第2話 暴君ディオニス

 月の光がメロスを照らしていた。

 セリヌンティウスの食事はいつも通りのおいしさで、思っていた以上に時間を取ってしまった。


 メロスの性格を熟知したセリヌンティウスの策略にメロスはまんまとはまっていたが、満腹になったメロスは石畳の道を浮かれ気分で歩いている。


 道の両側に石づくりの建物が立ち並び、昼間なら商店もあるはずだが、それらは片付けられ、ひっそりとした繁華街。

 街灯も灯ってはいたが、シラクスの街は静かだった。


 2年前にメロスがシラクスに来たときは、夜でも人々が歌えや踊れやの大騒ぎをしていた。けれど今は家々の扉は固く閉ざされ、歩いている人もほとんどいない。


(ボクは嫌いじゃないけど)

 村の牧人ぼくじんだったメロスには心地よい静寂だった。


(誰もいないみたいだ)

 王がいる都、王都とは思えなかった。

 満月の蒼い光が辺りに降り注ぎ、建物を幻想的に魅せていた。


(綺麗だな……)

 メロスは笑みを浮かべ、踊るように歩く。


 ちらちらと明かりの見える家もあるが、声は聞こえてこない。人々は恐怖から用もなく出歩くことをしなくなった。商店は必要最低限の売買しかできず、市民は暗い顔をしている。


 シラクスの王、暴君と呼ばれているディオニスの命令で華美な装いはなくなっていた。かつては美しかったであろう館も主をなくし、重厚な建物が明かりもなくひっそりとしていた。


(ここも空き家かな?)

 特に高級住宅街だったはずの一角は、人けがなかった。贅沢を注意され、王城へ呼び出されたが、それを拒んで十字架にかけられたのかもしれない。


 シラクスは活気のある美しい街だった。しかし、取り締まりが厳しくなり、悪事を働けばすぐに捕まり、王の判断で悪質だとされると簡単な手続きで磔刑たっけいにされた。


 磔刑とは十字架に手足を打ち付けられ、死ぬまで放置される処刑方法で、悪いことをすればこうなるぞという見せしめでもある。


 ディオニスは悪心を抱いているとして、臣下であろうと身内であろうと処刑した。そして質素倹約を推奨し、少しでも贅沢をすると処刑される。


 王都シラクスは、いままでになく厳しく取り締まられていた。

 ディオニスは人を信じず、少しでも彼が気に入らないことをすると、処刑されてしまう。


 犯罪者はもちろんだが、そうではないと思われる人間も罰され、市民はおびえて暮らしていた。ディオニスの気分一つで何も悪いことをしていなくても磔刑になってしまうかもしれない。


 犯罪は少なくなったが、シラクスを訪れる者も少なくなってしまい、市民もできれば離れたいと考えていた。でも、受け入れてくれる都市はない。逃げても追ってくると言われていた。

 シラクスは活気が失われ、外を出歩く人は下を向いてこそこそしている。


 そんなシラクスの街を、夜間、軽やかな足取りで出かけるなど、ふつうの神経では考えられなかった。


(財産没収とかって、潤うよな、財政……)

 メロスは呑気にそんなことを考えながら歩いていた。


 けれど、暴君と言われているディオニスは、己が贅を尽くすタイプではなかった。彼は市民以上に質素な生活をしている。


(厳しい生活を楽しんでるみたいなとこあるし……)

 ディオニスは他人に厳しいが、自分にはもっと厳しい王だった。


 メロスは妹への結婚祝いを買うために、妹が好きそうな雑貨がある店に向かっていた。セリヌンティウスに止めろと言われていたのに、ドアをノックして開ける気満々だった。


 メロスが寄り道して会う相手はもっと遅い時間に来ると思っていたので、石畳の道をのんびりと歩く。手のひらを上に向け、月明りでできる自分の影を見ながら楽しそうに。


 そして、明かりの消えた大きな館の戸口の前を通り過ぎようとしていた。

 メロスは何の警戒もしていなかった。


 他の場所と同じように、ただ通り過ぎようとしていると、いきなり、後ろに引っ張られ、驚く間もなく館に引き込まれた。


 誰もいなくなった街道。

 メロスが歩いていたことなど、誰も知らなかった。


 静かな街だった。



**



「なっ?!」

 真っ暗な館に引き込まれ、メロスは何が起こっているのか理解ができなかった。小さな悲鳴を上げたが、口を押さえられ、後ろから抱きしめられる。


「んんっ!」

 叫ぼうとしても声が出ない。力強い、男の手だった。


 声を出せたとしても、助けが来てくれるとは思えなかった。この辺りはもう人が住んでいないかもしれない。


「んっ!」

 戸口に手を伸ばすが、届きそうで届かない。

 引きずられるように扉から離され、奥に連れて行かれる。


(気配、感じなかった……)

 自分のうかつさを呪った。


(どうしよう……)

 殺風景な部屋に、利用できそうな物は見当たらなかった。


 壁に押し付けられ、口を押さえられたまま、肩の留め金に手をかけられる。メロスはビクっとする。脱がされるのを止めようと抵抗するが、メロスの制止などものともせずに外された。


(もしかしてヤバい?)

