ヴァーミリオンの空の下

絢野悠

第1話

 僕たちを乗せた自転車は、速度を上げながら坂を下る。


 いつもの帰り道だけど、その景色はいつもとは少し違って見えた。


「大丈夫か晴海はるみー」

「うん大丈夫だよー」


 全ては真帆まほの気まぐれで二人乗りをすることになった。


 僕は自転車に乗ってから、真帆の腰に腕を回したままだ。


 女の子と自転車の二人乗り、しかも男の僕が後ろだなんて、最初は恥ずかしいと思った。しかし自転車に乗ってからしばらくして、腕の上にかかる重圧にも慣れている。恥ずかしいなんて気持ちはもうどうでもよくなっていた。


 真帆の背中に身を任せて目を閉じた。


 僕が抱きついた形になっているのに、真帆に包んでもらっている感じがする。それくらい真帆の背中が安心できるのだ。


 僕は小学二年生のときに引っ越してきた。そして、向いの家に住んでいたのが真帆だった。それからずっと、彼女にはお世話になりっぱなしだ。


 元々明るい性格でなく、人の輪に溶け込むのも積極的にできない。そんな僕に、引っ越した先で友達ができるわけもない。けれど真帆は手を差し伸べてくれたんだ。一緒に学校に行こうって、一緒に遊ぼうって、いつでも僕を気にかけてくれていた。


 気持ちのいい秋風は、夕日で焼けそうな頬の温度を下げてくれる。


 長い長い下り坂。


 僕の気持ちとは裏腹に自宅に近付いていく。


 思い返せばいつも真帆は僕を引っ張ってくれていた。


 誰かにイジメられていても助けてくれたし、運動会なんかでは必ず応援してくれるのだ。小学校、中学校、高校と、登下校は僕と真帆は二人だった。冷やかされることもあったけど、真帆はそのたびに冷やかしてくる人たちを追い返していた。僕は、そんな真帆のことを見ているのが好きだった。だから冷やかされても、それが苦痛だと思ったことはない。


 そう、今まで一度も。


 でもいつからだろう、いろいろと考えるようになっていた。


 僕は身長も低くて運動も苦手、お世辞にも人付き合いが得意とも言えない。それでも真帆は、家が目の前というだけで、ここまで世話をしてくれている。だから僕は真帆のために何か出来ないかなって、ずっと思考を巡らせていた。それは今でも変わらなくて、いつでも真帆のことを考えている。


 友達には「それは恋なんじゃないか」って言われたこともある。でもこれが恋なのかは、僕には判断できなかった。


 真帆の一挙一動を見ているのはとても楽しい。見ているだけで胸が温かくなってくる。時々する失敗もなぜか可愛く見えて、そういうときは僕が助けに回った。誰かがイジメられれば突っ込んでいく真帆。それを止める僕。赤点を取って沈む真帆。勉強を教える僕。それが、僕と彼女の関係だ。


 小学校の頃は真帆のことが好きだった、のだと思う。正確には憧れだったのだ。僕にはできないことを、真帆は平気でやってのける。だから憧れていたんだ。


 でも、いつしか違う感情へと変化していることに気がついた。負い目、というやつだと思う。明るくて、一緒にいると楽しくて、友達も多い幼馴染みの真帆。そんな彼女を好きになっても、たぶん僕は報われない。彼女にはもっと素敵な人がいるはずだから。


 僕は彼女を嫌いになったわけじゃない。ただ、諦めたんだ。諦めたのに、今でも真帆と一緒い学校に行って、一緒に帰って、遊ぶことも多い。休日には僕の部屋に勝手に上がり、夜までゲームをしたり漫画を読んだりして、うちで晩御飯を食べて帰っていく。たまに「帰るのが面倒くさい」と言って、風呂に入ってそのまま寝てしまうことだってあった。


