法則

「たとえばさ、自分で自分の指を切り落としたとするだろう?」

「うん」

 友人はスマホに目を落としながら、ちょっと顔をしかめて頷いた。

「でさあ、障がい者になるわけだから、手当てがもらえるのかなぁ」

「はあ……」

「興味ないか」

「指がなきゃスマホやりづらいしな」

「そうだな」

「それにそんなこと考えてると、バチが当たるぜ」

「バチ?」

 俺は笑い飛ばしたけど、友人の言葉は本当になった。


・・・


「腹減ったなぁ」

 俺ははるか頭上の裂け目を眺めながら呟いた。

 そんなこと言ってたって腹が減るだけだぜ。とういうような自我が残っていたのは一日前までで、今ではあらゆるものが、俺の体内から垂れ流しになっている。あんまり見たくも考えたくもないことだが、下の方も含めてだ。

 下半身の感覚はまったくない。頭上の裂け目はそれほど遠くはないが、這って登れるほどの手がかりはない。

「助けを待つしかない」

 聞きかじっただけの、遭難時マニュアルを口ずさむ。まあ、気休めにはなっている。助けを待つしかないと言ったが、少しも動けないのだから、ほかにしようがない。

 軽装で山に入ったのは、半分は、いや、四分の一程度は自殺だった。

 普通だったら……、と言っても、なにが普通だかもわからないし、普通どう考えるかなんて、こんなことになった人間は普通の考え方をするだろうか。樹海で岩の裂け目に滑落し、おそらくはここでゆっくりと、あるいはなにか起こって急にかもしれないが、十中八九、死ぬという状態に陥って、どう考えるか。もちろん、普段から死にたがって生きているような人間ではあるが、覚悟があったわけではない。

 俺は、自分の感情に驚いていた。俺は、こんなことになっても、どこか、自分自身の生き死にの問題だと頭でわかっていながら、他人事のようにこの事態を眺めているらしいのだ。

 こうなってもまだ、俺は自分が死なないとでも思っているのだろうか。それとも、こうまで深く、生きることに絶望し、どうでも良いと思っていたのだろうか。

 とりあえず当面は生きていられる。俺が死ぬにしてはキレイな場所だ。上からは落とし穴同然の亀裂だったが、下から見上げると、日が差し込み、豊かな命が育まれていた。地下水がにじみ出ていて、なめくじみたいにへばりついて舐めたり、辺りにある食えそうなものを片っ端から咀嚼したりして、なんとか飢えをしのぎ生き延びていた。季節が夏でなければ、凍え死んでいただろう。雨が降れば同じことだ。いろいろな条件が合わさって、俺はただ、まだ生きていた。


・・・


 朦朧としている時間が増えてきた。日に日に天井の亀裂が遠ざかっていく気がする。大地に自分の肉体が埋もれて消えていく感覚。このまま消えてしまえたらなと思う。

 ある日、目を覚ました俺は、自分の親指をしゃぶっていた。なにかとても良い夢を見ていた気がするが、すぐ忘れてしまう。

 自分の親指が美味かったのだ。久々に食べた母親の手料理のような感じだ。俺自身にはそんな思い出の料理だとか、食べることで懐かしいというふうに感じた経験は欠乏しているのだが、人に聞いたか、テレビかなにかで見た印象が、いま俺の感じている感覚に相応しい気がした。

 懐かしい味だった。俺自身の味なのだから、当たり前か。そう考えて、その考えが奇妙であることに笑う。赤ん坊の頃、指をしゃぶっていた記憶が蘇ったのだろうか。おしゃぶりの記憶を、母のおっぱいの記憶を……。

 違う。そうではない。俺の指の味はもっと肉々しい、いや、肉そのものだ。油が乗った霜降り肉の味だ。噛めば噛むほどに肉汁が染み出してくる。皮はパリパリと香ばしい。やめられなかった。俺の歯が俺の肉に食い込んでいく。皮が裂けるのがわかってもやめられなかった。

 親指がなくなったのがわかったが、恐くて確認したくはなかった。俺は深い喪失感を味わった。その喪失感とは、自分の肉体の一部が欠損してしまったことというよりも、まだ食べたいのに全部、食べてしまったということのほうだった。

 それから俺は、指は一本だけではないことを思い出した。片手だけで五本、両手合わせれば十本もある。気づいてしまうと我慢なんてできなかった。俺はもうここで死ぬのだ。指なんかがなんの役に立つ? たしかに雑草を口に運ぶのには必要だが、そんなもの、俺の指の美味さに比べたら、雑草レベルだ。雑草だから当たり前か。

 俺は意識のある限り、しかし時間をかけてゆっくりと自分の指をしゃぶって、最後には噛んで飲み込んでしまった。

 十本の指をすべて食い尽くしても、俺はまだ生きていた。自分の肉に対する渇望はどんどん強くなっていく。食べれば食べるほど麻薬のように、俺は俺自身を渇望することになった。