 頭の中が真っ白になった。


 何が起こっているのかもわからず、声を出すこともできず、壁に押し付けられ、抱きしめられる。


 口から男の手が離れたので叫ぼうと息を吸い込む。

 そして止まる。 


(あれ?)

 嗅いだことがある爽やかな香りがした。

 草原の風を感じ、それでいて高貴な。


 確かめるように、クンクンと嗅ぐ。

(この匂い……)


 そっと抱き返し、さわさわと背中をなでる。馴染みのある感触。

 メロスは月明かりで横顔を見て、体の力が抜けた。そして体を預ける。


「はぁ……」

 安堵のため息をついた。

 その様子を見て、男はメロスに軽く口づけをすると、メロスは口づけを返す。


「おい……」

 顔はにやけていたが不満そうな声を出し、男はメロスの髪をかき上げた。メロスは嬉しそうに笑いかける。メロスの恋人が笑いをかみ殺すように見つめていた。


 癖のある短めの黒髪の青年。

 キリっとした眉は意志の強さを表しているかのようだった。


 メロスを可憐に魅せるが安くて一般的なキトン(古代ギリシャで着られていた服)とは違い、ただ巻いただけのシンプルな作りだが彼はシルクのキトンを着ていた。高価だが、機能、その他諸々を考えてそれに落ち着いた。


 鼻筋が通り整っている顔。彼をモデルにして彫刻を作れば、誰もがほめたたえるであろう肉体美。

 自分を見つめている暴君と呼ばれている男に、メロスは腕を絡ませキスをした。


「お前は暴漢ぼうかんに襲われてもこんなことをするのか?」

 自分のことを暴漢と言ったディオニスは、メロスにキスをする。


「こういう暴漢だったらするよ」

 メロスは笑顔を向けた。


 贅肉はなく、痩せて見えるが、キトンの下には鍛えられた肉体がある。

 メロスはそれに触れる。


「もう少し抵抗しろ。つまらぬではないか」

 みめ麗しい青年は、満足そうにメロスを抱きしめる。


「心臓、止まるかと思ったよ」

 先ほどまで生きた心地がしなかったメロスは、それを思い出して不満げに言う。


「止めるでない」

 ディオニスは命令するように言いながらキスをしてくる。


「じゃ、こういうのやめてよ。マジでビビったし」

 まだ、心臓がバクバクしていた。


「早く王城を出られたのでな、迎えに来た」

 暴君と呼ばれるディオニスが優しい笑顔を浮かべ、メロスを見つめていた。


「迎えに来たっていうか、待ち伏せだよね」

 メロスは批難の目を向ける。


「嫌か?」

 ディオニスは嬉しそうにメロスの頬に触れる。


「ふつうに来てほしかったけど……」

 恥ずかしそうに頬を染め、うつむく。


「たまにはいいであろう?」

 ディオニスは楽しそうにメロスに触れる。


「っ!」

 メロスはビクっとした。


「……たまになら、いい」

 囁くように言う。ディオニスはフンと鼻で笑い、脱がしかけていたキトンの下の肌に直接触れる。


「……訓練は、しなくていいの?」

 とぎれとぎれの息で、メロスは甘えるように聞いてきた。


「む……?」

 ディオニスは無表情に恋人を見下ろす。


「このまましちゃう?」

 いたずらっ子のような顔で微笑み、メロスはディオニスを見つめる。


 ディオニスはメロスにキスをした。

 そして、深い息を吐いて吸った。


「さっきのあれはなんだ?」

 急に不機嫌な顔になり、腹から出るような凛とした声でディオニスは言う。


「ん?」

 メロスはビクっとして背筋を伸ばす。


「私が教えたことを、何もできなかったではないか」

 暴君の片りんが見え隠れする冷たい声が響く。


 本気で怒っているようだ。

 顔が恋人ではなく、鬼軍曹になっていた。


 怒られたメロスは目をぱちぱちさせ、首を傾げる。

 やぶ蛇だった。


「……予想、できなかったし」

 しまったと思いつつ、おどおど答える。


「予想ができぬとは何事だ。暴漢が『今から襲います』とでも言うと思っているのか?」

 切れ者暴君ディオニスは、早口にまくしたてた。

 メロスはしゅんとしてしまった。


「まず、歩き方。なんという気の抜けた歩き方だ? あれでは襲ってくださいと言っているようなものだぞ。私だったからいいものの、他の怪しい連中ならどうなっていたと思うのだ?」

