ星が輝いた。相沢はそれを見て何となく思いついた事を口にした。


「栃谷君、実家ってどこだっけ?」

栃谷は満足そうに腹をさすりながら「島根ですけど」と云う。

相沢は栃谷の肩をポンと叩く。


「明日、島根に行こう。一緒に」


栃谷は目を丸くして、「へっ?」と言葉を失ったが、相沢はそれを気にせず、早足で宿舎の方に歩き始めていた。

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