 指が終われば、次は手のひらを、その次は腕だろうと考えたが、俺はそこで、ふっと冷静になり、腕よりも先に足を食べるべきだということに気がつけた。

 俺の足は、落下時の衝撃で神経が切れたかしてしまって、なんの感覚もない。それをどうやって口にまで運べば良いのだろう。なんにしても至難の業だろうが、腕があったほうが、やりやすいのは自明だ。

 俺は必死になってズボンを引っ張り自分の足を手繰り寄せた。すでに指をなくしていたから、簡単ではなかった。俺は軟体でもないし、神経の途切れてしまった足は固く重く冷たかった。それでも俺にはやり抜くという信念があったし、時間もあった。食欲に基づいた信念だったし、ほかにやることがないという時間だったが、俺はやり遂げられると思ったし、そうした。こんなに真剣になれたのは生まれてはじめてだ。

 俺はキリンのように首を伸ばした。足が見たことのない角度に曲がっていたが、感覚がないから関係ない。俺は自分の足、その先端、足の指と向き合った。普段だったら、汚いとか臭いという感想が出てくる場所だが、いまの俺にはフレンチのフルコースのように見えていた。俺は自分の足の指にむしゃぶりついた。

 美味かった。フレンチのフルコースを想像したからだろうか、上品なブイヨンのコクと風味が口いっぱいに広がった。しかし俺の体がこうも美味いわけはないのだ。頭がおかしくなって、こう感じているに違いないのだ。俺は疑問を持つのをやめ、ただただ自分の美味さを堪能する。甘酸っぱいソースや、ワインの酔い心地、食べたことのない子鹿の肉、トリュフやフォアグラもわかった。これがトリュフの味かと感心した。ばかみたいだが、俺の右足の中指はトリュフの味だ。味わってもらえないのが残念だ。


・・・


 目を覚ました俺は、自分が、自分の親指をしゃぶっていることに気がついた。俺は驚いた。親指は昨日、食べてしまったはずではなかったか。それどころではない。俺は両手の指をすべて、いや、足の指も、それから、ふくらはぎまでを食べ尽くしてしまったはずだ。それなのに、と、俺は上半身を動かして確認する。すべて元通りになっている。ということは、あれは夢だったのだと、俺はひとり勝手に納得する。

 それもそのはずだ。俺の肉体があんなにも美味いはずがないもの。いやしかし、俺は自分の口に含まれている自分の親指の美味さに驚いた。なんだこれは、そして、俺は夢の再現をはじめた。夢で見るよりも深く、俺は俺を味わうことができた。夢で知っていながら、感じる味はすべて新鮮で、俺の望む味を、俺の肉体は、俺に提供してくれる。

 俺は自らを味わうことしか気にしなくなった。


・・・


 目が覚めても、目が覚めても、俺は同じことを繰り返した。同じことが起きたのだ。昨日、食べ尽くしてしまったはずの自分が、夢だったように元の五体満足の姿に戻るのだ。

 その日、雨が降っていることにも俺は気づかないほど、自分を味わい楽しんでいた。雨が降っていることに気づいたのは、自分のいる場所に水が溜まり、口にまで雨水が飛び込んできたからだった。俺の人生そのものである味が濁り、俺はやっと、自分の置かれている状況を思い出した。樹海で岩の裂け目に滑落したのだ。四川で麻婆豆腐を食べていたのは空想なのだ。

 急に自分の身の回りから、あらゆる頼りがなくなった。浮かんだと思ったときにはもう流されていた。濁流に飲まれあっぷあっぷしながらも、俺は酸素なんかではなく、自分の味を求めて体をよじった。


・・・


 生きているのか死んでいるのかもわからないまま、俺は川を下っていく。断片的な記憶がある。日差しとか、動物の鳴き声、そしてドブ川、自動車の音、それらが妄想でないとしたら、俺は町へ流れ着くことができたらしい。

 人間の叫び声を聞いた。大騒ぎだった。そんなことはどうでも良かった。俺が不服なのは、巨大な何者かたちによって、縛り付けられてしまったことだ。彼らは俺を使って研究だの実験だのしているらしい。やつらがなにをしたいかなんて、俺には関係ない。問題なのは、縛り付けられて、俺は自分の手や足を味わうことができなくなってしまったことだ。

 まあいいさ、俺は俺の口内を味わっている。キャラメルキャンディのようなとろける美味さだ。

 ――人間の叫び声を聞いた。大騒ぎだった。こんな言葉を覚えている。

「一寸法師!」

 なにが一寸法師だったのだろうか。たしかに、俺にとって、なんだかこの世界は昔よりも巨大になってしまったような気がする。

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