「キビキビ歩く必要とかないし」


 メロスはセリヌンティウスの家の用心棒ではあったが、それは衣食住をセリヌンティウスが見るための言い訳にすぎず、呑気な無職だった。


「必要がないとは何事だ? 歩くときはきちっと歩かないか。手を見ながらあっちへふらふらこっちへふらふらせず、まっすぐ歩け」


 どこから見ていたのだろうという疑問がメロスに浮かぶ。ディオニスはわりと前からメロスを見ていた。


「あ、そだ」

 メロスはそれで思い出した。


「なんだ?」

 しかめ面で暴君が村の牧人を見る。


「あのね、月の光で地面に影ができてたんだよ。すごくない?」

 怒られていたことを忘れたかのような無邪気な笑顔だった。ディオニスはその笑顔を見てピクっとする。


「すごくない」

 あっさりと否定した。


「後でディオも一緒に観ようよ。綺麗だよ」

 とびきりの笑顔でメロスは言った。


 それは月夜のお花畑のようだった。

 メロスはディオニスに会えるのなら怒られようとわりとどうでもよかった。


 その姿を観て、ディオニスはメロスにキスをする。

 メロスは幸せそうに微笑む。


「大好き、ディオ……」

 自分を見上げる恋人を、ディオニスは無表情に見つめ返す。


「暴漢から逃げる訓練を行う」

 愛らしすぎる恋人を見た暴君は、改めてそう言った。


「は?」

 メロスがきょとんとしていると、鬼軍曹モードのディオニスはメロスを押し倒して床に押し付けた。


「イテっ」

 背中に床の冷たい感触。


「私から逃れてみよ」

 体と体が密着する。


「考えること、ホント、エロいよね……」

 少し呆れ気味に、体を動かそうとする。


「ん……?」

 動けない。


「あれ?」

 技が決まっていた。


「早く逃げぬか」

 暴君は楽しそうに恋人があがくのを楽しんでいた。


「ん……!」

 ビクともしない。


「まじめにやらねば、やってしまうぞ……」

 熱い息がかかる。ピクっと体が反応する。


「そんなこと言われたら、力、入らないよ……」

 メロスは絞り出すように言い、熱い瞳で恋人を見つめる。


「……それでは成果を出したとは言えぬぞ。本気で逃げぬか」

 苦虫をかみつぶしたような顔で言いながらも首筋にキスをする。


「ん……」

 メロスが甘い吐息をもらす。


 ディオニスの眉がピクっとする。

 ディオニスは、少年のようなメロスを襲おうとしている暴漢を演じているのである。


 そういう時は、どうやって逃げればいいのかを教えようとしているのだ。と、自分に言い聞かせていた。


「逃げたくない……」

 メロスのグリーンの瞳が月明りに照らされ、柔らかく微笑んだ。


「ずっと、ボクを抱きしめていて……」

 メロスはディオニスを抱きしめた。寝技をかけようとしていたがやめた。


「暴漢にそんなことを言うやつがあるか」

 怒りを押し殺したような顔で暴君は言うと立ち上がり、メロスを抱き上げた。


「え?」

 いきなり浮いたので驚き、メロスはディオニスに抱きついた。


「おまえが本気で逃げぬから奥で再訓練だ」

 それを聞いてメロスは目をぱちぱちさせた。


「なんで奥に行くの?」

「長椅子がある」

 耳元で言い、そのついでのように首筋に口づけする。


「長椅子?」

 座る物だが眠ることもあり、そこでする場合もある。


「そこで改めてみっちり訓練をする」

 真面目な顔で言う。


「訓練なの?」

 嬉しそうにメロスは言う。


「そうだ。今度は…………本気で逃げよ」

 耳元で熱くささやく。


「逃げなきゃダメ?」

 上目遣いに愛らしく聞く。


「逃げられるものならな」

 それを聞き、「は~い」とメロスは無邪気に笑う。


「訓練だと言っているであろう。本当に怒るぞ」

 暴君は真剣な顔で言う。


「怒っていいよ」

と、メロスは嬉しそうに抱き着く。


 ディオニスは優しい笑みをこぼすと、

「バカ者めが」

と小さな声で言った。


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