 どういう関係なんだろうと悩んでいた。ここ一年くらい、ずっと悩んでいる。


 なにかをしたいと思いながらも、受験の前に勉強を教えたくらいしか彼女にはなにもしてあげられていない。少なくとも僕はそう思っている。


 十年間の付き合いは一瞬の出来事みたいで、なんだか少しだけ寂しい気持ちになる。残り少ない学生としての時間も、きっとすぐに終わってしまう。ずっと続けばいいのにと思うけれど、不思議と悪い気などしなかった。彼女といた時間が好きだったから、思い出に残っているのが嬉しいのだ。


 生まれてから今までの中で、間違いなく僕にとっての大きな存在だろう。


 それなのに真帆の背中をすごく小さく感じると、なぜか急に寂しくなってしまう。悲しくなってしまう。


 最初に出会ったときは同じくらいの背丈だった。それが中学校に入って僕の背が真帆を追い越し始め、高校になってそれが定着した。僕を守ってくれた人の背中は、こんなにも小さかったんだ。


「泣くなよ晴海」

「な、泣いてないよ」

「そうかそうか」


 真帆はしゃべりながらも、緩やかなカーブを走り抜ける。


 鼻で笑うその姿は何年経っても変わらない。バカにするし、怒られることもあるけど、ずっと僕のそばにいてくれた人の姿だった。


 今も昔も落ち着きがなくて、けれど彼女は女の子から女性になっていく。


 高校生になっても僕たちの関係は変わらないまま。変わったのは真帆を見る自分の視線。どうやって彼女を見ていいのかがわからなくなることもある。


 真帆をそんな目で見るのが嫌で遠ざけたりもした。だけど、真帆はそんな僕を叱ってくれた。無理をする必要なんてないと、優しく頭を撫でてくれた。


「真帆はさ」

「うん?」


 たぶん僕の顔は朱いに違いない。でも言わなきゃ前にも進めない。


「真帆は変わらないでいてくれる?」


 それは真帆に近付くための言葉。


 急ブレーキがかかって、坂道の途中で自転車が止まった。


 黙り込む真帆。そんな降り立つ沈黙に、僕はどうしようもない畏怖を感じる。真帆の存在を確認するみたいに少しだけ腕に力を込めると、その細いウエストが内側から返事をした。


「それは、ちょっと難しいな」


 予想外の答えが返ってきた。それは僕が求めている答えじゃない。でも、彼女が自分でそう言うのだから、僕が否定することもできはしない。


「おい、だから泣くなってば」


 振り返った彼女が、僕の目元を拭ってくれた。


「だって、だってさ……」


 嗚咽が止まらない。どうして僕は泣いているんだろう。なにが悲しくてないているんだろう。


「私だって人間さ。どうやったって変わっちゃうんだよ。自分の気持ちとは正反対にさ、誰かに、なにかに動かされることだってあるのさ。当然、誰かに惹かれることもある」


 最後の言葉が一番辛かった。その言葉だけで、真帆の気持ちが誰かに向いているということがわかったから。


「そう、だよね。うん、それが当たり前だ」

「晴海だってそうだろ? 私が「変わらないで」って言っても、晴海は絶対変わってしまう」


 言い返せなかった。その通りだ。昔はただの遊び相手で友達だった真帆への感情は、少なからず別の方向へ向かってしまった。そんな僕が言えたことではない。


「変わらない努力をしても、他人に動かされるとどうしようもないって知ってる。だから、この話はやめにしようか」

「そう言いながら泣くなって。ほら、目を閉じな」


 よくわからないが、真帆が言うとおりに目を閉じた。


 数秒後、唇になにかが触れた。柔らかくて、柑橘系の香りがする。おそるおそる目を開けると、真帆の顔が近くにあった。近いというものではない。これは、キスだ。


 顔が離れていく。そして、白い歯を見せてニカッと笑った。


「ファーストキスもセカンドキスも私のもんだな」


 小学校の頃、興味本位でキスをされたことがあった。そのときはなにも感じなかったけど、今はとてもドキドキしてる。


 僕は初めて「彼女を誰にも渡したくない」と、心の底から思ってしまった。


 でも真帆はなんでこんなことをしたんだろう。昔とは違う、今はキスの意味もわかっているはずだ。


「驚いた顔してるな」

「そ、そりゃそうだよ。こんなこと……」

「嫌だった?」

「嫌じゃないけど……」

「じゃあ、よかった?」

「――うん」

「そっか、じゃあいいんじゃないか? 人はどうやっても変わっちゃうんだ。でもさ、それは悪いことじゃないと思う」

「もしも、もしもだよ。今のキスで真帆に対して邪な感情を抱いたとしたらどうするの? 真帆は迷惑じゃないの?」


 真帆の顔が、夕日の中でもわかるほどみるみるうちに朱に染まる。


「迷惑じゃ、ないよ。晴海はさ、私と一緒で迷惑じゃない?」


 不意な答えに戸惑った。気付けば自転車はまた前進し始めて、残りの短い距離を縮めていく。僕はまた腰に腕を回し、崩しかけた体勢を立て直した。


 まだドキドキしてる。こんなにも可愛かったのか。こんなにも愛おしかったのか。


「ねぇ真帆。それってさ――」

「あーうるさいうるさい!」


 加速する。


 風の音が鳴り響く。


 耳まで朱くなった真帆。


 何も言うまいと、その背中に身を任せた。


「私の側にいてくれたら、それだけで私は満足なんだよ。そう思ってたんだ」


 忘れ物をした真帆の代わりに自ら家までの道を走ったこともあった。


 一人寂しく家で留守番していた真帆に何度も付き添った。


 真帆が風邪で寝込んだ時にお見舞いに行って、そのまま看病して風邪をうつされたこともあった。


 憧れていた中学の先輩に彼女がいることを知り、落ち込んだ真帆を精一杯励ました。


 高校に入っても勉強を教え続けた。


 もしかしたら僕にとって何気ない行動が、彼女には大きな存在になっていたのかもしれない。


 真帆のためにと考えてやったこと。何も考えないままやったこと。全部が全部良い結果に結びついたわけじゃないだろうけれど、真帆は受け止めてくれていたんだ。彼女は彼女なりに考えていてくれたんだ。


「僕も、それでいいと思ってたよ。でもそれじゃ嫌なんだって、今さっき思い知らされた」


 たぶん真帆は気付いていたんだ。僕が真帆を好きなことに。そして、僕に対しての感情が友達としての友情ではなく、異性としての愛情に変わり始めていることに。


「ありがとう」と僕が言う


「こっちこそ」と真帆が言う。


 今は真帆の顔を見ることが出来ない。でも、笑顔だって信じてる。


 真帆も僕も、もしかしたら同じだったのかもしれない。


 何気ない行動に義理を感じていて、それを返しても相手の何気ない行動が多すぎて返しきれなくなる。自分でやってきたことにも気付かないままそれを繰り返してきた。


 それが続くと相手の想いに麻痺するんだ。近くにいすぎて、どうしたらいいのかわからなくなってしまうんだ。でも気付けば、それが当然だって言えるくらい相手を大事にしていた。


 今更かもしれないけど、家に帰ったらちゃんと言おう。真帆のことが好きなんだって、ずっとずっと一緒にいたいんだって。


 愛おしい気持ちを込めて腰を抱いた。


 僕は許されたのかもしれない。真帆を好きになって、真帆を女性として見ることを。


 長い間一緒に歩んできた人と、今までとは違う想いを重ねていきたいんだ。相手を思いやるけれど、これまでとは違う思いやり方で。


 真帆の背中に寄りかかりながら見た夕日は、綺麗な朱銀に輝いていた。


 ゆっくりとブレーキがかけられて、ゆっくりと自転車が止まった。


 二人同時に自転車を降りる。そして、向かい合った。


「あのね、真帆」

「あのさ、晴海」


 僕と真帆は、二人同時に大きく息を吸った。これから同時に言う言葉は、きっと同じ言葉なんだろうなと思った。そうであれば、幸せだ。

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ヴァーミリオンの空の下 絢野悠 @harukaayano

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